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真・宝仙伝  作者: 武壱
鬼女母人之章
2/7

 草木も眠る丑三つ時、深い森の中には、時折獣の遠吠えが響き渡っていた。


「ひっ…」


 そんな深い森の中、何故と疑問に思う程不釣り合いな光景が、月明かりによって照らされる。


「お、お願いです…お助け下さい…わ、私のお腹の中には、産まれてくるややが居るのです…何卒、何卒…」


 恐怖に引きつった表情を張り付かせた身重な女は、懇願しながら後ずさる。


 そして、その女が話しかけた先には、手に抜き身の包丁を持った老婆と思しき人物が、月を背に幽鬼の如く立っていた。


 女の懇願する声がまるで聞こえないかの様に――或いは老婆故に耳が遠いのか、手にした包丁を握りしめながら、ゆっくりと女に向かって歩み始める。


「い、嫌ッ!来ないで、来ないでぇ…」


 それを目の当たりにして、近づいてくる老婆から逃れるように、身重の女は賢明に後ずさる。


 普通に考えて、相手は老婆なのだから、立ち上がり駆け出してしまえば、容易に逃げおおせそうなものだった。


 しかし、それが何故だか出来無い。


 恐怖が心を縛り付けているだろう事は、彼女の表情から容易に想像出来る。


 だが、それだけではないのだ――


 そもそもの話、草木も眠るような丑三つ時に、深い森の中に身重な女性が、たった1人で居る物だろうか?


 否――彼女は、夜の帳が辺りを覆う頃までは、最愛の夫と共に旅の途中であったのだ。


 ならば、その旦那は何処に行ったというのであろうか?


 その答えは――老婆の握りしめる包丁が,()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()察して欲しい。


 身重の女房と、歳はさほど離れていない旦那であった。


 腕っ節に自信があったかどうかはさて置きとして、少なくとも枯れ木のような細腕の老婆に襲われて、力で負ける筈もないだろう。


 しかし結果は、()()()()()()()()()()()()である。


 相手が刃物を持っていた――それもある。


 単純に不意を突かれて、背後から襲われた――それも大いに関係あるだろう。


 しかし、それだけが理由の全てではなかった――一部始終をその目で目撃していた彼女は、故に抵抗も逃走も無駄であると悟り、懇願するという選択肢を取ったのである。


 だがその些細な抵抗はただただ虚しく、少し後ずさった所で、彼女の逃げ道は岩と樹によって塞がれてしまう。


 老婆はただただ淡々とした足取りで歩を進め、徐々に彼女との距離を縮めていく。


 その様子を彼女は、絶望と恐怖で引きつった表情で、首を横に振るのみだった。


 岩と樹に道を塞がれて、まるでそれらに張り付く苔や蔦に変化してしまったかのように、身体が上手く動かせない様子だった。


 そして老婆は、遂に女の傍らでようやく立ち止まり、手に携えた包丁をゆっくりと振り上げる。


 血濡れの包丁は、月光を受け妖しい光を放ったかと思うと、その照り返しで影を落とす老婆の顔の一部が照らし出される。


 その瞬間、女の瞳により一層の恐怖の色が宿った。


 女は見た――赤く血走った瞳で自分を見下ろす老婆の額に、人に有らざる筈の一本の角が生えているのを。


「――あ…あぁ…い、嫌…」


 ヒュン…ブシュッ!!


「ギャアアアァァァーーーッ!!」


 老婆の掲げた包丁が遂に振り下ろされ、風を斬る音に次いで、肉を裂く鈍い音が聞こえてくる。


 そして、絹を切り裂く悲鳴と共に、夜の深い森の中に一輪の鮮やかな深紅の花が咲いた…


 何より可哀想な事に、すぐに息絶える事が出来無かった彼女は、自らの胸に突き刺さった包丁を懸命に引き抜こうと藻掻いていた。


 しかし、その動きも次第に鈍きなっていく。やがてその瞳から生の光が無くなると、苦しそうな表情のまま、ようやく息を引き取った。


 彼女の生気を失い見開かれた瞳には、月を背に佇む老婆の姿が映っている。


 まるで――死して尚、自身を殺めた者の姿を目に焼き付けて、他者にその事を証拠として伝えたいかの様に…


 「…これで…一体、何人目じゃ…」


 暫く、動かなくなった女を前に、立ちつくしていた老婆が、不意にポツリと呟いたかと思うと、徐に女の髪を無造作に掴み、後ろを振り向き歩き出す。


 その頃になると、何故かその額には、先程の照り返しで確かに見えた筈の、人に在らざる角は確認出来ない。


 動かなくなった女を引きずりながら、老婆は森の奥へと向かっていく。


 先程の老婆が呟いた問いに、答える声など在ろう筈もなく、変わりに辺りには、相も変わらず獣の遠吠えが響き続けていた。

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