6-3 鶴と亀はどこから来たの?
「これ、千年くらい前に、いきなり現れたんだよね」
ツクヨミ様はぼそぼそと話し始めた。
花からしたたる露の中にひそむ、無数の月。その奥に、鶴と亀が眠っている。
「最初はぼくと月しかいなかった。それなのに、あるとき前触れもなく湖に侵入してきた。動かないし、起きないし、消えないし」
ツクヨミ様は、わたしたちから少し離れたところでしゃがみ込み、水面を指でなぞっている。
「……邪魔なんだよね。こいつらを追い払うなり、どかすなり、どうにかしててくれれば——そのときは、話を聞いてあげる」
月白の瞳が、ぼんやりとこちらを見上げた。
「できないなら耳を傾けないし、ここからも帰さないよ」
脅すような口調ではなかった。ただの条件提示。
隣で、司命が小さく息を吐く。
「なるほど」
苦笑混じりに、ちらりとわたしを見た。
「ツクヨミ様の願いが叶わない限り、ぼくらは永久に夢から覚めないってことだな」
背筋が冷えた。選択肢はない。そして日本近海に隕石が落ちるまで、残り七日間。時間との勝負でもある。
「やるしかないね」
わたしたちは、湖の底にたゆたう鶴と亀の調査を始めた。
ペンと手帳を取り出し、それらの真上にしゃがみ込む。沈んでいるのは水深二、三メートルといったところだろうか。鶴の羽根の一枚一枚が、亀の手足が、穏やかな水流に揺らめいている。目は閉じていて、口からあぶくは出ていない。呼吸がないのだろうか。
夢の中の存在。けれど完全な幻とは違う。
「ツクヨミ様。鶴と亀が最初に現れたのはどこですか?」
「ここ」
「では、移動したことは?」
「ない」
「触れたことはありますか?」
「……触りたくない」
ですよね。
そのとき、横から水音がばしゃっと上がった。
「よし、ぼくに任せろ!」
司命だ。両手を腰に当て、やる気満々の顔をしている。
「まずは直接アプローチだ」
軽率に、ひょいと水面に手を突っ込んだ。
しかし入らない。指先が水面に弾かれるように押し戻される。
「あり?」
「無理みたいだね」
「いや、今のはジャブだから」
今度は両手でぐいぐいと押し込もうとするが、やはり中には入らない。
「おかしいな。見えているのに触れられない」
「それを今、調べているのだけれど」
司命は納得がいかないとばかりに、水面を掘り続けている。これは頼りにならないな。わたしがしっかりしなければ! ツクヨミ様を取材することで、鍵を見つけられるはずだ。
「鶴と亀が現れたのは、千年前でしたよね」
「ぼくが気づいたのが千年前というだけで、本当はもっと前からいたのかもね」
「当時、他に異変はありましたか?」
「特に……」
「音や光は?」
「ぼくが気づかなかっただけかもね」
確かに気づかなさそうですね、とは言わなかった。これまで会ったどの人物よりも、ぼんやり、のんびりしている。なんだか、あてにならないなあ。
わたしは手帳にペンを走らせながら、次の質問へ移った。
「では、現れてから今までの間、鶴と亀に変化はありましたか」
「例えばどんな?」
「近づいたり、離れたり。成長したり、退化したり」
「……ない」
「消えそうになったことは?」
「……ない」
今回はほとんど迷いがなかった。出現当時の情報はいいかげんだが、それ以降については答えにぶれがない。侵入者が気に食わず、長い間見張ってきたのだろう。
「籠城するのはかまわないのですけれどおー、食べ物や飲み物はどうすればいいんですかあー?」
司命が不満顔でたずねる。それ、今聞かなきゃいけないことかなあ。
「ここでは腹は減らないよ。食べ物は要らない。ぼくと月以外、必要ないんだ」
ツクヨミ様が水面を蹴る。その言葉で、桃鬼さんの言葉を思い出した。
卵が先か、鶏が先か。おなかが減るから料理人がいるのか、料理人がいるからおなかが減るのか。
「ねえ、礼阿。その筆についているのも、鶴と亀じゃない?」
ツクヨミ様が視線を向けたのは、わたしがせわしなく動かしているペンだった。小さな鶴亀のキーホルダーがついている。
「その通りです。わたしのいた孤児院が、〝千万こどもの家〟という名前でして……身寄りのない子どもをたくさん預かりますよ、という意味なのですが。〝鶴は千年、亀は万年〟といいますよね。だからマスコットキャラクターが鶴と亀で——」
「おまえのいた孤児院に、あんまり興味はないよ」
「あ、はい」
「ぼくが気になるのは、おまえが鶴と亀が好きなのかどうか、だよ」
「見慣れているので、愛着くらいは……」
ツクヨミ様は、ゆっくりとまばたきをした。
「生かして逃がそうなんて、考えなくていいからね。さっさと始末して。ただし、血はばっちいから、殺すなら湖の底でやってね」
