7-3 怖がりは誰?
野々子ちゃん! よかった、助けが来た。きっとこの不可解な状況を打開してくれるはず——
しかし安堵とは裏腹に、わたしの体は動き出していた。
(殺せ)
頭の中で命令が響く。
(あの邪魔な小娘を、殺してしまえ)
広間をまっしぐらに駆け抜け、自分とは思えない強さで右手を振り下ろす。
ぱしん! 乾いた音が鳴った。野々子ちゃんが顔のすぐ前で、わたしのこぶしを受け止めたのだ。ほっとしたのもつかの間、左足が動き、腹を狙って蹴りを入れる。野々子ちゃんはひらりと身をかわした。
「……礼阿さん、これほど器用な わけがない。あのイケメンに 操られている?」
野々子ちゃんが、嗅ぎつけるように瓜生先輩を見た。
玉座にもたれかかっている瓜生先輩は、ひらひらと手を振る。
「イケメンと言ってくれてありがたいけれど、おれには心に決めた人がいるから」
「そのセリフ すでに寒いよ 興味なし。顔面偏差値 わたしで十分」
「ははっ、すさまじい自信だな」
「その笑顔 貼りつけたようで 気味が悪い。仏頂面のが マシなくらいよ」
「炎魔大王の方がマシということか? 本当にそう思う? これほど非情で、みじめったらしい、不幸の元凶のような男だぞ」
エンマ様はうなだれたまま目を見開き、硬直していた。その手には筆が握られている。
野々子ちゃんが言い返す前に、わたしは真正面から踏み込んだ。野々子ちゃんの反応は速い。手首をつかまれ、体勢が崩れ、視界が回る。背中から床に落ちた。激痛が走る——でも、それでいい。野々子ちゃんを傷つけたくない。
「あーあ。早く〝炎魔〟を引き継がないから、太野が痛い目にあっていますよ」
瓜生先輩が、エンマ様をたきつけている。そんなやつの言うことを聞かないで。ああ、わたしはどうして、あの邪悪な人物を先輩だと勘違いしてしまったのだろう。
腕を押さえ込もうとする野々子ちゃんをはねのけ、わたしはすぐに起き上がった。野々子ちゃんの重心が揺らいだその隙に、手首をひねり上げる。そのまま指を絡ませた。
ばき。嫌な音が鳴る。
「あ」
野々子ちゃんの指が、一本折れた。胸が凍りつく。それでもわたしの力は抜けない。もう一本。もう一本。止めたいのに止められない。その手は、かるたを取る大事な手なのに——
右手の指がすべて、ありえない方向へ曲がった。野々子ちゃんが歯を食いしばる。額には大量の汗が噴き出している。それでも、一粒の涙もこぼさない。なんて強い子なのだろう。わたしは何と言って謝ればいいのだろう。どれほど謝っても足りるわけがない。
野々子ちゃんはわたしをにらみ上げたあと、あろうことか、唇の端でほほ笑んだ。
「今のうち 言わなきゃならない ことがある。このままあたしが 負けそうだから」
(殺せ)
頭の中の命令に従い、わたしのこぶしが野々子ちゃんの頬を殴りつける。お願い、もうここから逃げて。そうでないと死んでしまう——!
野々子ちゃんはふらつきながらも顔を上げた。鼻血が流れている。
「あの人と いつも話して いたことは、他でもないの あなたのことだよ」
……え? 配達のたびに、エンマ様と野々子ちゃんが執務室にこもっていたときのこと? エンマ様は野々子ちゃんのことがお気に入りだから、長々と話し込んでいると聞いていた。
「頼まれて あなたの出生 調べてた。礼阿さんには 内緒にしろと」
一瞬、頭が真っ白になった。
「あの人の 予想通りの 結果です。いくら調べても 血縁者なし」
ツクヨミ様が、わたしには生みの親がいないと言っていた。エンマ様も知っていたの? わたしには隠して、野々子ちゃんに地上で調べさせていたの?
