7-4 誰が何を恨んでいる?
『ぎゃあああああああ』
耳をつんざく断末魔が、広間いっぱいに響き渡った。
エンマ様の腕を中心に、アマノジャクがばらばらに裂ける。影がほどけて四散し、そのまま霧に溶けていった。
自由になったわたしは、せき込みながら床に倒れ込んだ。
「げほ、げほっ……た、倒した……エンマ様、やりましたよ!」
見上げると、エンマ様の顔色はまだ戻っていなかった。どこか芯の抜けた、立っているだけでやっとのような気配だ。
広間の四隅へと目を走らせたわたしは、再び息が止まりかけた。前回アマノジャクが現れた直後、エンマ様が冥府の守りのために配置した、盛り塩。本来ならきっちりと整えられているはずの三角錐が、崩れている。
「どうして……冥府は汚れを受けつけないはずなのに……」
野々子ちゃんと鬼ごっこをし、うっかり蹴飛ばしたときだって、あの塩は勝手に元の形へ戻った。それなのに今そこにあるのは、踏み荒らされた残骸だ。白い粒が床にばらばらと散っている。理由はひとつだ。
「誰かがわざと倒したの?」
背筋が粟立つ。意図的にエンマ様の結界を破った者が——アマノジャクの侵入を許した者がいる。
そのとき、ずる……と引きずるような音が聞こえた。何かが廊下を這ってくる。振り向くと、広間の出入り口から伸びる手が見えた。
「司命?」
信じられないまま名前を呼んだ。
司命には、いつもの軽口も余裕もない。呼吸は浅く、わたしたちに向けて伸ばした指先が震えていた。
「エンマ様……れーちゃん……逃げろ……」
かすれた声が届く。
次の瞬間、ギン、という鋭い音が走った。司命の頭の真横に刃が突き立てられる。本物の日本刀だ——石の床に深々と食い込み、反動でかすかに震えている。
刃先は司命の頬すれすれをかすめていた。ほんの少しずれていたら首が落ちていただろう。
「おーい。皿洗いが終わっていないぞ」
場違いなほどに、けだるげな声色。ぼさぼさの黒髪からのぞく、鬼の角。真っ白だったはずの割烹着に血がはねている。
桃鬼さんだ。鈍く光る日本刀を握っている。見慣れた包丁でもお玉でもない。
司命はその足元に這いつくばり、真っ青な顔でわたしたちを凝視していた。口の形が、逃げろ、と動く。
「ま、免除してやるか。おまえは二度と食事を楽しむこともないのだし」
桃鬼さんはそう言いながら、刀を軽々と引き抜いた。誰のものかもわからない血が一筋伝い、床に落ちる。汚れないはずの場所に赤がにじむ。意図して生まれた汚れは戻らない——桃鬼さんはあえて攻撃したのだ。
わたしがたずねるよりも早く、エンマ様が低く抑えた声で問いかける。
「桃。どういうことだ」
「見りゃわかるでしょう。反乱ですよ」
桃鬼さんは刀を手の中でくるりと回し、血を軽く払う。しぶきがまた床に散った。
「おれ、もう何年ここで働いたっけな。まあいいか。毎日包丁を握っていたおかげか、刀の腕も鈍っちゃいないようだ」
ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。わたしは思わず後ずさった。のんびりした口調はいつもと同じなのに、瞳に異様な輝きが宿っている。
進路では、失神した野々子ちゃんが横たわっていた。
桃鬼さんはそちらを見もせず、ただ通り道にあるものをどかすように、刀を一振りした。割烹着に新たな飛沫が飛び散る。だめだ、野々子ちゃんははもうだめだ——
がくがくがくがく。震えが止まらない。
桃鬼さんは、床に広がる血だまりを、躊躇なく踏みしめてくる。
わたしを玉座の後ろに隠しながら、エンマ様がたずねた。
「桃。おまえが冥府にアマノジャクを引き入れたのか?」
「はい。塩の結界を内側から破るのは簡単だ。エンマ様は仲間を信用しすぎです。甘すぎますよ、塩なのに甘い。なんちゃって」
「何のために」
「エンマ様。おれが喜んで料理長をしているわけではないのは、ご存知のはずだ」
「……ああ。おれの与えた罰だ」
そう。半鬼である桃鬼さん、桃爺、桃婆は、きっと元々は鬼だったのだ。悪さをし、その報いで冥府で働いている——わたしはそう推理していた。
桃鬼さんが吐き捨てる。
「もうたくさんなんだよ。正しい行いをした報いで、罰を受け続けている。おれのおかげで多くの人間が救われたはずなのに」
どういうこと? 桃鬼さんが多くの人間を救ったって。その逆ではないの?
「一方にとっての正義は、他方にとっての悪だ。おまえがまさにそうだった」
エンマ様が静かに言い切る。
「あー、わかり合えないな」
桃鬼さんは、面倒くさそうに息をつき、ぽりぽりとこめかみを掻いた。その仕草だけ見れば、いつもの彼と何も変わらない。
視線がおもむろにこちらへ向く。
「ところで、礼阿ちゃん」
びくっと全身が跳ねた。
「おまえ、どうやって自分の意思を保ってんだ?」
「……どういうことですか」
震える声で問い返す。しかし答えはわかっていた。頭の声でわたしに指示をする声。あれはアマノジャクの声ではなかった。どす黒い腹の底から命じる、桃鬼さんの声だったのだ。
桃鬼さんが、まるで料理の火加減でも確かめるように、首をかしげる。
「おかしいな。こんなに早く〝きび団子〟の効果が切れるなんて」
耳に飛び込んできた単語に、はっとした。記事を書く間、桃鬼さんが何度も差し入れしてくれた甘いもの。彼の正体は、もしかして、鬼じゃなくて——
「彼女に何をした」
エンマ様の放つ冷気が広がる。
桃鬼さんは、悪びれもせずに肩をすくめた。
「何って。彼女が弱みなんだろう? 使わない手はないさ。おれだって、おれの家族を守りたい」
日本刀を握ったまま、速度をゆるめず、すたすたと近づいてくる。
「おれは大勢の鬼を鬼ヶ島で斬った。おまえは大勢の人間を地獄に落とした。……で、どっちが罪人だ?」
桃鬼さんの正体。わかりましたか?
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