12-1 あなたは誰?
大岩を通り抜けるとき、音も抵抗もなかった。水や空気を割る感触すらない。ただ一歩進むごとに境界がほどけていく感覚だった。
そしてついに境界を越えた。足元には土。湿気のない暗がりに、岩がごろごろと転がっている。暑くも寒くもない。空が低く、奥行きの感覚はつかめない。ここが黄泉の国か。
前方に、一人の男性の背中があった。若い。迷いのない足取りだ。若き日のアサナギノミコトに違いない!
急いであとを追った。足音は立たない。わたしの声も呼吸も心臓の音も、ここでは意味を持たない。亡霊のようだ。
ふいに、アサナギ様が立ち止まった。闇の奥、岩陰の向こうに気配がある。姿は見えない。それでも、一瞬で悟ったようだ。
「おお、アサナミよ」
アサナギ様が両腕を広げる。
「おまえを迎えにきた。ともに国作りを続けようぞ」
闇が、わずかに揺れた。
「旦那様」
女性の声は麗しく、夫への慕情に満ちていた。アサナミノミコトだ。
「わたくしはすでに、黄泉の国の食べ物を口にしてしまいました。ゆえに、ここを出ることは叶いません」
「そんな。わしを独りにしないでおくれ」
アサナギ様が絶望の声を張り上げた。
アサナミ様の声が、愛おしげにやわらぐ。
「それでは、愛するあなたのため、この地を司る神に相談してみましょう。それまでは——」
わたしは思わず息をひそめ、聞き耳を立てた。あの言葉が来る。
「決して、わたくしの姿をご覧にならないでくださいませ」
気配が闇の奥へと遠ざかっていく。
取り残されたアサナギ様は、落ち着きを失った。そわそわと座り、立ち上がり、岩に登っては降りる。何度もくり返す。
長い。待てど暮らせど、アサナミ様は戻ってこない。わたしも膝を抱えて座り込んでいた。黄泉の国もまた、時間の流れが歪んでいるのかもしれない。変化のなさがアサナギ様の精神を削っていく。そして——
「待てぬ」
アサナギ様は岩から飛び降り、アサナミ様の気配が消えた方向へと踏み出した。
「だめ!」
わたしの叫び声は溶け、そのまま闇に吸い込まれた。
アサナギ様は迷わず突き進んでいく。
ついて行かなければと立ち上がった、そのとき。
わたしのすぐ脇を、誰かがすり抜けていった。その横顔を見留め、心臓が止まったような気がした。
自分とまったく同じ顔をした女性だった。目、鼻、口元、短く切り揃えた髪の輪郭や背丈まで、寸分たりとも違わない。ただし衣だけが違う。幾重にも重ねられた小袖は軽やかで、淡い金の糸による細かな文様が織り込まれている。
女性はわたしに気づくことなく、岩から岩へと身をひそめながら、若きアサナギ様を追っていた。
「——何なの。何なの何なの何なの!」
混乱したわたしは、ぶつぶつとつぶやいた。
鏡に映したような顔立ちを見る限り、他人とは思えない。祖先か、もしくは輪廻転生の前の存在か。間違いなく、血か魂か、どちらかが繋がっている。あれ? でも、わたしには祖先どころか母親もいないし、転生もしていないのだっけ? ええい、今はどうでもいいか。エンマ様はどこだろう?
アサナミ様を追うアサナギ様。アサナギ様を追う女性。さらにその後ろを、わたしが追う。嫌な予感が、ぞくり、ぞくりと背骨をなぞる。
二人を引き止めたい。けれど、止められない。ここは黄泉の国——物語が封じられ、悲劇が何度でもくり返される場所だ。
ついにアサナギ様が足を止めた。闇の奥にたたずむ気配に向かって、呼びかける。
「アサナミよ」
次の瞬間、闇がはらりとほどけた。
わたしは、誰にも聞こえない悲鳴を上げる。
そこに立っていたのは、もはや生者の世界の言葉では形容しがたい存在だった。想像よりもはるかにおぞましい。肌は裂け、じくじくとした膿にまみれて垂れ下がっている。ところどころで骨がのぞき、衣の下では白い虫がうごめいていた。腐敗臭が鼻をつく。
「よくも、わたくしに恥をかかせましたね」
ねっとりとした声が響く。アサナミ様のただれた顔が、激怒に歪んでいる。
次の瞬間、アサナギ様は振り返りざまに駆け出した。全速力で妻から離れていく。
その背中を、アサナミ様の叫び声が貫いた。
「捕らえよ!」
黄泉の国の全域にまで届くような声だった。
「彼を捕らえて、殺しておしまい!」
すると、闇のあちらこちらが、ざわりと動いた。岩陰が動く。地の裂け目が口を開く。影の裏側から、別の影が剥がれ落ちる。形を定め切らない者たちが次々と這い出し、逃亡者に群がっていく。
アサナギ様は、くしや髪飾りを投げつけながら、懸命に逃げていく。
わたしに似た女性は? 血の気の引いた顔であたりを見回し、すぐに見つけた。
岩陰にしゃがみ込んでいる。何をしているの。早く逃げて——
そのとき、どこからともなく鶴と亀が現れた。ああ、どうしてあなたたちなの? ツクヨミ様の世界で眠っていた動物たちだ。彼女に寄り添っている。
今すぐに逃げるべきなのに、彼女は立ち上がらなかった。恐怖にすくんでいるのではない。瞳を強く輝かせ、唇をわずかに動かしている。祈りでも呪いでもない。優先すべき何かを確かに選び取っていた。
鶴と亀は、寄り添っているのではない。彼女の小声に耳を傾けているのだ。
「ほう」
湿った声が、背後から降りかかる。彼女はゆっくりと振り返った。
アサナミ様だ。溶けかけたまぶたの隙間から見下ろしている。
「物語を司る神、レイアか。それに、使いの鶴と亀。そこで何をしておる」
腐った指が、彼女の腕をぐっとつかむ。
しかし彼女はひるまなかった。
「務めを果たしています」
淡々と、しかし揺るぎなく言葉を置く。
「神話を後世へ残す。それがわたしの役目です」
アサナミ様の口元が歪んだ。
「では……わたくしのこの姿を、世間に知らしめるつもりだな?」
一瞬の沈黙。そして、彼女ははっきりと言った。
「それが、わたしの仕事です」
間髪を入れず、アサナミ様の手を振り切る。地を蹴って立ち上がり、アサナギ様と同じ方角へ疾走した。鶴は亀をくちばしにくわえ、その後をついて行く。
「レイア!」
わたしはその名前を呼んだ。もつれる足で駆け出す。
そうだったのか。胸の奥で、答えがくっきりと組み上がった。
彼女は〝物語の神〟——日本神話を最初に紡いだ神様なのだ。
思い返せば、おかしなことではないか。黄泉の国で、アサナギ様だけが目にしたはずのアサナミ様の姿が、なぜ誰もが知る形で語り継がれているのか。しかも、当人であるアサナギ様は、その詳細を語ろうとしないというのに。
答えはひとつ。その場にもう一人、禁忌の目撃者がいたのだ。それがレイア。わたしと同じ名前を持つ女神。
朝那岐命と朝那美命の〝黄泉の国伝説〟に関わっていたのは、エンマ様ではなく、レイアだったのだ。
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