4-8 礼阿vs野々子、正しいのはどっち?
……わたし、みっともないな。
七十も年下の女の子の前で感情に任せて、手を上げて、そのうえ泣いている。こんなの、裁く側がすることじゃない。
たぶん背後にいる六人は、わたしの涙に気づいていない。かろうじての救いだ。
けれど明らかに、わたしは補佐失格だった。
何も発することができない両者を見かねて、双子が「そこまで――」と言いかける。しかし最後まで続かなかった。エンマ様が制止したのだ。
「終わりか」
その静かで残酷な声は、双子ではなく、わたしに向けられている。
「おまえの裁きは、これで終わりか」
エンマ様に差し出されたのは、逃げ場でも甘えでもない。最低限の猶予だ。
……ずるい。でも。
終わりたくない。
へし折れた心が、軋みながら起き上がる。痛い。情けない。恥ずかしい。でも、わたしの感情を真正面から受け止めた野々子ちゃんは、もっと苦い思いをしたはずだ。
わたしはまだ立てる。涙の残りをぐっと押し込める。一緒に立とう、野々子ちゃん。
「……野々子ちゃん、ごめん。ひどいことをして」
声は少しだけかすれた。
野々子ちゃんのぶたれた頬は、まだわずかに赤い。わたしからじっと視線を逸らさない。
強い。本当に強い子だ。思わず苦笑しそうになる。
「わたしの負けだよ」
降伏宣言に、司命、司録、桃鬼さん、桃爺、桃婆が息をのんだ。
「冥府にふさわしいのは、あなただと思う。
でも、続けさせてもらえないかな。最後に、この裁きだけ」
野々子ちゃんの唇がかすかに震えた。一度ぎゅっと目を閉じる。次に開いたときには、これまでにない光を宿していた。ロウソクの灯りしかない広間の中で、その瞳だけが、まっすぐ、強く、揺れずに輝いている。
そして、ゆっくりとうなずいた。
ああ、野々子ちゃん。その光を覚悟と呼ぶんじゃないのかなあ。
わたしは踵を返し、自分の椅子に戻った。ペンと手帳を拾い上げる。誰もが息を殺して見守っているが、不思議と緊張はなかった。わたしもまた、覚悟が決まったのだ。
「野々子ちゃん。エンマ様の補佐として働くことになったら、あなたには何ができますか?」
穏やかな感情が、そのまま声色に出た。
「判断を 知識と理論で 速やかに。どんな裁きも ともに背負います」
澄み切った呼吸。野々子ちゃんも落ち着いている。
「逆に言えば、それが今のエンマ様に足りないものだと」
「その通り 回りくどさに あきれちゃう。効率的に 裁けるはずです」
そう。エンマ様は死者の話を最後まで聞く。判決に関係のないことでも。
わたしはそれを尊いと思っていたが、野々子ちゃんは逆らしい。
野々子ちゃんが咎めるようにエンマ様を見上げる。
「誰のため 裁くのでしょう? 死者のため? 違いますよね 世界のためです」
その考え方も間違ってはいない。むしろ正しいのだろう。冥府は世界を回すためにある。滞れば、どこかが歪む。だから効率は必要だ。
でも、それだけでいいはずがない、と思う自分がいる。エンマ様があえて回り道をしていることを知っているから。〝物事も心象も、誰かが証さなければ起きていないのと同じ〟……エンマ様はいつだって、死者たちの最期の言葉を聞き遂げようとしている。
そして発言そのものとは別に、もうひとつ引っかかるものがあった。エンマ様に苦言を呈する視線。好きな相手に、こんな物言いをするものだろうか。
エンマ様のことが好きなんでしょう――わたしが遠回しに言ったとき、確かに野々子ちゃんは耳を赤くした。否定しきれない、あの反応。
でも野々子ちゃんがエンマ様を見る目は、時に恋心とはかけ離れている。アマテラス様が五十鈴様を思い浮かべるときの目とは、まったくの別物だ。
野々子ちゃんのそれは、恋なんかじゃなくて……
「執着」
言葉が形になってこぼれる。
野々子ちゃんの視線は、弾かれたようにわたしの元に戻ってきた。
「どうして野々子ちゃんは、冥府に執着しているの?」
〝エンマ様に〟とは言わなかった。でも本人には意図が伝わっているはずだ。
「あたしはね あたしの望みを 叶えたい。あたし自身の 魂の望み」
ややこしい。今、〝あたし〟って何回言った?
