8-1 英雄vs魔王、強いのはどっち?
桃鬼さん。あなたの生前の正体は、桃太郎だったんだ。鬼ヶ島で鬼を退治したけれど、その罪に問われ、今こうして冥府で働かされている。
「おれは大勢の鬼を鬼ヶ島で斬った。おまえは大勢の人間を地獄に落とした。……で、どっちが罪人だ?」
雑談のような口調だが、その眼差しの奥にあるものは、千年以上も煮詰められた怨念だった。
「エンマ様。わたしが閻魔帳を開くので、筆をお取りください」
桃鬼さんの動きを封じなければ。わたしはささやきながら、じりじりと机に指を伸ばした。
しかしエンマ様が低い声を返す。
「閻魔帳はもう使えない」
その言葉の意味を考える間もなく、エンマ様が机の引き出しを開けた。引き抜かれたのは、一本の錫杖だった。僧侶が持つ仏具。先端には金の輪が連なり、揺れるたびに鈴のような音を鳴らす。
「それで戦うおつもりですか? 刀をナメているのかな」
桃鬼さんが、くくく、と肩を揺らして笑う。
エンマ様が錫杖をかまえた。
「戦うのではなく、裁く」
「なるほど。それがあなたの戦場ですもんね」
桃鬼さんもゆっくりと日本刀をかまえた。重心が下がる。余計な力がすべて削ぎ落とされていく。
「我、吉備の国の桃太郎。地獄の手前の閻魔大王を討たん。いざ参る」
声から億劫さが消え、どこまでも澄んだまっすぐな声が広間を満たした。
二人が同時に踏み込んだ。視線が追いつかない。気づいたときには間合いが消えている。金属がぶつかる甲高い音。錫杖が、日本刀の刃を受け止めていた。細い柄はびくともしない。
桃鬼さんの眉がぴくりと動く。
「へえ」
力を込めて押し切ろうとする。
しかしそのとき、錫杖の輪がシャランと鳴った。粉塵が巻き上がったかと思えば、とたんに力の強弱が逆転し、桃鬼さんの体が後方へ弾かれる。
「っ……!」
靴底が悲鳴を上げ、軌跡には焼け跡が残った。桃鬼さんは、ひらひらと舞う粉塵の正体を見極めるために手を伸ばす。
「——灰か」
唇の片端が吊り上がった。
「閻魔帳なしでも、この戦闘力かよ」
「この錫杖は、相手の罪の重さによって威力が変わる」
「はは……ずいぶんと便利な道具ですね」
桃鬼さんが刀を低くかまえ、地を這うように走る。最短距離で喉を狙っている。
「偉そうなツラで、おれを量るのはやめてください。人間ってのは、量り切れるもんじゃないだろ」
「記録と理屈に基づき量る。それが〝閻魔〟だ」
再び激突。衝撃音が骨まで響き、二人の姿は灰に包まれた。
「おれとじいちゃん、ばあちゃんを冥府に縛り、半分鬼の姿に変えたな」
錫杖を押し返しながら、桃鬼さんが目を獣のように細める。
「おまけに鬼ヶ島の色鬼たちまで一緒に雇っている。葬った側と葬られた側を同じ台所に立たせるとは、何の冗談だ? なあ、礼阿ちゃんはどう思う?」
唐突に呼びかけられ、わたしは息をのんだ。
桃鬼さんが、錫杖に沿わせて刀を滑らせる。視線だけはこちらに向けられていた。
「桃鬼さん。もうやめて」
「会話が成り立っていないな。やり直し」
「お願い。桃鬼さんはそんな人じゃないはずです」
「ああ、その悲痛な顔。たまらんね。エンマ様はその顔に弱いんだろうなあ」
桃鬼さんが舌なめずりをする。
「それで、きび団子の主従をどうやって解いた?」
そんなことを聞かれたって、わからない。
「ただの……気合いです」
「根性論でどうにかなるもんじゃないんだよなあ」
「どうにかなりましたよ」
「おれが気合いで負けたってことか?」
桃鬼さんが、息を弾ませて笑う。
エンマ様が低い声で割り込んだ。
「彼女に話しかけるな。毒を盛るなら、おれにすればよかっただろう」
「閻魔帳は、エンマ様の意思が伴って初めて機能する。操った手で書いたところで、ただの落書きだ」
——なんて卑劣なの。エンマ様の、部下への執着を利用するなんて。
突き出された刀を、錫杖が真正面から受け止める。
「そのために仕込んだのが、きび団子とアマノジャクか」
「はい。礼阿ちゃんを奪われ、心から絶望し、自ら筆を取っていただく必要がありました」
押し合う力は拮抗する。距離が一気に詰まり、鼻先が触れそうだ。互いを射殺さんばかりの視線が、逃げ場のない至近距離でかち合う。
渾身で踏みとどまるエンマ様の声は、わずかに揺れていた。
「おれたちは、ともに罪人だよ。桃」
「じゃ、おまえも裁かれろ」
「おれも罰を受けている」
「どこが罰だ。毎日、おれのうまい料理を平らげ、美女たちの舌を抜いて楽しむ暮らしの、どこが?」
桃鬼さんの灰だらけの頬を、つうと汗がしたたる。ため息を吐くように笑った。
「やっぱり、その座を奪うだけでは足りないな。先に礼阿ちゃんを消滅させるか」
そのとたん、エンマ様の瞳の色が変わった。煙水晶の奥に沈んでいたはずの感情が、一気に表層へと浮かび上がる。いつもの理性や冷淡さをすべて粉々にする、剥き出しの怒りだ。
錫杖が横薙ぎに振り抜かれる。重い。受けた刀ごと、桃鬼さんの体が沈んだ。床がひび割れている。跳ねるように後ろに逃れるが、エンマ様は逃がさない。何度も何度も金属音を響かせ合いながら、呼吸すらも奪い、押していく。
とうとう桃鬼さんが、玉座の奥の壁へ追い詰められた。エンマ様が手首を返して打つ。日本刀が弾かれ、甲高い音を立てて床へ落ちた。エンマ様も錫杖を放り捨てる。手を伸ばし、桃鬼さんの襟首をつかんで叩きつけた。
そこにあるのは地獄の門だ。黒々とした扉に背中がめり込む。桃鬼さんが口から吐き出した血が、元々割烹着ににじんでいた血に重なり、どす黒い深紅に染まった。
「それほど不満があったなら」
エンマ様の手は緩まない。桃鬼さんの頭をさらに押し込む。
「上司として、今度は選ばせてやろう。どの地獄に行きたい?」
桃鬼さんは、血でてらてらと光る唇を歪ませて笑った。
「どこでもいい。じいちゃんとばあちゃんは見逃してくれ」
エンマ様が桃鬼さんを「桃」と呼んでいたのは、本名が桃太郎だからです。親しげにあだ名で呼んでいたわけではありません…。
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