11-3 どうして語りたくないの?
はっと気づいたときには、石畳の参道の上に立っていた。両足でしっかりと。
地面も、古木も、岩も、何事もなかったかのように元通りになっている。
隣を見ると、ヒノテラス様が肩で息をしていた。
ツクヨリ様は鎌を杖代わりにし、ふらふらしている。
スサハヤ様の衣は乱れ、汗まみれだ。
戦いが幻ではなかった証拠だった。
アサナギ様だけが、涼しい顔でこちらを眺めている。まるで子どもたちの遊びを見守る老人のように、白髪を風に揺らしていた。
「少しは頭が冷えたかのう?」
拍子抜けするほど、おだやかな声だった。縁側でお茶を飲みながら話すときの口調だ。
スサハヤ様が即座に噛みつく。
「冷えてねえよ! 見せつけやがって、このクソ親父——」
「久々の親子喧嘩じゃ。張り切ってしもうた」
「子ども相手に本気を出す親が、どこにいるんだよ!」
「本気? まさか。神が本気で争うわけがなかろう。それでは人間たちに示しがつかん」
アサナギ様が、当然とばかりに首を振る。
あれで手加減していたなんて! 高天原のロイヤルファミリーは、やはりとんでもなく強力だ。
「あ、ああ……本気じゃねえよ……本気なわけがねえだろ……」
スサハヤ様が口ごもり、汗をぶるると振るい落とす。
ツクヨリ様も、死んだ魚のような目をしていた。
どうやらこちら側は全力だったみたい。
わたしは、頬に感じる涙の跡をすばやくぬぐった。
「アサナギ様。わたし、エンマ様のことが好きです」
告白を耳にしたヒノテラス様が、嬉しそうにほほ笑む。
ツクヨリ様は、ぽけーっと首をかしげていた。
スサハヤ様は、「げっ! 男の趣味が悪いな!」と吐き捨てる。
アサナギ様はうなずいた。
「そうか。これでひとつ、自分が見つかったのう」
「で、では……黄泉の国での出来事を取材させてくださいますか?」
「それとこれとは話が別じゃ」
アサナギ様が、ぷいとそっぽを向く、
わたしは膝から崩れ落ちた。
「ええっ……今、とても良い雰囲気だったのに……わたし、心を開いたのに……」
「恋愛話と禁忌を等価値にするでない、若輩者」
言い返す言葉もない。
アサナギ様はにべもなく腕を組んでいる。さすがは最古の神。手ごわい取材相手だ。
「でも、アサナギ様にも、アサナミ様を愛していらっしゃったのでしょう。愛のために、黄泉の国へ追いかけていったのではないですか」
「愛か。その結果がどうなったかは、すべての者の知るところじゃ」
返ってきたのは、乾いた笑いとも、落胆ともつかない声だった。
「ええ。あなたはアサナミ様を連れ戻すために黄泉の国へ赴き、約束を破ってアサナミ様の怒りを買い、岩で封印してさらに怒らせた」
「よくもまあ、張本人を前に、そうも恥を並べ立てられるのう」
「でも、残ったのは結果だけではないでしょう。あなたの中には思いがあったはずです」
食い下がるわたしを、アサナギ様はあきれたような表情で見やっている。
「嫌じゃ。語りたくない」
「では、質問を変えます。あなたが語りたくない理由を教えてください」
アサナギ様のあきれ顔が、いぶかしげな表情に変わった。やがて視線を外す。
「語りたくない、というのは訂正する。わしは、語る資格がないと思っておるのじゃ」
反対に、わたしはアサナギ様から目を逸らさなかった。その横顔があまりにも悲しげだったからだ。
遠くを見つめたまま、アサナギ様が続ける。
「あそこで起きたことを語れば、わしは悲劇の当事者になれる。妻をのぞいてしまった愚か者にも、妻に殺されかけた被害者にもなれる。だが、そうしてしまえば……わしは、自分が選ばなかったことから逃げてしまう」
しわに縁取られた瞳に、薄く光がにじむ。それが涙だと気づくまでに、少し時間がかかった。
わたしは何も言わなかった。問いを重ねない。励まさない。涙が出たら、待つ。取材のルールであり、相手の気持ちに寄り添えば自ずとそうなることだ。
「確かに愛しておった。だから追いかけた。しかし、黄泉で見たものは、わしが愛したアサナミではなかった」
そこにいるのは、神話の始祖ではなく、ひどく傷ついた一人の老人だった。
「わしが後悔しておるのは、妻を垣間見てしまったことではない。踏み出さなかった。抱きしめなかった。愛することができなかった。なめらかな肌が腐り切り、美しい衣のかわりに蛆をまとった妻を———」
涙がしわを越え、いくつも流れ落ちていく。
気づけば、わたしも泣いていた。だめだ。話し手の感情がたかぶっているときこそ、聞き手は冷静でいなければならない。それなのに……
アサナギ様が低く言う。
「他に、聞きたいことはあるか」
わたしは鼻水をすすり、首を横に振った。
「いいえ。ありません。これ以上聞けば、わたしは、あなたの話を自分が納得できる形で解釈し、きれいに並べてしまう。そんな記録をしたくはありません。救われなかった心を、自己満足で救いたくないのです」
そのとき、アサナギ様の顔が、ぱっと晴れた。今しがたまで頬を濡らしていた涙は、まるで蒸発したかのように跡形もなく消えている。
「なるほど。そなたのような者こそ、証人に向いておるのじゃろうな」
声色もすっかりほがらかだ。
わたしはあ然としていた。アサナギ様の顔を舐めるように見回してしまう。
「あのう、アサナギ様。涙はどこへ……?」
「嘘泣きじゃ」
アサナギ様が悪びれもせずに言う。
「な、な、何を、子どものようなことを……」
わたしは抗議を始めた。
「わたしの涙を返してください! この気持ち、どうしてくれるんですか」
「返却不可じゃ」
「ひどい!」
「いやはや、余の伝説といえば、皆が飽きるほど語り尽くされておるじゃろ。これほど真剣に聞いてもらえたのは久方ぶりで、気分が乗りすぎてしまった。そなたは取材がうまいのう」
かっかっ、と豪快に笑うアサナギ様。その茶目っ気には、ヒノテラス様と通ずるものがあった。腹を抱え、今度こそ本物の涙を流している。笑いの涙だ。
わたしは釈然としないまま、心の中で〝涙は待て〟と念仏のように唱えていた。
ひとしきり笑い終えたアサナギ様が、目尻をぬぐう。
「というわけで、黄泉の国での一件に、エンマはまったく関与しておらんぞ。残念じゃったな」
「そんなはずがありません! エンマ様は、あなたが黄泉の国を岩で塞いだことを知っていました。息子であるスサハヤ様よりも先に知っていたのですよ!」
「エンマは物知りじゃのう」
アサナギ様が茶化す。
いきどおるわたしを前に、ツクヨリ様が空気のようにすっと会話に入った。
「……父様。ぼくはエンマの記憶の再現を試みました。ところが、できなかったのです。あなたが封じたではありませんか?」
「月の記憶に鍵をかける力など、余にはないぞ」
「そんな。では、一体誰が……」
アサナギ様がわたしに向き直った。楽しそうな目つきだ。
「そなたが流してくれた涙を、このような形で返すのはどうじゃ」
肩を小さく震わせ、まだ笑いの余韻を引きずっている。何なの、この人。
「黄泉の国への入り方を、教えてやろう」
アサナギ様がさらりと発した言葉。最初は意味がわからなかった。
真っ先に反応したのは、スサハヤ様だった。
「はあああああ!?」
高天原に絶叫が響き渡った。
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