わたしが難しい顔をして指折り数えていると、野々子ちゃんはあきらめたように首を振った。
「礼阿さん わかりっこない あなたには。他の誰にも わからないでしょう」
……他の誰にもわからない、か。随分はっきりと壁を作るものだ。
確かに野々子ちゃんは他の人とは違う。転生をくり返し、そのたびに冥府の配達人として仕える。前世の願いをちょこっとだけ来世に持ち越しできる。
そうか、野々子ちゃんにとって〝あたし〟は一人じゃないんだ。
ぞくぞくぞくぞく。
わたしの推理が正しいかどうか、確かめなきゃ。もし正しければ、野々子ちゃん、あなたは強いだけでなく、とても優しい子だ。野々子ちゃんが本当に叶えたいのは——
「野々子ちゃんが初めて冥府に来たとき、お給料について話したのだったよね?」
「もちろんだ。人間というやつは、ぼくたちと違って、タダ働きを許せない下等生物だからな」
司命が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
そう、野々子ちゃんにとっての給料は、〝来世についてちょこっとだけ決める権利〟だ。願いを持ち越すことができる。でも来世にかける願いがあるなら、このまま配達人でいればいい。
わたしが思いを馳せるべきは、野々子ちゃんの未来ではなく過去なんだ。
「野々子ちゃん——野々子ちゃんたちは、自身が前世で何を願ったかを知ることはできるの?」
わたしがたずねると、司録がすぐに動いた。指で空を切る。それに応えるように、壁一面の本棚がざわりと鳴った。空中へ飛び出した帳面は三十冊を超えている。小野篁から野々子ちゃんまで、すべての〝あたし〟の帳面を呼び寄せたのだ。
危なっかしく積み上がった帳面を、司録が次々とめくっていく。
「ひとつ前の人生の最期に何を願ったか。最初に冥府を訪れたときに必ず伝えています」
司録が手を止めずに言った。
「どんな会話を? 野々子ちゃんが六歳のとき、どんな会話をしたの?」
「詳しい記述は残っていませんが……」
司録が言い淀む。らしくない。
わたしも唇を噛んだ。そのとき——
「おれが覚えている」
一筋の風がすっと吹き抜けたようだった。エンマ様だ。濡羽色の長い髪が揺れる。この裁きの中で、初めてわたしの席を振り返った。
「冥府にある井戸から、泣きながら這い上がってきたところを、桃爺と桃婆が発見した。すぐに広間に連れて来られ、おれが事情を説明した。見返りの話をすると、泣きじゃくりながらこうたずねた——
〝前世では あたしは何を 願ったの? 教えてほしい 忘れているの〟」
幼い口調が重なって聞こえるようだった。泣き声を引きずったままの不安定な問い。それでも、どうしても知りたかったのだとわかる。
エンマ様は、表情を変えずに続けた。
「隠すこともない。おれは答えた。〝とびきり可愛い女の子に生まれ変わらせて〟だったと。そして、それはすでに叶っているとも伝えた。すると考え込み始め、涙も止まった」
わたしは必死にメモを取り続けた。
「それで、野々子ちゃんは次に何を言いましたか?」
エンマ様が、八年前の幼子の言葉を復唱する。
「〝目標が 今はっきりと 決まったの。前のあたしを 引き継ぐことです〟」
司命は椅子にもたれかかりながら、あんぐりと口を開けていた。
「よく一言一句を覚えていらっしゃいますね。
……ともあれ、これをもって無事に契約成立。のんちゃんは正式に冥府の配達人になったというわけだ」
――違う。それは冥府側の視点だ。野々子ちゃんの視点にならなければ。
手帳のページを指で押さえる。紙の向こうに浮かび上がってくる、ひとつの光景。
涙で頬を濡らした六歳の女の子が、何かを思いついたように顔を上げる。そのとき決意したのは、配達人を引き継ぐことではない。
「野々子ちゃん。あなたが引き継ごうと思ったのは、前世のあなたの願い事なのでは?」
野々子ちゃんの目が大きく見開かれる。
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