6-4 司命vs月読命、強いのはどっち?
知らなかった。司命が炎を操る能力を持っていたなんて!
てのひらで揺れる炎は、小さくても目を引いた。ぱちぱちと乾いた音を立てながら、確かに生きている。
ああそうか、と腑に落ちた。司命はロウソクの火をもって、人の生死を振り分けている。炎と命は切り離せないものだ。でも——
「神様を攻撃するのって、まずいんじゃ」
小声で問いかけると、司命は肩をすくめた。
「燃やすわけにはいかないよな」
炎をくるりと回す。指先で転がすように、軽く扱っている。
「脅す程度でいく」
「脅すのもまずいんじゃ——」
わたしが言い終える前に、空気が裂けた。ツクヨミ様が袖を振るのに合わせて、青白い光が弧を描く。三日月……いや、刃だ。研ぎ澄まされた月光がそのまま形を持ったような、弧状の刃が、音もなく飛んできた。
「うわっ!」
反射的に身を引く。頬のすぐ横を光がかすめた。遅れて、ざん、と水面がしぶきを上げる。そこにあった月下美人が、真っ二つに断ち割られていた。
「ぼくも、脅す程度にするね」
ツクヨミ様は何事もなかったかのような表情で、ぼんやりと立っている。
わたしは勢いよく司命を振り返った。
「これは正当防衛だね! いけっ、司命!」
「切り替えが早いなあ」
司命が炎を構えたまま口元を吊り上げた。そのまま一歩、わたしの前に踏み出す。
「……無茶はしないでよ」
「無茶は、勝てない敵に対してするもんだ」
「相手はツクヨミノミコトだよ」
「くどくどとうるさいな。目障りだから下がっていろよ、れーちゃん」
炎が大きく揺らめいた。ツクヨミ様が再び袖を払う。
月光と炎がぶつかった。月白色と橙色。じゅっと音を立てて弾き合い、火花が湖に散った。
「きみの攻撃は美しくないなあ」
ツクヨミ様が口をへの字に曲げる。袖を緩やかにひと払い、ふた払いすると、頭上にいくつもの弧が浮かび上がった。そのまま袖を振り下ろす。十を超える三日月の刃が一斉に飛んできた。
司命が炎を横に薙いだ。刃がまとめて弾かれる。けれど全部じゃない。一枚、すり抜けた。
息をのむより早く、司命に肩を押された。今の今まで顔があった場所を刃が通り過ぎる。わたしは息も絶え絶えに、司命を見上げた。
「ありがとう」
「礼は、あと」
司命がぱっと手を引っ込める。その腕の皮膚が裂けているのに気づいた。じわりと赤がにじむ。刃がかすめたのだ。
「司命! 大丈夫!?」
その血を見るなり、ツクヨミ様は、おろろろ……と嘔吐し始めた。わたしも司命も複雑な表情で見守る。
「泥だらけで、おまけに血まで流して……おまえは本当に、存在そのものがばっちいなあ」
「汚いガキで悪かったな」
司命が、ふんと鼻を鳴らす。その姿はまるで、転んで擦りむいた膝をそのままに、むきになって立ち上がる子どものようだった。
炎をこぶしにまとい、水面を蹴る。その速さで、届かなかった距離が縮む。
ツクヨミ様が、司命の足元を狙って袖を振った。三日月が水面すれすれを滑る。司命は大きく飛び上がり、回避した。空中で体勢を整え、そのままこぶしを振り下ろす。炎が弾丸のように連なる。
しかし巨大な三日月が現れ、ツクヨミ様の盾になった。炎の熱が奪われていく。
「……ねえ。月の温度を知っている?」
ツクヨミ様が、ゆったりとした口調で問いかける。動きも機敏ではないのに、そこから生み出される刃は目で追えないほど速い。
「太陽の当たる位置では、百十度。でもここにアマテラスはいない」
幾重もの刃が走る。司命の衣が、肩や腰のあたりで大きく裂けた。鮮血が花のように広がる。
「月自体の温度は、マイナス百七十度だよ。炎が月に勝てるわけがないでしょ」
司命の炎のゆらめきが、ふっと小さくなった。
ツクヨミ様の周りに、いくつもの刃が浮かび上がる。交差し、ひとつの大きな三日月になった。司命めがけて一直線に飛んでくる。
「だめ!!!」
わたしは反射的に飛び出していた。司命の前に立ち塞がり、ぎゅっと目をつぶる。
しかし三日月はわたしに触れなかった。邪魔者を避けるように軌道を変え、わたしの背後へと迂回する。振り返るより早く、司命の首元へ滑り込んだ。
「……っ」
刃がぴたりと止まる。肌に触れるか触れないかの距離。少しでも動けば切れる。完全な制圧だった。
司命の喉が、ひくりと鳴る。わたしは何もできずに立ち尽くしていた。どうしよう。どうすればいい。
——起こして、と必死に願う。桃鬼さん、お願いだから、今すぐに起こして。この悪夢から引きずり出して。
でも桃鬼さんは今、三途の川のほとりで、妖怪からわたしたちの本体を守ってくれている。助けなんて来ない。
「これ以上、血を流したくはないんだ」
