10-2 どうしたら逃げられる?
司命に司録、桃鬼さん、桃爺、桃婆、色鬼たち、野々子ちゃんが、続々とエンマ様をのぞき込む。
「エンマどのじゃて? そんなわけがなかろぉ」
「でも確かに、この顔……美男子の片鱗があるぞ……」
「若いのに 理知と落ち着き 秘めている。冥府じゃ他に いないタイプね」
「どういう意味だよ。おまえ、やっぱり退治しておくべきだったか」
最後にぼやいたのは、桃鬼さんだ。野々子ちゃんとのいがみ合いが始まる。
そのとき、背後で大きな崩落の音がした。走ってきたばかりの廊下の天井が落ちている。霧の中に砂煙が立ちのぼった。
「とにかく、急いで冥府を出るよ。崩れる前に!」
ひびの走った床を踏みしめながら、わたしは叫んだ。
「帳面はどうするのです……?」
司録が壁際の本棚を見回す。
「ぼくの部屋のロウソクも……」
司命もぼそりと続けた。
「鍋や包丁は……」
桃鬼さんまで、不安げに厨房の方角を振り返る。
「それはあとで考えるの! 今は全員で無事に脱出することが最優先!」
わたしは全員を見渡し、言い切った。
一瞬のためらいのあと、大きなうなずきが返ってくる。
「エレベーターは途中で止まるかもしれません。死者たちの階段を下りましょう」
司録がてきぱきと指示する。
「エンマ様は、わしらが担ぐ。れーあより足が速いからのぅ」
にんまりと笑う桃爺を見下ろし、わたしは戸惑った。
「きみたちが運ぶには、重すぎない?」
「色鬼たちと、ちからを合わせるのじゃ。これまでどーりな」
桃婆が、えっへん、と胸を張る。
得意げな表情の色鬼たちが、ぞろぞろとわたしの周りに群がった。
わたしはエンマ様を彼らに預けた。指先が離れる。一瞬だけ、二度と会えないのではという不安がよぎった。でも今は自分たちを信じるしかない。
「行くぞ!」
司命が声を上げた。
司命は桃鬼さんに、司録は野々子ちゃんに肩を貸し、大急ぎで広間の脱出を図る。
床がうねり、石が降り注ぐ中、最後尾についたわたしは、全員の背中を確認しながら走っていた。広間を突っ切り、階段を下り始める。
そこで大変なことに気がついた。心臓がどくんと跳ね、一気に血の気が引いた。
広間に閻魔帳を残してきている。〝閻魔大王〟の力の源。あれがなければ、エンマ様は、閻魔に戻れないのではないだろうか——
振り返ると、崩れ落ちる広間が見えた。玉座が中央にある。
「……っ」
戻れば間に合わないかもしれない。それでも歯を食いしばり、踵を返した。
「焼き芋!?」
わたしが十段ほど戻ったところで、その動きを察知した司録が声を上げる。
ちらりと振り返り、見えたのは、迷わずこちらへ駆け寄ろうとする双子だった。
「だめ! 先に進んで!」
反射的に叫ぶ。声が反響する。
次の瞬間、低い震動に襲われた。足元が沈む。バキバキッという轟音が鳴り、階段が裂けた。わたしと双子の間を真っ二つに割るように。
「司命、司録——!」
双子の姿ががれきにかき消える。無事を確認する余裕もない。
わたしは無我夢中で階段を上り、そのまま広間へ飛び込んだ。着地と同時に、足裏から脳天まで衝撃が突き抜ける。
顔を上げた。そこはもう、七十年間慣れ親しんだ広間ではなかった。柱は傾き、天井は亀裂だらけ、玉座の周囲の床はひしゃげている。無数の帳面が、吹き荒れる風に巻かれている。息を吸うたびに、砂塵が喉に刺さった。
それでも。
「あった……」
玉座の前。閻魔帳は机の上だ。
走る。空間が潰れる音がすぐ後ろまで迫っている。視界が白く染まる。でも、止まるわけにはいかない。
