11-1 朝那岐命ってどんな神様?
ヒノテラス様の手を取った次の瞬間には移動していた。光がなだれ込み、視界が真っ白に焼きつく。涙がにじむ。まばたきをくり返すと、ようやく見えてきた。
どこまでも高く澄み渡る空のもと、雲海を土台にし、無数の社が密集している。大きなものも、小さなものも、古びたものも、修復されたばかりのものも。簡素な祠や鳥居だけの連なりもある。それらが隙間なく肩を寄せ合っていた。
「ここが、高天原……」
恐る恐る足踏みをしてみると、雲海は逃げずにやわらかく受け止めてくれた。
ぞくぞくぞくぞく。いつも通りの好奇心。それに加え、どこかなつかしさを感じる。質問せずにはいられない。
「ここも、死後の世界ですか?」
「いいえ、冥土とは違う。浄土や地獄とももちろん違う。ここにあるのは、日本がまだ名を持たなかった時代から続く生よ」
ヒノテラス様が耳元でささやいた。
ツクヨリ様はわたしの官服のすそを握り、後ろに半分隠れている。
スサハヤ様は筋骨隆々の腕を組み、獣のようにあたりの匂いを嗅いでいた。
わたしたちが降り立ったのは、ひときわ高い位置にある御殿の前だ。ヒノキの色と香りがそのまま生きている。回廊の手すりには、青、黄、赤、白、黒の五色の玉が据えられていた。茅葺屋根が、空に従うような角度でかかっている。
「立派な御殿……」
「わたしの住まいよ」
ヒノテラス様が当たり前のことのように言った。
「人間たちがわたしを祀ってくれている限り、わたしはここで生きていく」
「ヒノテラス様が存在するから祀られるのですか? 祀られるからヒノテラス様が存在するのですか?」
「その両方ね」
そのあり方は、冥府の仕事と似通っていた。もしかすると、この理は特別ではなく、あらゆる事象に共通する普遍的なものなのかもしれない。
「今日はここが目的地ではないわ。行きましょう」
四人で連れ立ち、ひしめき合う社の隙間を進んだ。どこからともなく鈴の音が聞こえ、様々な声色の祈りが重なり合う。
〝陸上の大会で優勝できますように……〟
〝なくしたイヤリングが見つかりますように……〟
〝おばあちゃんの病気が治りますように……〟
「あの声は、何ですか?」
「今このときも誰かが神に手を合わせていて、それが届いているのよ」
ヒノテラス様が優しく答える。
わたしは足元に目を移し、はっとした。
「影がない!」
光は上から差すのではなく、あらゆる方向から均等に満ちていた。影のかわりに、物体の輪郭がくっきりと際立つ。風がゆっくりと流れ、全身に蓄積されていた憂鬱を、そっと薄めていくようだ。
高天原を住まいとしているのは神々だけではなかった。狛犬や狐、鹿などが元気に駆け回っている。尾が雲海を切り、一瞬の軌跡を残す。猿は社の梁を伝い、蛇は注連縄を這う。
「ツクヨリ様の世界で眠っていた鶴と亀は、彼らの仲間ですか? 同じ気配を感じます」
「……うん。神の使い——こちら側の動物なのだろうね。身を捧げ、隕石から日本を守ってくれた」
ツクヨリ様が、動物たちをぼんやりと見渡しながら言う。
「スサハヤ様は、ここを追放されたのですよね?」
「おれに対する質問だけ失礼だな」
ぶすっとふてくされるスサハヤ様。
ヒノテラス様がからからと笑った。
「わたしが、すんすんを追放してやったのよ」
「ちょうど高天原に飽き飽きしていた頃だった。おれが退屈するくらいには、窮屈な場所ってことだな」
「そういうことにしておきましょうか」
ヒノテラス様にいなされ、スサハヤ様は悔しそうに歯ぎしりをしている。
ツクヨリ様は相変わらず、わたしの後ろに隠れていた。
この噛み合わない三姉兄弟が一緒に現れたら、父である朝那岐神はどのような顔をするか。それもまもなくわかるだろう。
密集から外れた位置にある、一棟の社にたどり着いた。決して目立つ外観ではなく、古木と岩々に囲まれている。他を見下ろすでも、見上げるでもない。中心ではないが、外縁でもない。
四人で一礼し、鳥居をくぐる。真ん中を避けて通った。そこは主祭神の通り道だからだ。一歩入った瞬間、空気が変わる。鳥居の外にあったざわめきが、膜一枚を隔てて遠ざかった。奥から聞こえる祝詞の声につられ、参道の石畳を歩き出す。
社の前に、老人が立っている。背は高くない。真っ白な長髪に、飾り気のない衣。顔には深いしわが刻まれている。笑いじわでも、怒りじわでもない。最も長く日本を見守り続けてきた者だけが持つ、動かないしわだ。
間違いない。アサナギノミコトだ。
「子どもたちよ」
低くしゃがれた声だった。
「三貴子がそろって挨拶にくる日が来ようとは。天変地異の前触れでなければよいが」
わたしは反射的に頭を下げた。それはもう、地面にめり込みそうなくらい深々と。緊張で背中まで固まる。
しかしヒノテラス様は、スキップのような足取りで駆け抜けていった。一直線にアサナギ様へ飛びつく。
「おパパ上ーっ! ご機嫌麗しゅう!」
お……おパパ上???