始末して——その言葉に重さはない。ためらいも、葛藤も。残酷さすらない。
この美しい少年の中にあるのは、きれいか、汚いか、ただその線引きだけなのだ。きっと命の重さも、奪うことの意味も、その判断基準の中にある。
「そっか。だから保食神を殺したのか。無礼だからではなく、ゲロを吐きかけられたから」
合点がいった、とばかりに、あっはっはと笑う司命。
そのとたんにツクヨミ様の顔色が変わった。うっ……とうめき、背中を丸め、次の瞬間には、おええええと吐き出した。水面に流れ出たのは、きらきらと輝く何かだった。輪郭がぼやけていて、完全にテレビで見る〝モザイク処理済み〟のそれだ。
「何なの、その演出!」
「知らないよ! 夢だからだろ!」
「汚いはずなのに、視覚情報が美しい!」
わたしと司命がツッコミを飛ばす中、ツクヨミ様は肩を震わせ、さらに二、三回えずいた。
「うっぷ……その話はだめ……思い出させないで……」
涙目で、息も絶え絶えに訴えかけてくる。
「ただでさえばっちいのに、ぼくが切っちゃったものだから血も混じって……おええええ」
わたしと司命は顔を見合わせた。この神様、ロイヤルファミリーのくせに、最弱かもしれない。
背中をさすろうと近づいたが、転がるように逃げられた。仕方なく手帳のページをめくる。
「ツクヨミ様。もう少し詳しくお話を——」
そのとき背後で、場違いなほど軽やかな声が響いた。
「おーい。聞こえているかー? 鶴ー、亀ー」
振り返ると、司命が水面に向かって手を振っていた。
「ちょっと。取材すべきはツクヨミ様でしょ」
「いやいや、当事者はこっちだろ」
当事者って何だ。そう言い返そうとした瞬間——
水面がかすかに揺れた。ぴたりと静止していたはずの鏡が歪む。
「……え」
「ほらな。おーいおーい」
司命がもう一度呼びかける。
すると、今度ははっきりと、鶴と亀のいるあたりから波紋が広がった。動いている。反応している。生きている。
「ツクヨミ様。彼ら、生きていますよ!」
わたしは高揚し、ぱっと顔を上げた。
「眠っているだけだ。なんとかして叩き起こせば——」
「殺して」
ツクヨミ様が遮った。青白い衣の裾で、口元を拭ったまま隠している。
「殺して。邪魔だから」
この澄んだ湖のように、淀みのない命令だった。
わたしは目を閉じ、息を吸った。そして首を横に振る。
「殺せません」
目を開けた瞬間、視界いっぱいに月白の瞳が広がった。近い——いや、違う。距離は変わっていない。ただその瞳に焦点を合わせたとたんに、引き寄せられただけだ。月の引力のように。思わず足元がふらつく。
「どうして。やつらは侵入者だよ。罪を裁くのが、おまえたちの仕事でしょ?」
「死者を裁くのがわたしたちの務めです。彼らは生きている。それに、彼らが罪を犯したとは思いません」
ツクヨミ様が、わずかに首をかしげた。
「ここはぼくの完璧な世界。ぼくが基準だ。たとえ冥府の王の部下であっても、覆せないよ」
わたしは体も心も引きずられないよう、精一杯足を踏ん張り、叫んだ。
「それでも殺せません。冥府の誇りにかけて」
ツクヨミ様が目を見開いた。露の中の無数の月が、一斉に揺らぐ。
「だったら、おまえたちはカゴの鳥だ。相談にも乗らない。鶴と亀を殺したくなるのが先か、自分たちが死にたくなるのが先か、じっくり見ていてあげよう」
次の瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。空の満月が、三角、四角と次々に変わり、足裏が水面に沈む。月下美人が高速で閉じたり開いたりをくり返す。めまいを起こしながら、わたしはもがき、悲鳴を上げていた。
そのとき、力強く腕をつかまれた。
「ぼくを見ろ、れーちゃん!」
司命の黒い瞳だ。
「ここは夢の中だ。すべてれーちゃんの頭の中で起きていることだよ。意識を強く保て」
「わ……わかった!」
わたしは必死に抗った。夢の中で眠気と戦うような、異様な感覚だ。しかし景色が戻ってきた。立つことができる。月の形が丸に戻る。花が開いたまま鎮まる。
わたしを支えたまま、司命がささやく。
「普通、神様に喧嘩を売るか?」
「ごめん……」
「でも、よく言った。味方してやるよ。ぼくも動物は好きだから」
司命が、すっと片手を持ち上げる。暗い夜空のもとで、指先に熱が灯った。
「え」
わたしは口を開けた。
ぱちぱち、とはぜる音。司命のてのひらに炎が生まれた。ゆらりと揺れる橙色の光は、月とは対照的な熱をはらんでいた。
「力ずくでも、冥府に帰るぞ」
司命は炎の能力者でした!
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