7-2 太野礼阿の望むこと?
「おれならもっと太野を大切にしてやれる」
瓜生先輩がまっすぐにわたしを見下ろしている。
わたしは、くすりと笑った。
「先輩は、つくづく部長に適任ですね」
「太野。おれの言ったことの意味、理解しているか?」
「はい。本当にお兄ちゃん気質ですよね。弟さんか妹さんがいらっしゃるのでしたっけ?」
「……太野もたまにコミュニケーションが取れないんだよな」
先輩がぶつぶつとつぶやく。その仕草すらなつかしかった。
「瓜生先輩に職場に加わってくださったら、そりゃわたしは嬉しいですけれど——」
「そもそも、この冥府という場所自体を変える必要があると思う」
先輩がわたしの言葉を遮った。
「人生を精一杯生き抜いた人間が最後に訪れる場所として、ふさわしくない」
わたしは思わず、あはは、と大きな声で笑ってしまった。
「それは、確かに言えていますね」
同意しかできない。
「でも、これがエンマ様のやり方ですから。あの御方だって、一応、死者のことを考えてはいるのですよ」
その瞬間、先輩が眉をひそめた。
「太野。おまえ……閻魔大王に惚れているわけじゃないよな?」
「まさか」
そんな発想、どこから出てくるのか。
「向こうはどうかな」
先輩が探るような目つきになる。いかにも記者らしくて、また笑えてくる。
「おまえがおれを引っ張って広間を出たときの、あのさみしそうな顔。とられたくないんだろうな」
「ああ、それは恋愛とかではありません。部下を監視できる場所に置いておきたいだけで——」
「そんなことは認められない」
きっぱりと否定される。うん、至極まともなご意見だ。
へらへらと笑っていたら、先輩は机に手をつき、わたしの顔をぐっとのぞき込んだ。
「おれが、おまえの未来を変えてやる」
心臓がどきんと跳ねた。当時、先輩に対して抱いていた憧れや、尊敬の念とは種類が違う。なんだろう、この高鳴り、揺らぎ、違和感は——
「だからさ。あの三人を消滅させて、おれとおまえで冥府を作り直そう」
瓜生先輩がにこりと笑う。あの頃と同じ、他人をとりこにする爽やかさで。
「え……」
今、なんて言った?
「簡単な話だろ」
顔と顔の距離が、じわじわと詰まる。
「地獄の手前の閻魔大王? 知ったことか。あいつを地獄に落としてやればいい。死者が怖がることはなくなり、おまえも幸せになる。その方が、世のためだ」
声はおだやかなままなのに、言葉だけが刃のように鋭い。
「瓜生先輩……?」
「太野」
優しい声で呼ばれる。逃げ場を塞ぐような優しさだ。
「おれの言ったことの意味、今度はわかるよな?」
わたしの足は勝手に一歩下がり、椅子がキイッと音を立てた。
「そんなこと、わたしは望んでいません。冥府を作り直すなんて——」
とたんに瓜生先輩が、机の上に積み上げていた和紙を払いのけた。両肩を乱暴につかまれ、動けない。
「望んでいるんだよ、おまえは」
耳元でささやかれる。
わたしは横目で床を見た。先輩が叩き落としたばかりの、ツクヨミ様に関する記事が散らばっている。
「……先輩は、原稿をそんなふうに扱う人じゃない」
胸の奥が、かっと熱くなる。
瓜生先輩は、原稿を踏まないように歩く人だった。書き損じた一枚すらも丁寧に拾い上げ、端をそろえて戻す人だ。インクで黒くなった指先で原稿を汚さないよう、細心の注意を払う人。
目の前にいる先輩は、原稿に見向きもしない。肩に置かれた手の重みを、突然、異物のように感じた。
「あなた、誰なの」
そのとき、心臓がもう一度大きく跳ねた。警鐘のような鼓動だった。どくん、どくん、とやけに大きく響く。膝が震える。力が入らない。瓜生先輩の手が離れてもなお、体は動かなかった。まるで椅子に縫い止められたように。
(抱きしめて)
頭の奥に、別の声が落ちてきた。
(その男を、抱きしめるんだ)
抗えない。意思とは関係なく、ぎこちなく腕が持ち上がる。操り人形が糸で引かれるように。
わたしはそのまま、瓜生先輩の背中に手を回していた。
「そうだ。それがおまえの望みだよ、太野 礼阿」
先輩の満足そうな声。そして強く抱きしめ返された。容赦のない力だ。
「……っ!」
背骨がみしみしと音を立てる。肺が押し潰される。声も出せない。窒息する——
そのとき、部屋の扉が開いた。
「れい……あ……」
エンマ様だ。
わたしたちを前に、煙水晶の目を見開き、立ち尽くしている。
「あ、閻魔大王。お疲れさまです」
瓜生先輩が、にこにこ笑顔をエンマ様に向けた。
「この子はおれがもらいますね。もう閻魔大王とは一緒にいたくないそうで。そうだよな? 太野」
考える前に、首ががくんと下がった。内側では、違う、と叫んでいるのに、先輩に従ってしまう。一体わたしの身に何が起こっているのだろう?
