3-9 大切な物の置き場所は?
司命が「食べないなら、くれ」と言いながら、パフェを器ごと奪い取ろうとする。
さっとかわし、わたしが向き直ったのは、司録の方だった。
「アマノジャクが、生き物の弱さや迷いにつけ込むというのは本当?」
「はい。相手が心の底に押し込めている疑念や不安を嗅ぎ取り、それを言葉にして投げかけてくることがあるとされています。鏡映しやオウム返しにも近いですね」
「ということは、天岩戸に現れたアマノジャクは……」
わたしが視線を向けると、アマテラス様はきょとんと目を丸くした。
「あなたが他の神々に対して抱いていた疑惑を、そのまま口に出したのかもしれませんね」
アマテラス様が扇子で口元を隠す。
「あらやだ。それって、わたし、とっても失礼じゃないの」
自分は本当に大切にされているのか。自分ではなく、光が必要なだけではないのか。用が済めば捨てられるのではないか——そんなことを、太陽神ともあろう御方でも悩むものなのか。なんと人間らしいことだろう。
それからアマテラス様は、ふと思い当たったように扇子を下ろした。
「もしかしたら、不安を感じていた相手は、神々ではなく、彼だったのかもしれない。本当はわたしの正体を知っているのでは、だから近づいたのではないかって……恋しているときって、おかしなことを考えるものよね。そうでしょう?」
いたずらっぽく肩をすくめる。
「岩戸に隠れることを思いついた最初の動機もね、実は……彼をちょっぴり心配させてみたかったの。女心というものよ」
双子は顔を見合わせた。何の話かさっぱりなのだろう。
その傍らで、わたしは絶句していた。今の自白が本当だとしたら、世界を暗転させたあの大事件は、あまりにも個人的な感情から起きたことになる。
手帳にこう書き足した——〝神話とは、想像以上に、心臓に近い場所で生まれるものらしい〟と。
もうひとつハテナが浮かんだ。では、さっき自分の部屋に現れた天邪鬼は、一体、誰の疑念を映していたんだろう? 再びアマテラス様のものだったのだろうか。
答えを考える間もなく、アマテラス様が「ご馳走様でした!」と手を合わせた。
「あれえ、もう召し上がったのですか? 随分と、食いしん坊であらせられて……」
司命は思ったことをそのまま口に出す。その頭を、司録の平手が容赦なくすぱーんと叩いた。
「もう高天原にお帰りになりますか? その前にお願いが——」
慌てて切り出すと、アマテラス様はくすりと笑った。わたしの言いたいことを最初からわかっている顔だ。
懐に手を差し入れると、指先にきらりと光るものが現れた。
「大切な物は、手放しちゃだめよ」
そう諭しながら、わたしの後頭部に手を回す。体ごと力強く引き寄せられた。
「え、あ、ちょっと」
首元に覚えのある感触。ヒイ様の首飾りだ。慣れた手つきで紐を結んでくれる。
「ほら。よく似合ってる」
その声は慈愛に満ちていた。ひょっとしてアマテラス様も、幾度となくこの言葉をかけられたのかもしれない。お世辞でも儀式でもなく、ただ恋人とのさりげない日常の中で。
「クレーム改善の件は、再検討するよう家族に伝えておくわ。エンマには、アマノジャクを追っ払ってもらった恩があるしね」
アマテラス様はてきぱきと言った。すべてお見通しのようだ。椅子から優雅に立ち上がる。
「こんな暗がりでよろしければ、また遊びに来てくださいね」
少し名残惜しかった。決して友達とは言わないが、女子会ができる仲だ。そんな相手は初めてできた。
アマテラス様はわたしを見下ろしていたが、何かをぱっと思いついた顔をした。颯爽と手洗い場に向かうと、空になったパフェの器をすすぎ、清らかな水を溜める。
「元気も明るさも求めないけれど、せめてこれくらいはあってもいいでしょ」
そう言って、髪に挿していた曼殊沙華を抜き取った。深い紅の花弁が指先でかすかに揺れ、そのまま水を張った器へと移される。
アマテラス様はそれを食卓の中央に置いた。
「い、いけません。これはいただけません」
アマテラス様は身をかがめ、わたしの目を優しくのぞき込んだ。
「れいれいが持っていてくれた方が、意味があるのよ」
言葉を失うわたしの肩を、アマテラス様はぽんと叩いた。
「取材のお礼ってことにしておきなさい。あの女の半鬼にも、驚かせて悪かったと詫びておいてね」
「あ……ありがとうございます……」
おずおずと頭を下げる。
アマテラス様はにっこりと微笑んだ。
「れいれい。もしも好きな人ができたら、あまり待たせちゃだめよ。すぐに思いを伝えなさい。時間って、思っているよりもずっと貴重で気まぐれなんだから」
そして、のんきな顔で「いつでも呼んでね」と言い残すと、ひらりと衣をひるがえし、堂々と食堂を去っていった。
わたしは双子とともに呆然と見送る。三人の真ん中で放射状に開く曼殊沙華は、まるで小さな太陽の名残のようだった。
扉が閉まり、静まり返った食堂で、最初に口を開いたのは司録だった。
「……焼き芋、好きな人がいるのですか」
いや、と言い返す前に、司命が口を挟んだ。
「えーっ。れーちゃんがどこかに嫁いじまったら、おれ、辞表を出すわ」
「馬鹿なことを」
司録があきれて首を振る。
「だってさあ、いじめる相手がいなくなるじゃん!」
司命は頬を膨らませ、ぶうぶうと不平を並べ立てた。決着しない双子のいさかいに、思わず苦笑する。パフェの甘い香りと平和がくすぐったい。
そんなわたしたちを、たった一人、厨房からにらんでいたのは桃鬼さんだった。
天照大神が祀られている、三重県の伊勢神宮。そばを流れる五十鈴川のほとりには、秋になると曼殊沙華が咲きます。誰が最初に植えたのかは、神のみぞ知る……
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