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8-3 次のお客様は?

 〝わかり合うことは、優しいだけでは叶わない。しんどさを伴うんだよ〟


 いつか瓜生(うりゅう)先輩が言っていた気がする。

 当時のわたしは、その意味を理解したようでしていなかった。なぜなら、こちらが相手のことさえわかればいいと思っていたからだ。


 けれど、違う。目の前の光景がそれを教えてくれている。桃鬼さんと色鬼たち。逃げずに何度も関わり直し、それでも完全にはわかり切れないまま、そばに立ち続けること。それが家族なのだろう。


 やり直す。やり直す。ときに周りを巻き込んで。そうしているうちに、わたしたちすらも家族になっていくのだろう。


礼阿(れいあ)ちゃん。きみは不思議な子だ」


 膝を顔をうずめた桃鬼さんがつぶやく。


「七十年前に礼阿ちゃんが初めて食堂に来たとき、エンマ様に近づけて、弱みを探らせようと思った。まさか礼阿ちゃん自身が、その弱みになるとはね」

「エンマ様は、桃鬼さんが考える以上に部下思いですよ。〝大切な部下〟には、あなたも含まれています」


 わたしの言葉に、桃鬼さんは軽く笑った。


「どうだかね。どちらにせよ、謀反(むほん)を起こした罰で、じきに地獄に送られるさ」


 そしてそのまま、意識を失う。


 地獄送り。正直、その可能性は高い。だって桃鬼さんは、野々子ちゃんを……


 しかしそのとき、かすかなうめき声が聞こえた。全員の視線が一斉にそちらへ向く。横たわる野々子ちゃんの胸が、わずかに上下していた。


「おい、あの娘、息があるぞ!」


 桃爺が、びっくり仰天という感じで叫んだ。


「急げ急げ! ちりょーじゃ!」


 桃婆も慌てて声を張り上げる。

 色鬼たちとともにが野々子ちゃんを囲み、力を合わせ、広間から担ぎ出す。司命と司録の体を、ふぎゅっと踏みつけにしながら、廊下を駆けて行った。


 一気に力が抜ける。よかった……野々子ちゃんは生きていた。涙が出そうになり、ぐっとこらえる。泣くのはあとでいい。目を覚ました野々子ちゃんと顔を合わせてからにしよう。


 エンマ様が尻もちをついたことは、頭からすっぽりと抜けていた。何気なく振り返り、ようやく気づく。今や尻もちどころではない。石床に仰向けに倒れている。


「エンマ様!?」


 エンマ様は目を閉じている。血の気はなく、呼吸が浅い。濡羽色(ぬればいろ)の長髪が床に広がっていた。


 嫌な胸騒ぎ。頭の真ん中で、最悪の可能性が形になっていく。

 弾かれたように台座へ上がった。机の上に手を伸ばし、震える指で閻魔帳(えんまちょう)をめくる。一番新しいページに行き着く。


 〝退座(たいざ)


 わたしはがく然とした。その美しい二文字は、書かれたばかりでまだ墨が乾いていない。艶を帯びている。

 エンマ様はすでに役目を放棄していた。わたしが野々子ちゃんと格闘している間に、アマノジャクにそそのかされ、自ら玉座を降りてしまったのだ。


 しかし——


 筆の運びを指でなぞる。よく見ると、〝座〟の字の最後の一角だけが記されていない。直前に、わたしが閻魔帳を奪い取ったのだろう。


「……〝退座〟は、まだ成立していない?」


 最後まで書き切っていないことが、エンマ様の消滅を食い止めているらしい。しかし安心なんてできない。重い病に伏した人のように、その呼吸は今にも途切れそうだった。


 へなへなとその場で座り込む。あたりは血だらけ、床と壁はひびだらけ。夜が明けたら、閻魔不在の広間に死者たちがわんさかやって来る。どうしたらいいの。どうしたら——


 ・・・・・・・・・・


 司命と司録の頬をぺちぺちとはたき、無理やり起こした。三人がかりで、エンマ様を執務室へ運ぶ。お、重い……すらっとして見えるのに、案外、筋肉質なんだ。


 あれほど近寄るなと警告された部屋。前回押しかけたのは、ヒイノミコトの裁きのあとだ。あのときは廊下まで熱気が漏れていたが、今は落ち着いている。なぜだろう?