ツクヨミ様の声が、静かに水面に落ちた。
「降参する?」
その質問に、司命はかすれた声で笑った。
「するかよ。この、いじめっ子が」
ツクヨミ様がゆっくりとまばたきをする。
「じゃあ、心を攻撃しようか。そうすれば血を流さずに済む」
「何の話だ」
「おまえの心を暴くんだ。月はすべてを記憶しているからね」
司命は何かを言い返したが、その声は聞こえなかった。声だけではない。水のさざめき、炎のはぜる音、わたしたちの呼吸——すべての音が消える。
違和感とともに視界がにじんだ。水面が歪む。月が崩れる。空がほどける。足元が剥がれ、宙に浮かび上がる。この世界そのものが裏返るように。
わたしは後ろ手に、司命の体を引き寄せた。しかし手応えが薄い。輪郭がぼやけ、遠のいていく。
「司命!」
名前を呼ぶが、返事はない。
かわりに音が届いた。ざわざわとした雑音。人の笑い声。何かがせわしなくぶつかる音。
そこにあるのは、もはや夜の湖ではなかった。低い屋根が連なる町並みだ。板張りの壁に、歪んだ木の戸。石造りの井戸。電気も車もない。時代はわからないが、現代ではない。燃えるような夕焼けのもとでからっ風が吹き、町全体にどこか貧しい雰囲気が漂っていた。
聴覚、視覚のあとで、触覚も戻ってきた。足の裏に、砂を踏むようなざらついた感覚。そして抱き寄せたままの司命の存在も感じられた。
「司命、大丈夫——?」
見上げるが、司命は動かない。暗い瞳をじっと一点に向けていた。路地の奥だ。壁に背を預ける小さな影がある。
十歳くらいの男の子だ。長く散髪をしていないような黒髪で、よれよれの着物は裾が擦り切れている。肩をすぼめ、自らの腕を抱いていた。こちらには気づいていない。見えていないのだ。
そのとき。
「おい」
ぞんざいな声が飛んだ。複数の足音が近づく。ぺた、ぺた、と草履が乾いた土を踏んでいる。
「この貧乏人、まだ生きていたのか」
「どうせスリでもしているんだろう。それか、物乞いか?」
やってきた男女の集団は、皆、男の子よりも体格が大きい。一人の子どもが、五人の年上の子どもに罵倒されている。囲まれている男の子が誰なのか、わたしにはもうわかっていた。
幼い司命は、きっとした目つきで顔を上げた。一番近くにいる少年を突き飛ばす。その慣れたような攻撃性に、子どもらしさはない。
「そんなことしねえよ、くそ野郎」
幼い司命が唾を吐きかけた。すると子どもたちが、ぎゃははと笑い声を上げる。
「うわっ、汚いガキの菌がついた!」
「ガリガリのくせに、強がりやがって」
「あんたなんて、さっさと死んじゃえばいいのよ」
唾を吐かれた子どもが、どん、と司命の腹を膝蹴りした。前に倒れかけたところへ、横からこぶし。地面に転がった司命の腹に、脇に、全員で容赦なく蹴りを入れる。
「やめて……」
わたしは駆け寄ろうとした。しかし足裏が張りついたように、びくとも動かない。過去に干渉はできないのだ。
地面に押さえつけられながら、幼い司命が息を荒げた。鼻からも口からも血がしたたっている。それでも、目だけは死んでいない。
「おまえたちこそ、苦しみ抜いて死ね。そうしたら、閻魔大王が地獄に落としてくれるだろうよ」
「はあ? 何言ってんだ、こいつ」
「そんな御伽噺みたいなこと、誰も信じてねえよ」
子どもたちが鼻で笑う。
そのとき、新たな声が弾んだ。
「おーい、見つけたぞ!」
振り返る子どもたち。現れたのは一人の少年だった。得意げに何かをぶら下げている。高く掲げると、その小さな物体は危なっかしく揺れた。
子猫だ。まだ幼く、てのひらに収まるほどの大きさだ。細い手足をばたつかせ、にゃあ、とか細く鳴いている。
「こいつがかわいがっている野良猫だろ?」
子どもたちは顔を見合わせ、にやりと笑った。
「同じみなしご同士、傷をなめ合っているんだな」
「飯を分けてやっているんだろう? その分、ひもじい思いをするのに」
「負担は減らしてやらないとなあ」
その言葉に、幼い司命の顔色が変わった。
「や……」
声が震える。
「やめろ……」
初めて明確な焦りが表れる。体を起こそうとするが、押さえつけられて動けない。
「そいつに手を出すな——!!」
悲痛な叫び声が路地に響く。一人の子どもが司命を見下ろした。手を伸ばし、無造作に拾い上げたのは石だ。ごつごつした塊の重さを確かめるように、てのひらで転がす。別の子どもたちも、それに倣って次々と石を手に取る。
そしてそのすべてが、迷いなく子猫へと振り下ろされた。
司命の人間嫌いには理由がありました。
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