疑問が次々に浮かび上がるが、体は考えることを許してくれない。ためらいのないこぶしが、野々子ちゃんのもう片方の頬にめり込む。
「礼阿さん 覚えておいて。エンマ様 怖い顔した 怖がりなのよ」
野々子ちゃんの口から血がこぼれ出る。それでも視線はわたしから逸らさない。
「誰だかは 知らないけれど ろくでもない。返しやがれよ 彼女の体」
最後に悪態をつき、わたしの顔に唾を吐きかけた。
(殺せ)
頭の中で声が弾ける。すべての力をこめた腹への一撃が、そのままわたしの骨を伝った。野々子ちゃんの体が、くの字に折れて倒れ込む。白目をむき、気を失った。
〝とびきり可愛い女の子に生まれ変わらせて〟
かつての願いがよみがえった。今、目の前にいる女の子は、血とあざだらけの無残な顔で横たわっている。こんな姿にしてしまったのは、わたしだ。
胸の奥で、何かが暴れ出す。押し込められていたものが。怒りとも恐怖ともつかない感情が。
——返せ。野々子ちゃんを返せ。わたしの体を返せ。
(おまえはおれのものだ)
——違う。頭の中の声を否定する。わたしは誰のものでもない。
腕に力を込めると、筋が悲鳴を上げた。歯を食いしばると、血の味がにじんだ。この体を縛っている何かに呪いをかける。逆方向の意思が、綱引きのように引っ張り合う。内側から二つに裂けそうだ。
(次はエンマ様を殺そう)
その指示に、綱が引きちぎれた。
「嫌だ!!!!!」
今度ははっきりと声に出た。肺に冷たい空気が流れ込む。間髪を入れず、玉座を目指して駆け出した。
〝後ろの正面を見てごらんよ〟
走りながら、ツクヨミ様の言葉を思い返す。
〝エンマ様 怖い顔した 怖がりなのよ〟
野々子ちゃんが言い残したことを反すうする。
ありがとう、おかげで敵がわかったよ——
「エンマ様から離れろ! アマノジャク!」
どうしてエンマ様がこれほどまでに弱っているのか。それは、エンマ様がずっと抱えていた恐れや疑念が現実に起きているからだ。〝後ろの正面〟が、可視化され、目の前に現れている。ヒノテラス様が、天岩戸の中で冷静さを失ってしまったときと同じだ。
わたしは、瓜生先輩に思い切り体当たりをした。先輩が台座から転げ落ちる。机の上に手を伸ばした。炎魔帳を引ったくり、ばたんと閉じる。そのまま必死にエンマ様の顔をのぞき込んだ。
「エンマ様! わたしはここにいます!」
強く肩を揺さぶると、それに合わせ、結われた濡羽色の長髪が揺れる。
「いなくなるわけがないでしょう。七十年前のあの日、ここに残りたいと言ったのはわたしです。あなたが勝手に拾ったのではない。わたしが選んだの」
背後で何かが動いた。ぞわり。後ろから腕が絡みつき、強く引き寄せられる。
振り返ると、それはすでに瓜生先輩の姿ではなくなっていた。影。人の形に近いが、どこか欠け、歪んでいる。怒っているような泣いているような、表情が定まらない。ヒノテラス様の話の通りだ。
「エンマ様も選んでください!」
アマノジャクを振りほどこうと、もがきながら叫ぶ。そんなわたしの反抗をとがめるように、アマノジャクの手がわたしの首に伸びた。鉄の輪のような重い指に、ゆっくりと絞め上げられる。
『また……助けられないのか……』
この声には覚えがある。頭蓋骨の内側を引っかくような不快音。わたしの部屋のたんすに隠れたヒノテラス様の心を侵していた。アマノジャクの声だ。
「黙れ。この御方を誰だと思っている。エンマ様は、おまえなんかに負けない。瓜生先輩を穢したことも許さない!」
喉から無理やり声を押し出した。
『また……失うのか……』
アマノジャクの声が近づく。侵食される。首に食い込む力が増し、視界の隅で光が点滅した。
「エン……マ……さま……たすけ……て……」
声にならない。指先が冷えていく。
そのとき、エンマ様が顔を上げた。玉座から腰を浮かせるや否や、目にも留まらぬ速さで衣をひるがえす。手を伸ばし、アマノジャクの心臓あたりへ突き立てた。ずぶり、と影が沈む。
毎晩20時頃に更新いたします。