台座に飛び乗り、閻魔帳をかっさらった。
「よし、取った——」
しかし、巨大な影がぐらりと落ちる。見上げると、地獄の門を挟んで立つ柱が倒れてくるところだった。避けられない。とっさに閻魔帳を抱きしめる。
ああ、わたし、もう一度死ぬんだ。ぎゅっと目をつぶった。
そのとき、頬に風を感じた。荒々しい。落ちてくる柱の軌道が逸れ、轟音とともに床に叩きつけられた。それだけではない。足元に水が走り、わたしを中心に床をなぞって渦を巻く。
隣に立っていたのは、スサノオノミコトだった。巨大な太刀を肩に担いでいる。刃から嵐がほとばしっていた。これが天羽々斬——
「ったく。帳面ひとつで命を捨てる気か」
スサノオ様が吐き捨てた。瞳は油断なく広間を見渡している。
わたしは口をぱくぱくするしかできなかった。
スサノオ様が天羽々斬を振り下ろす。ぶわ、と巻き上がった風が、がれきを押し返す。同時に水が奔流となって走り、わたしたちの前に空白を作り出す。
「ついてこい!」
短い命令。
弾かれたように台座から飛び降りた。背後でまた天井が崩れる。でも、怖くない。前でスサノオ様が道を切り開いてくれているから。
「おっせえなあ! のろま!」
スサノオ様が振り返りざまに怒鳴る。でもその声はどこか楽しそうだった。
風に背を押され、わたしは閻魔帳を抱えたまま全力で駆けた。
広間を飛び出した先でスサノオ様が急停止し、その背中に激突した。あるはずの階段はごっそりと崩れ落ち、闇が口を開けている。
「他に降りる方法はねえのか?」
「エレベーターが……」
壁際を指差す。死者たちの目に触れないよう、巧妙に隠された箱。今や扉は半端に開きっぱなしだ。壁の穴からは、暗い昇降路が丸見えになっている。
「でも、この様子だと、すでに壊れていますね……」
「わかった、乗るぞ!」
「何がわかったんですか?」
十分にツッコむ暇もなく、ぐい、と腕を引かれ、そのままエレベーターに押し込まれた。
「へ!? スサノオ様、待ってくださ——」
言い終わる前に、スサノオ様が天羽々斬をかざす。
「踏ん張れ!」
エレベーターを吊るすケーブルが断たれた。内臓が浮く。
続いて、どん、と天井の上に重み。スサノオ様が飛び乗ったのだ。
「ぎゃああああああああ!!!」
「ひゃっほーーーう!!!」
二人一緒に、重力のまま、箱ごと真っ逆さまに落ちていく。
あ、今度こそ終わった。
わたしは絶望し、ただただ閻魔帳を抱きしめていた。
墜落の直前、水がクッションのように広がった。落下の勢いが、ぐにゃりと歪む。それでも衝撃はすさまじかった。全身を貫かれる。あっけなく投げ出された。エレベーターは粉々に砕け、四散する。
「ひいいいいいい!!!」
地面を転がって転がって、砂と石にまみれながら、ようやく止まった。すぐには動けない。耳がキーンと鳴っている。
やがて、恐る恐る顔を上げた。そこは三途の川のほとりだった。
スサノオ様は、何事もなかったように敢然と立っている。どうして平気でいられるのよ。
「焼き芋! 無事でしたか!」
司録が駆け寄ってきた。その後ろから、司命も。冥府の仲間たちは全員そろっている。エンマ様はやわらかな草むらの中に寝かされていた。
安堵に気を緩めたそのとき、彼らの向こうで、ごう、と音がした。冥府の城壁が、屋根が、搭が、落ちていく。もはや誰にも止められない。
わたしたちが暮らした家は、目の前で、完全に崩壊した。
平日は毎朝7時頃、ゴールデンウィークはお試しでいろんな時間に投稿してみます。




