10-1 どうやって逃げる?
カーテンの向こうにいたのは、獄卒の鬼だった。一体ではない。四体がかりで、一人の少年を押さえつけている。
少年は床に膝をつかされ、足首を踏みつけられていた。両腕を背後からねじ上げられ、首には鋭い爪が食い込んでいる。
すぐにわかった。
「……エンマ様?」
幼さの残る輪郭。長いまつ毛。背中を無理やり反らされ、荒い呼吸をくり返す唇。その奥に、見慣れた気配が確かにある。間違いない。子どもの姿をしたエンマ様だ。
抵抗はない。いや、できるはずもない。
一体の鬼が、ずしりと重そうな器を持ち上げた。赤く鈍く光る液体が、ふちまで満たされている。ねばつく泡が弾けるたびに、焼けた金属の臭いが漂った。鼻の奥がひりつき、喉が反射的にしまる。これは、溶けた銅だ。
鬼が、エンマ様のあごをつかむ。無理やり口を開かせる。そして——
どろり。灼熱の銅が口へと流し込まれた。
エンマ様の胸が上下し、悲鳴が溢れる。のたうち回り、首筋に血管が浮き上がる。床に突き立てた爪が、みし、と嫌な音を立てた。
鬼たちは慣れた手つきで淡々と続ける。逃げないように。失神しないように。舌を噛み切らないように。それが日課であるかのように。
エンマ様の顔は真っ赤だった。額から汗が噴き出し、床に落ちる前に蒸発する。唇はただれ、唇の隙間から銅の鈍い光が見え隠れしている。喉から食道、胃まで焼かれ、体の内側は壊滅しているはずなのに、外側は保たれている。これでは苦しいばかりだ。
「やめて! やめてよ——」
考えるより先に体が動き、鬼たちに突進する。顔を固定されたまま、エンマ様が横目でこちらを捉えた。驚きと、戸惑いと、恐怖がないまぜになった視線だった。
鬼たちが一斉に飛びかかってくる。初めて冥府に来た日と同じだ。抵抗し、とにかく鬼をエンマ様から引き離そうともがく。
そのときだった。
「……れ、あ、に、手を、出すな」
喉を引き裂かれたような、がらがらの声。
「地獄へ、帰れ」
短い命令だった。鬼たちは異議を唱えるように牙を剥くが、エンマ様には逆らえない。まだ〝閻魔〟の力が完全には消えていないのだ。鬼たちは名残惜しげな視線をわたしに向け、ぱっと姿を消した。
膝をついたまま、エンマ様の頭ががくりと垂れる。
すぐにエンマ様の隣にひざまずき、肩を抱き寄せた。体温の高さが衣越しに伝わってくる。長い髪が垂れ、顔は見えない。
——冥界では、本質が容姿に現れる。苦痛に耐え切れず、エンマ様の心は少年時代に退行しているようだ。女性たちの甲高い悲鳴だと思っていたものは、声変わりをする前のエンマ少年の声だったのだ。
「エンマ様。一体、何があったのですか」
わたしは震える指で、エンマ様の髪をかき上げた。
エンマ様のまぶたがわずかに震える。まつ毛の下から光がにじんだ。澄み切った水晶のような瞳。意識は朦朧とし、焦点の定まらないままわたしを見上げた。
「……レイア?」
冥府に来てからの七十年間で、初めて名前を呼ばれた気がする。喉を通るのが精一杯の、かすれ切った音。胸がしめつけられる。
「はい」
「これは夢だ。レイアが再びおれの前に現れるなんて」
ひゅう、ひゅう、と苦しげな呼吸をくり返しながら、幼いエンマ様がほほ笑む。熱さも痛みも残っているはずなのに、言葉が幸福にほどけていく。
「エンマ様。一体、どうしてこんなことに——」
「案ずるな。じきに治るからね」
「こんなの、地獄と同じではありませんか! どうしてエンマ様がこんな目に……」
肩を抱く腕に、無意識に力がこもる。
エンマ様の唇から、血と銅の名残がしたたり落ちる。
「おれは罰を受けているんだ。死者を裁き、地獄へ落とす罪だよ」
これを強いられているのではなく、自ら受け入れていると知り、がく然とした。黙って、誰にも見せずに、毎日欠かさず、ずっとずっと前から。
「なんて理不尽なの。エンマ様に罪はない。だって、秩序を守るための役目じゃないの」
「それでも、それがおれの仕事なんだ。誰かが背負わなければ……」
「だったら、あなたじゃなくていいです。こんな仕事、このまま辞めてしまえばいい」
はっきりと言い切る。
するとエンマ様は、はは、と無邪気に笑った。空気が抜けるような笑い方だったが、わたしは初めてエンマ様の笑顔を見た。
「それはできないよ……だって、おれが閻魔になったのは……」
エンマ様は、そこで口をつぐんだ。視線が虚ろに泳ぐ。言い淀んでいるのだ。
わたしはその顔をのぞき込み、安心させるように髪を撫でた。
「お願い。教えて。あなたを救いたいの」
「言えないんだ。そういう契約だから」
「契約を破ったら、どうなるの?」
「おれだけじゃない……レイアも燃え尽きてしまうよ……」
雷に打たれたような衝撃だった。エンマ様が〝閻魔〟になった経緯には、わたしも関係しているの?
「それでもいいの」
わたしはエンマ様の細い体を抱きしめた。
腕の中のエンマ様が、ひとりごとのようにつぶやく。
「今度は間違えない。きみは、正しい場所へ逃げるんだ……」
エンマ様の力が抜けた。意識が完全に落ちたのだ。
彼を置いて逃げられるわけがない。わたしはエンマ様を抱え、立ち上がった。
執務室を飛び出す。廊下の崩壊はさらに進んでいた。あちらこちらにひび割れが走り、壁が歪み、どこからともなく低いうなりが響いている。
がれきが降ってきた。とっさに体をひねる。エンマ様をかばった肩に痛みが走った。でも、離さない。さらに強く抱き寄せる。エンマ様が子どもの姿になっていてよかった。そうでなければ運べないところだ。
「大丈夫。絶対に、連れて行きますから」
聞こえてはいないだろうが、励ますように声をかける。
「わたしが逃がしてあげますから」
広間に駆け込んだ。司命、司録、桃鬼さん、桃爺、桃婆、色鬼たち、野々子ちゃんがそろっている。桃鬼さんは頭を、野々子ちゃんは腹を、包帯でぐるぐる巻きにされていた。
その姿を見て、思わず涙がにじむ。
「桃鬼さん! 野々子ちゃん! 目を覚ましたの?」
「いやあ、しぶとくてごめんな」
桃鬼さんが、へらっと笑う。
その尻を、野々子ちゃんが思い切り蹴飛ばした。
「死んだって 足りないほどの 罪でしょう。生きて苦しみ 償いなさい」
そして二人そろって「いたたた」と叫び、膝から崩れ落ちる。あざや切り傷も目立つが、元気そのものだ。二人の生命力に、こちらが救われた。
「で、れーちゃん。そちらのクソガキは、どちら様?」
司命がいじわるな視線を向けた先は、わたしの腕の中で眠るエンマ様だ。
「エンマ様だよ」
「「「「「「はあっ!?」」」」」」
広間にいる全員が、ひっくり返ったように叫んだ。
ゴールデンウィークはお試しでいろんな時間に投稿してみます。