 ためらいこそあるが、禁じられているからこそ様子が気になる。それなのに、扉を開けてみると——


「普通ですね」


 司録があっさりと言う。


「泣き叫ぶ美女もいない」


 わたしがうなずく。


「……つまんな」


 ぼそっとつぶやく司命の頭に、司録が手刀を落とした。


 深い朱色と墨色を基調にした室内。壁には山水画が掛けられ、異国感のあるお(こう)の残り香が滞留している。和風とインド風を混ぜたようなしつらえ。けして華美ではなく、息苦しいほど多くの書類が整然と並んでいた。

 ここが裁きの広間の延長、〝閻魔大王〟の本拠地だ。


 寝台を見つけ、そこにエンマ様を寝かせた。エンマ様は相変わらず苦しげな呼吸をくり返している。〝退座〟を書き終えていなくても、このありさま。閻魔帳はつくづく恐ろしい代物だ。


「どうすんだよ」


 エンマ様を見下ろしながら、司命が途方に暮れた声を漏らす。


「エンマ様を、〝閻魔〟に戻さなきゃ」


 わたしが力強く言うと、司録が戸惑った。


「でも、どうやって——」


 そのとき、エンマ様のまぶたがわずかに持ち上がった。唇を細く開く。


「出て行け」


 息を切らしている。それなのに、上司としての圧を保っていた。


執務室(ここ)には近寄るなと命じたはずだ。今すぐに出ていけ。二度と入るな——」


 わたしたちは執務室を飛び出した。こんなときまでプライバシーを守るなんて、どうかしている。それでも逆らえなかった。


 そのまま廊下で話を続ける。


「エンマ様が〝閻魔〟になった由縁(ゆえん)を調べるの」

「ぼくらは知りませんよ。当然、帳面にも記録はありません。閻魔と裁きの仕組みが成立したあとで、帳面というものが生まれたわけですから」

「知っていそうな人物に聞くしかない」

「誰に聞くのです?」

「神様」

「焼き芋ときたら。学校の先生に質問しに行くようなノリですが、神様というものは、そう気軽に頼ってよい存在ではありません」


 そりゃそうだ。でも、神様のイメージよりも、直接かけられた〝いつでも呼んでね〟の声を信じることにした。


 双子の制止も聞かず、わたしは駆け出した。廊下をいくつも曲がり、自分の部屋の扉を勢いよく開ける。

 机の上に大切に飾っている、一輪の曼殊沙華(まんじゅしゃげ)。パフェの瓶から抜き取り、祈るように言葉を紡いだ。


「天の神様。アマテラス様。どうかお願いです。助けてください」


 目をぎゅっとつぶり、唱え続ける。するとまぶたの向こうが明るくなった。目を開けると、部屋中にまぶしい光が満ちていた。


「こんにちは、れいれい。どうしたの?」


 あたたかな声が降ってくる。間違いない、アマテラス様だ。

 幸福感で胸がふわっと軽くなった。息切れが収まっていく。


「アマノジャクのせいで、エンマ様が〝閻魔〟を退いてしまったのです。どうにか戻ってほしくて――」


 舌をもつれさせながら、わたしは早口で言った。こんな説明で伝わるはずがない。

 それなのに、アマテラス様はためらいのない声を返してくれた。


「そう。わかったわ。それなら、昔のエンマを知っている者が必要ね。すぐにそちらへ送るわ」

「よいのですか? ありがとうございます!」

「エンマのためじゃないわよ。わたし、本来は、個人的な願い事は叶えない主義なの。でも、天岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)について、素敵な記事を書いてくれたからね。それに、れいれいは女子会仲間だもの」


 くすりとほほ笑むアマテラス様の表情が見えるようだった。神々しさではなく親愛が宿っている。


 しかしここで、声色が少しだけ重くなった。


「でも……覚悟しておいて。すんすんは、荒くれ者だから」

「すんすん?」


 光が静かに消える。

 わたしは頭に疑問符を浮かべたまま、立ち尽くしていた。


 突如、どん、と地の底を叩くような衝撃が走った。パフェの瓶が倒れ、机に水たまりが広がる。わたしは自ずと胸元に手を伸ばし、首飾りの貝殻を握りしめた。


「何しやがる、くそ姉貴——!!」


 雷鳴のような怒号とともに、巨大な人影が現れた。開けっぱなしだった扉を力任せに殴る。轟音とともに蝶番(ちょうつがい)が外れ、扉が吹き飛んだ。


「ここはどこだ? てめえは何者だ?」


 扉のなくなった入り口から顔をぬっと出したのは、獣のような男だった。鼻息を荒げ、血走った目玉をぎょろつかせる。乱暴な振る舞いとは不釣り合いな身なりで、刺繍で縁取られた濃紺の衣をまとっていた。肩から垂れた白い布は嵐雲のように重く、神気を帯びていた。


 わたしは声を震わせ、なんとか答える。


「こ、ここは冥府です。わたしはエンマ様の補佐の……」

太野(おおの) 礼阿(れいあ)か? 姉貴や兄貴の記事を書いた記者の?」


 思いがけず名前を呼ばれ、背筋に悪寒が走る。相手の正体がわかった気がした。


 男は、入り口付近にあったたんすを軽々と持ち上げた。そのまま窓に向かって投げつける。たんすは()()みじんに砕けた。


「おれは、日本一の荒くれ者、スサノオ様だ! 神話を(けが)す暴徒を始末してやる!」


 胸を張り、咆哮(ほうこう)する。

 まずい、神様界隈で最も会いたくない人物が現れた。

桃太郎編、終了です。


平日は毎朝7時頃、土日祝は正午頃に更新いたします。

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