3-8 光はどこに差す?
それは明らかに〝見えてはいけないもの〟だった。
輪郭はあるのに定まらず、顔らしきものが浮かんでは崩れ、また別の表情になる。
「アマノジャクよ!!!」
悲鳴がこだました。扇子を取り落とし、止める間もなく寝台から立ち上がる。お団子の皿と湯呑みが床に落ちて割れた。
アマテラス様は逃げるように小さな衣装だんすに飛び込み、内側から扉を閉めた。
同時にすべてが暗くなった。灯りが消えたのではない。重たい布が降ってくるように、闇が落ちてきた。前後左右、上下の感覚がなくなる。音が距離を失う。立っているのか、這っているのかすらわからない。
「な、何これ……!」
わたしの声はどこにも届かず、すぐに潰れ散る。これは、この部屋だけで起きているの? 冥府全体? それとも、地上や高天原まで?
判断する余裕はなかった。心臓が喉まで跳ね上がる。たんすに近づこうともがけば、何かにぶつかり、じたばたと空をつかみながら転ぶ。
「アマテラス様! どこですか?」
しかし返ってきたのは、声の形をした異物だった。
『きみは……それで……幸せなのか……』
『助けられなかったのか……』
アマテラス様の話は本当だった。頭蓋骨の内側を、冷たい爪先でなぞられるような感覚。音程も抑揚もなく、問いかけているのに答えを必要としない声。どうにかなってしまいそう。
「違う……」
訳がわからないのに否定したくなる。声を振り払おうと、頭を大きく振った。だめだ。思考が崩れる。足元がなくなる。もがきながら叫んだ。
「アマテラス様、お願い、返事をして! エンマ様、エンマ様———」
次の瞬間、前触れもなく、体がひょいと浮いた。
「わっ?」
背後から、確かな腕。子どもを相手にするかのように、軽々と抱き上げられた。
エンマ様だ。胸板に額が当たり、ようやく呼吸が戻る。
暗闇の中でも、その気配ははっきりしていた。揺らがない存在。〝王が柔くなったら、真っ先に食われる〟という桃鬼さんの言葉を思い出す。よかった、アマテラス様を救うために駆けつけてくれたんだ。
エンマ様はそのまま迷わず数歩進み、たんすを探り当てる。扉に顔を寄せ、そっと呼びかけた。
「アマテラス様、もう大丈夫です」
「でも、アマノジャクがそこにいるの」
か細い震え声が、くぐもって聞こえた。
「天邪鬼は、嘘をつく鬼とされています。嘘ならおれが裁きましょう」
無理に扉を開けるわけでも、声を荒げて呼び立てるわけでも、裸になって踊るわけでもない。エンマ様はただ淡々と語りかける。
「しかし、正確には違う。アマノジャクは嘘をつくのではない。弱さや迷いにつけ込み、悪い方を選ばせるのです。あなたは自分で選べる御方だ。信じた道を進めばいい。おれたちはここにいます」
わたしはエンマ様に抱えられたまま、息を殺して見守る。
すると、ぎ、と扉が動いた。暗海がほどけ、世界に光が差す。そろそろと白い指が伸び、次いで、怯え切った顔がのぞく。大粒の涙がいくつも頬を伝っていた。
「わたし、今度は間に合ったかしら」
エンマ様の腕から抜け出し、アマテラス様に飛びついた。
「大丈夫。すぐに終わりましたよ、アマテラス様——」
お互いを抱きしめ、おいおいと泣く。
アマノジャクの気配を追うように、エンマ様は部屋の隅々をにらんだ。もはや何者もいない。
続いて床に視線を落とす。お皿と湯呑みの破片が散らばっている。
「怪我をしたか」
「いいえ」
アマテラス様が、わたしの肩に顔をうずめたまま、首を横に振る。
「おまえは」
「大丈夫です。エンマ様、どうやってここにたどり着いたのですか」
鼻水を垂らしながら振り返る。
エンマ様はわたしたちを一瞥した。
「冥府は常に暗い。だからおれは、闇に目が利く」
アマテラス様は、ぐしゅぐしゅと鼻をすすりながら笑った。
「冥府にシャンデリアがなくてよかった」
・・・・・・・・・・
「いやあ、おっかなかったなあ」
食堂の椅子に腰掛けた司命は、だらんと脱力していた。
机にはパフェが四つ。エンマ様がデリバリーで注文してくれたのだ。どこに注文したのかは知らないが。
背の高いガラスの器に、スポンジや生クリーム、果物、コーンフレークが層を成している。頂上に乗っかっているのは、濃い卵色のプリンだ。
「すべてを調べ切れてはいませんが——」
司録は帳面をめくりながら、せっせとスプーンを口へ運ぶ。
「冥府では数十秒、地上では数分、高天原たかまがはらでは数時間、闇が続いたそうです。神様たちは大焦り。人間たちはお祭り騒ぎだったらしいですよ」
「太陽が消えて喜ぶなんて、変なの」
わたしはあきれたが、ふと思いついた。ひょっとして、地上では皆既日食として扱われたのだろうか。
「おれ、トイレに行きたくなったらどうしようって、そればっかり考えていた」
口の周りにクリームをつけた司命が、身震いする。
わたしは、ふとつぶやいた。
「エンマ様はパフェを食べないのかな」
「先ほど、廊下や広間の端に塩を盛っているのを見ましたよ。アマノジャクとやらがまた現れないようにするための、守りのまじないらしいですが。効くのでしょうか」
司録が不思議そうに言う。
首をかしげるわたしたちをよそに、アマテラス様が口を挟んだ。
「ねえ、れいれい。今回の執筆には、どのくらいの時間がかかるのかしら?」
プリンのてっぺんに鎮座するさくらんぼを頬張りながらたずねる。
わたしは頭の中のメモの量を計算した。五十鈴様の存在を隠すとすれば、そう長くはかからないだろう。
「数日程度かと」
「ちっとも急いでいないから、無理はしないで。書けたら、またわたしのヤタガラスに預けてちょうだい」
へっ?
わたしのスプーンからさくらんぼが転がり落ちた。双子が目を光らせ、揃って飛びかかる。
「編集長は、アマテラス様のペットだったのですか?」
アマテラス様は、編集長? と首をかしげながらも答えた。
「ペットというか、使いのようなものね。わたしが呼ばない限り、ほとんどどこにいるかわからないわ。天、地、人を自由に行ったり来たり……だから、ヤマタノオロチの記事も、あんなに早く広まったのよ」
噂には羽がある、とは、このことか。
執筆にあたり、もうひとつだけ確かめたいことが浮かび、わたしは手帳を取り出した。
質問攻めヒロイン、まだ聞き足りません。
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