12-2 悪霊から逃げる方法は?
この世のあらゆる物象には神が宿っている。それを〝八百万の神〟と表現する。
神代を生きるレイアは、物語を司る神だった。なぜわたしにそっくりなのかはわからない。
わたしは赤ん坊の頃、焼き芋屋さんの屋台の脇で保護された。ツクヨリ様と野々子ちゃんが、わたしと血の繋がった人間はいないと話してくれた。司録が、わたしは転生をしていないと教えてくれた。
ひょっとしてレイアは——
「お母さん?」
アサナミ様の憎悪がうなり声となり、黄泉の国を震わせた。それを合図に悪霊たちが一斉に動き出し、レイアを追う。
走りながらも、レイアはひそひそと、ひとりごとのようなささやきをくり返していた。今しがた目にした光景を言葉に変え、鶴と亀に伝え続けている。
やがて闇が途切れ、視界が一気に開けた。黄泉の国を抜けた先に広がっていたのは、高天原だった。社も鳥居もまだ存在しない。あるのは果てしない雲海だけだ。しかし肌に触れる光の質で、ここが高天原だとわかる。
異様な光景が目に入る。若きアサナギ様が千を超える数の神々を率い、巨大な岩に取りすがっていた。力を合わせ、うめき声を上げながら、岩を押し動かしている。地鳴りが響いている。
レイアとわたしは、全速力のまま、その脇をすり抜けていく。
一瞬、アサナギ様がレイアに目を向けた。「誰だ、おまえ」といぶかしむような視線。しかし何も問わず、再び歯を食いしばり、岩に肩を押しつける。それ以外にかまう余裕がないのだ。
ごう、と音を立てて、岩が動いた。黄泉の国との境界が、ゆっくりと、しかし確実に閉じられていく。岩が閉じ切る直前、隙間から黒い影がなだれ込んできた。数体の悪霊だ。狙いはアサナギ様ではなく、レイアだった。
岩の向こうから、アサナミ様の引き裂くような怒号が響く。
「地上の者たちを、一日に、千人、殺してやる——」
呪詛のような叫びは、わたしたちが遠ざかる間も、高天原の空気を震わせ続けた。
レイアは止まらない。鶴と亀に指示を出す。
「行って! 天地の境を越え、物語を届けなさい」
鶴は亀をくちばしにくわえたまま、レイアとは違う方角へ飛び去った。
高天原の足場は永遠に続いているわけではなかった。雲海の端に差しかかっても、レイアは減速せず、迷いなく踏み切る。
わたしの足も止まらない。
「ぎゃああああああ!!!」
誰にも届かない悲鳴。ブレーキをかける前に、体が宙へ投げ出される。
落下とともに、皮膚を刺すような冷たさが走った。霧だ。その感触に胸がうずく。なつかしい。この下は、まだ冥府がない頃の冥土だ。
ふわりと着地した。レイアは霧をものともせずに走り続ける。悪霊たちもついてきているに違いない。がむしゃらに追うしかなかった。
しかし、三途の川のほとりで、レイアがふと足を緩める。前方から鈴の音が聞こえてきたのだ。
霧に紛れ、小さなお地蔵さんが立っている。なぜお地蔵さんと思ったかというと、笠をかぶり、赤い前かけを着け、錫杖をついているからだ。
お地蔵さんはレイアの存在に気づき、顔を上げた。その顔を一目見るなり気づく。
エンマ少年だ。獄卒の鬼たちに焼けた銅を飲まされていたときと同じ、幼い顔つき。
レイアを見て、水晶のような瞳をぱっと輝かせた。どこか照れくさそうに手を振る。どうやらレイアとは旧知の仲らしい。
しかしレイアは足を止めなかった。自分よりも背の小さな彼の横を、無言ですり抜ける。
エンマ少年はきょとんとし、慌ててあとを追ってきた。
「レイア、どうしたの?」
「ついてこないで!」
レイアの声は切迫していた。
それでも少年は走るのをやめない。すぐに隣に並び、息を弾ませながらたずねる。
「どうして? 何があったの?」
レイアは歯を食いしばり、振り返らずに答えた。
「黄泉の国の者たちに追われているの。わたしから離れて」
少年の表情が変わった。きっぱりと告げる。
「離れるものか。ぼくらは友人じゃないか。それなら……根の国を通って、地上に逃げればいいよ。悪霊たちも、地上までは追ってこられまい」
そしてためらいなく、錫杖を持つ方とは反対の手で、レイアの手を取った。
「ほら、おいで」
迷いのないエンマ少年の声に急かされるように、レイアはその手を握り返した。二人で一心不乱に駆けていく。
背後では、アサナミ様の追手たちが尚も追いすがっていた。しかし冥土を知り尽くしているのはエンマ少年だ。霧の濃淡を見極め、わずかな流れを踏み分ける。あえて見通しの利かない場所を選び、曲がり角ごとに気配を散らす。霧を利用するたびに、悪霊たちとの距離は少しずつ開いていった。
やがて、走る速度が落ちる。天と大地を結ぶように、巨大な木の根が幾重にも張り巡らされた場所に出た。根が床になり、壁になり、橋にもなっている。根の国だ。
「気をつけて」
根は、太く構えるものもあれば、細くうねるものもある。エンマ少年はレイアの半歩前を行き、錫杖で足元を確かめ、時折振り返った。レイアが転びそうになるたびに手を引き、体を支える。追手の気配はもう遠い。
わたしはといえば、その逃亡に、たった一人で食らいついていた。二人の背中を見失うまいと、必死に根の間を追う。だが足場が悪い。木の根は滑りやすく、踏み外すたびに体が泳ぐ。何度も泥に手をついた。衣は汚れ、息は切れ、全身が生傷だらけだ。それでも助けてくれる者はいない。自分がそこにいない存在であることを、痛いほど思い知らされる。
それでも目だけはそらさなかった。この場面は知っている。そして、次に起きることも。
木の根の奥から、泣きわめく声が届いた。
「母上えええ——」
レイアとエンマ少年が、ぎょっとして立ちすくむ。
声の主はすぐに姿を現した。濃紺の衣に、ひとつに結わえた髪。感情を抑える術を知らない幼さ。嗚咽に肩を震わせ、大粒の涙を拭おうともしない。
少年時代のスサハヤノミコトだ。
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