「おお、ヒノテラス。息災じゃのう」
アサナギ様がヒノテラス様を抱き返す。完全に、子煩悩の父親の顔だ。
ツクヨリ様が、そっと目を逸らす。
スサハヤ様にいたっては、完全にしかめっ面だ。
「……始まった」
ぼそり。心底うんざりした声だった。どうやら恒例行事らしい。
「おパパ上、見て見て。弟たちを連れてきたの」
ヒノテラス様は小鳥のように飛び回り、ツクヨリ様とスサハヤ様の背中を、どんっ、と押した。
二人はよろめきながら、しぶしぶ前に出る。
「ツクヨリ、スサハヤ。久しいのう。ほれ、もっと近う寄らんか。顔を見せておくれ」
「ようく見えているだろうが——」
「おパパ上。すんすんは照れているのよ」
「照れてねえっ!!!」
牙をむくスサハヤ様とは対照的に、ツクヨリ様はもじもじとうつむいていた。
アサナギ様がその顔をのぞき込む。
「ツクヨリよ。近頃はどこで何をしておる。ますます縮んだのではないか? ちゃんと食べておるのか」
うーん、過保護。兄弟が引きこもったり、万年反抗期になったりするのも、理解できる気がする。
ツクヨリ様がつぶやいた。
「子ども扱いしないで……」
「子どもじゃろう」
「うう……」
「容姿の話ではない。そなたらは皆、余の子どもじゃ」
しわだらけの手が、そっとツクヨリ様の頭に触れる。
ツクヨリ様の頬が真っ赤に染まった。
——よかった。アサナギ様って、いい人みたい。
ヒノテラス様のような他者を導く威光も、ツクヨリ様のような神秘的な静けさも、スサハヤ様のような道を切り開く剛力も、彼からは感じられない。それでも、今この鳥居の内側で響く祝詞は、すべて紛れもなく彼に捧げられている。
「おパパ上。今日は、ぜひ紹介したい子がいるの」
ヒノテラス様が、今度はわたしの背中を押し出す。
アサナギ様の視線がまっすぐにこちらへ向いた。その目には、不思議な静けさがあった。
「……はて」
突然の来訪を責める響きも、拒む色もない。
「すべての命には覚えがあるつもりでおったが、そなたのことは知らぬな」
わたしの喉がかすかに鳴る。量られるような感覚だった。
「冥府から参りました。エンマ大王の部下の、太野 礼阿と申します」
声が震える。
ヒノテラス様が助け舟を出してくれた。
「彼女は一流の記者よ。ヤタガラスが運んだ記事をお読みになったでしょう? わたしたちは、彼女のために仲直りをしたの」
「そうであったか。これほど気性の異なる姉兄弟たちと心を通わせるとは、並みのことではない。礼を言わねばならぬな」
「い、いえ! わたしはただ、取材をさせていただいて——」
そこへ、ヒノテラス様がぬるりと顔を寄せてきた。
「れいれい。お礼がわりに、おパパ上にお願いしたいことがあるんじゃない?」
何度もウインクをし、合図を送ってくる。
後ろでは、ツクヨリ様とスサハヤ様が〝今だ〟〝言え〟という顔でうなずいていた。
三人に勇気をもらい、思い切ってもう一歩、アサナギ様に近づく。
「アサナギ様。あなたの〝黄泉の国伝説〟について取材させていただけませんか?」
——その瞬間。高天原を吹き抜けていた風が止んだ。獣たちの気配が消える。鈴の音も、祈りの声も、すべてが遠のいた。
「太野礼阿。そなたは語れと申すのか。余の最も触れられたくない記憶を」
落ち着いた声色なのに、地鳴りのように腹へ響く。
ヒノテラス様とツクヨリ様が青ざめ、スサハヤ様でさえも表情を消していた。
「そなた、死を軽んじておるのか?」
アサナギ様の言葉に、息が止まったような気がした。
描写が多くなってしまいました。
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