6-1 月の代わりになるものは?
夜と満月、海、そして無意識。
司録の知識を聞いたはいいけれど、結局、何をすべきかが見えない。
退勤後、わたしと司命は夕食が済んだあとも食堂にこもり、月読命に会う条件について考えていた。
「どういう意味かなあ」
「さあな。だって、冥府には月も海もないし」
司命が頭の後ろで手を組み、天井を仰ぐ。
わたしは手帳に書いたメモを、ペン先でトントンと叩き続けていた。
「〝夜〟は、冥府の基準なら、裁きを待つ列が途切れたときだね」
「暦も時計もないから、便宜上、退勤後を夜と呼んでいるわけだが……まあ、成立しているか。
〝無意識〟の部分は、殴り合って気絶でもすりゃいいのかな」
「ハードルが高いなあ」
「むしろそれが一番簡単なくらいだぞ。月と海がそろわない時点で詰んでいるだろ」
「材料が存在しない料理を作れと言われているようなものね」
わたしは手帳に書いた〝満月〟と〝海〟の単語を見つめ、ぐるぐると丸で囲んだ。
そのとき背後から、桃鬼さんがにゅっと顔を出した。
「料理って言ったか?」
割烹着を脱ぎ、身軽な和服をまとっている。
「桃鬼さん。材料が存在しない料理を作れと言われたら、どうしますか?」
「断る」
「そうじゃなくて――たとえば、卵がないのにオムライスを作れと言われたら、どうしますか?」
「おれは和食しか作らんよ」
「仮の話です」
「きみたちは、仮の話が好きだな」
桃鬼さんが腕組みをした。眉間にしわが寄る。料理人の顔だ。
「卵の代わりに、薄く焼いた豆腐を使う。片栗粉を混ぜて焼けば、見た目や食感はそれらしくなる」
「へえ!」
「つまり」
桃鬼さんが人差し指を立てる。
「代わりを使うんだよ。〝そのもの〟じゃなくとも、〝それっぽいもの〟であれば、別物でも成り立つんだ」
その言葉が胸にすとんと落ち、わたしは司命の顔を見た。
「満月も海も、別のもので成立させる。この冥府にあるもので」
司命もこちらに向けた目を輝かせている。
「海は、三途の川でどうだ? 川は海に繋がっているというし」
「いいね。月は……」
言いかけて、ふとひらめいた。
「桃鬼さん。いつものあれ、作ってくれませんか?」
桃鬼さんは、げ、という表情に変わった。
「聞こえなかったことにしていいか?」
「だめです」
「仮の話に巻き込まれたくないんだが」
「桃鬼さんならすぐに作れます。丸くて、白くて、わたしの大好きな、あれ」
桃鬼さんは後ずさった。しかしわたしの表情を見て、あきらめたように息を吐く。腕まくりをすると、無駄のない筋肉が浮かび上がった。
・・・・・・・・・・
〝太野 礼阿。
おまえは冥府の外に出てはならない〟
雇用契約を結んだ日の、エンマ様との約束を忘れたわけではない。
でも、冥府の階段の一番下は、すぐに三途の川の船着き場だ。建物からは出るが、外とは言い切れない距離だろう。庭のようなものだ。うん、大丈夫、外じゃない。
自分に都合よく言い聞かせながら、司命と桃鬼さんとともにエレベーターを降りている。スムーズかつ快適だ。
「この城にエレベーターなんてあったの?」
不信感がむくむくと起き上がる。死者たちには、三十四日間も階段をのぼらせるくせに!