瓜生先輩は、いい子いい子とばかりに、わたしの頭を撫でた。
「ほら。本人の意思ですよ。これまでパワハラ三昧だったのでしょう。かわいそうに」
エンマ様は血の気のない顔で、わたしと先輩を交互に見ている。
先輩が、不気味すぎるほど愛想の良い声で言った。
「おれがあなたの仕事を引き継いであげますよ。冥府の従業員は総入れ替えだ。あの双子も、厨房の半鬼たちも、地上からやってくるデリバリーの娘も——」
どうしてここに来たばかりの先輩が、桃鬼さんや桃爺、桃婆、野々子ちゃんのことまで知っているのだろう。
「わたしはあなたが憎いです。毎日怖い顔でにらまれて、自由に外へ出られず、これでは消滅した方がマシです」
どうしてわたしは、こんなことを発言しているのだろう。
どうして。どうして。どうして——
どうしてエンマ様は、何も言い返さないのだろう。
「あなたは太野を忘れるべきだ。その方が、太野は幸せになる。あなたが一番よくわかっているでしょう。太野は、あなたの被害者だ」
責め立てる先輩の言葉に、めまいがする。
真に受けないで。エンマ様らしくもない。自分こそが正しいのだと、自分こそがルールだと、いつものように何ひとつ疑わず、主らしく構えてよ。
「エンマ様、お願いです。どうかわたしを解放して。これ以上、死んだことを後悔させないで」
わたしの口が勝手に動く。
エンマ様の表情が張りつめた。しばらく黙っていたが、やがて短い言葉が返ってくる。
「それがおまえの望みなら」
——どうして。心の中で、がくりと肩を落とした。これほど弱気なエンマ様を見たことがない。別人のようだ。わたしもエンマ様も、一体何の魔法にかかってしまったのだろう? このままではまずい。情に浸らず、さっさと先輩を裁くべきだったのだ。
「どうやって〝閻魔〟を引き継ぐのですか?」
「……閻魔帳に記すのだと思う」
「ふうん。えらく簡単だ。では早速、参りましょうか?」
瓜生先輩は意気揚々と話を進めている。わたしの腰に手を回したまま、エンマ様を促し、三人で広間へ続く廊下を歩いた。
先輩は世間話のように会話を続ける。
「〝閻魔〟の座を譲ったあと、あなたはどうなるのですか」
「わからない」
「ふふ、お気の毒。太野の望みを叶えるためなら、何だって受け入れると?」
先輩が愉快そうにたずねると、エンマ様はぽつりと言った。
「消滅してもかまわない」
どうしよう。取り返しのつかないことが起きようとしている。瓜生先輩に似たこいつは何者なのだろう。助けが必要だ。それなのに誰ともすれ違わない。
とうとう広間に着いてしまった。閻魔帳は、エンマ様の机の上に置かれている。
「ほら、閻魔大王。最後の仕事ですよ。玉座に座ってください」
瓜生先輩が笑顔で急かした。
エンマ様は、霧を引きずる亡霊のように移動していく。玉座に腰かけ、暗い視線を落とした。閻魔帳を開き、筆を取る。
だめ、書いちゃだめ——!
そのとき、今入ってきたばかりの扉から誰かが飛び込んできた。
「デリバリー 来てみてびっくり この空気。事情は知らぬが 何かおかしい」
アイドルのような、かわいらしい声。
現れたのは野々子ちゃんだった。大きな保冷バッグを肩から下げている。息を切らしながらも、にっと笑った。
「礼阿さん きっと困って いますよね。篁 野々子に 任せてください!」
地上から助っ人見参!
平日は毎朝7時頃、土日祝は正午頃に更新いたします。