司命はどこ吹く風だった。
「客を歩かせ、従業員は楽をする。これが冥府のやり方だ」
「得意げに言わないで。普通は逆でしょ」
「いや、これでいいんだよ。死者たちは三十四日間、これまでの人生を噛みしめるんだ」
「長すぎない? 経験者だけれど、普通に疲れたよ」
「人間、暇になると考えるからな。それくらいでいいんだよ」
あきれながらも思い出す。浮気者の天野 若彦さんとともに歩いた三十四日間。
人生を嚙みしめるなんて殊勝なこと、一度もしなかったような。むしろ、先に待つはずの閻魔大王に対する好奇心に満ちていた。怖いのか、会いたいのか、自分でもわからないまま。それでも足は止まらなかった。
チン、という音で現実に引き戻された。エレベーターが到着したのだ。扉が開くなり、もうもうとした霧が流れ込む。視界は悪いが水音が聞こえる。三途の川の船着き場は目の前だ。
恐る恐る一歩踏み出す。足の裏に伝わる感触が、城内の石床とはまるで違う。湿った土が靴底にまとわりつく。数歩歩いただけで、すぐに足元の石につまずいた。
「わ!」
「おっと」
転びかけたところを、桃鬼さんが腕を引いてくれた。わたしを支えながら、軽く周囲を見回す。
「エンマ様が礼阿ちゃんを外に出したくない気持ち、わからなくはないね。ただ歩くだけでも危なっかしい」
「いいえ。あの御方は、部下が外で嗅ぎ回るのが気に食わないんです」
「本当にそれだけかな」
霧の中でも、桃鬼さんの含み笑いはくっきりと見えた。
冥府の中のように松明が並んでいるわけではない。それなのにあたりが見えるのは、いくつもの青白い光がふわふわと漂っているからだ。
「鬼火だ」
司命が低くつぶやく。
「触れるな。こいつらは迷子なんだ。悪さはしないが、放っておけ」
わたしは思わず身を引き、ごくりと喉を鳴らした。
鬼火は一定の距離を保ちながら、こちらの動きに合わせてふわりと揺れる。見張られているのか、導かれているのか。
三途の川の水面が、鬼火の光をぼんやりと反射している。引き寄せられるように三人で川岸に立った。
「夜と海がそろった。桃鬼さん、あれは……」
「本当にこれでいいのかい」
桃鬼さんは眉をひそめ、持っていた巾着袋に手を差し込んだ。ごそりと布が鳴る。取り出されたのは、丸くて白い甘味――
「月に代わってお団子よ!」
「どこかで聞いたようなセリフだな」
司命はあきれ顔でわたしを見た。
執筆のお供にと、桃鬼さんがいつも手作りしてくれるお団子。優しい甘さで、こんがらがった脳がほどける。
「団子が満月の代わり、ねえ。だいぶ強引じゃないか?」
はなはだ信用していないという顔の司命に向かって、ふふん、と鼻を鳴らした。
「学校新聞の取材で、老舗和菓子店のおばあちゃんに話を聞いたことがあるの」
「守備範囲が広いな」
「満月の夜に供える月見団子は、その形も満月に見立てて丸く作るんだって。五穀豊穣を祈願するものでもある。月の代わりにぴったりじゃない?」
「都合のいい解釈だ」
司命はぽつりとこぼしたが、やがて腹をくくったように短く息を吐いた。
「だが、れーちゃんの取材を信じるしかないな」
顔を見合わせ、力強くうなずく。
「よし。れーちゃんが団子を水面に映せ。
桃鬼さんは、ぼくを殴ってくれ。できれば一発で気絶させてほしい」
「えー。おれの手は、料理と、仲間を守るためにあるんだが」
桃鬼さんが億劫そうに言う。
「〝無意識〟を実行するためだ。仲間を守るために、いったん今、ぶん殴ってくれ」
そのやり取りを聞きながら、わたしは受け取った団子を掲げた。白い丸が三途の川に映り込む。まるで本物の月のように、淡くゆらりと揺れた。
見計らったかのように、桃鬼さんが、どこからともなく陶器の小瓶を取り出した。とん、と親指で蓋を押し上げる。すると霧の中に桜の香りが混じった。
「……あ」
覚えがある。野々子ちゃんとの〝体内時計対決〟のときにも使われた香りだ。頭もまぶたも重くなる。
「え……ちょっと……桃鬼さん……」
言い終わる前に、意識がとろんとしていた。足元が頼りなくなり、わたしはその場に座り込んだ。隣で司命も腰を抜かしている。
わたしの指先からお団子が転がり落ち、川にぽちゃんと落ちた。波紋が広がり、それが消え切る前に——
ザザッという音が耳に引っかかった。水音でも風でもない。何かが這うような音だ。霧の向こうに悪意を感じる。そういえば、冥府の外には鬼や妖怪がいるのだっけ?
視界の端で何かが動いた。黒い影が近づいてくる。でも、体が動かない。
「おいおい、人の安眠を邪魔するなよ」
低い声。桃鬼さんだ。
懐から、すっと取り出したのは包丁だった。鋭くきらりと光る。音もなく、影を正確に捉える。何かが断たれた気配があった。
「守ってやる。そのまま落ちろ」
桃鬼さんの声が遠ざかる。
その言葉を最後に、わたしの意識はゆっくりと沈んでいった。
礼阿と司命の意識はどこへ?
平日は毎朝7時頃、土日祝は正午頃に更新いたします!




