9 日常の崩壊
たまの休みがなかなか本当の意味での「休み」にならない今日この頃。
春華が思わず深いため息を吐きそうになって、軽い咳払いで誤魔化す。
いかんいかん、今はお仕事中。
お客様がいる場所でため息はないわ。
以前、スタッフが「今日は体調が悪い」とこぼしていたら本社にクレームの手紙が行ったことがあった。
曰く。「客がいるところで店員が体調の話をするとは何事だ。こっちはせっかく楽しくお買い物しようとしているのに」だそう。
スタッフとしては「今日は体調が良くないから無理できないのよ。フォローお願いしてもいいかな?」という話をしていたにすぎないんだけど、それを小耳に挟んだ客が気分を害した、という件。
クレームをつける人っていうのは、基本的にどんなことでもクレームに仕立て上げることができる。
店員の営業スマイルでさえ「私のことを馬鹿にしている」というクレームにできるのだ。
そして、そういうのがその場にいたわけでもない本社の人間に送りつけられた場合……見事に始末書案件。
一応仲間内では分かっているけどね。
でも、だからと言ってわざわざクレーム生産に関わる必要はありません。
店にいる間は頑張りましょう。
「いらっしゃいませー」
と、皆川が声を上げるので、春華もつられて入り口に目をやり入ってきた客に「いらっしゃいませー」と声をかける。で。
「あ」
思わず声が出た。
「あ、どうも」
入ってきたのは柊。いつもの和装が眩しいです。
で。
「あー! ご注文の生地ですね!」
後ろから木下が声を上げた。
……へーそうか。柊さん、生地なんか注文してたんだ。
と春華が木下の方に目をやると、いそいそと事務所の方に走って行って、そう待たせることもなく反物の束を抱えて持ってきた。
「こちらの生地でお間違いないでしょうか?」
と、並べられる反物は。
ああ、あれ。
こないだヒスイが買って行った紺色の生地。
あれ、何かの試作用だったのかな。改めて大量にご購入らしい。
そういえば事務所に客からの注文分として取り置きしてある大きな包みがあった。あれか。
あれ、たぶん一巻き五メートルか七メートルくらいの反物。それが四反か五反。
おいおい、柊さん何をそんなに包むんだ? っていう量だけど。
手際よく会計を済ませていく様子を横目で見ながらふと。
え、あれ、結構重量あると思うけどまさか歩いて持って帰ったりしないよね。ここからひいらぎ屋まで結構距離あるよ? だいぶ前に暖簾の件で来た時は散歩がてら歩いてきたって言ってたけど、まさかね。
でも和装。運転してくるかな? ああでも私は足に合っていて近所くらいなら草履で運転……しちゃう時あるけど。
と思いつつ春華は、会計を終え反物の束をひょいと抱えて歩き出した柊に近寄って。
「それ、相当重いと思いますけど……今日は車ですか?」
と、こそっと声をかける。
「ああ、はい。今日は車です。さすがにこの量を持ち歩くのは色々イタイと思いまして」
苦笑まじりに返してくる柊に春華が、ああなるほど、と頷いた。
なんならこの人、和装とはいえ和洋折衷。
今日は中に襟付きの黒いシャツ着てる。つまり、足元も洋装でカジュアルめの革靴だ。
「よかった。……じゃ、お気を付けて」
と、最後は普通の声量で接客らしくお辞儀もする。
で、無事見送った後、くるりと向きを変えて、途中だった作業に戻ろうと店内に向かうと。
「?」
春華の足が止まりかける。
なんとなればレジの近くで木下と皆川がこちらを見ながらコソコソと話しているので。
……なんかやな感じだな。
そう思うが特に思い当たるところはないのでそのまま素通りしようと止まりかけた足を無理やり動かすと。
「ね? 高瀬さんってちょっとかっこいい人を見るとすぐ接客しようとするでしょ?」
と皆川が聞こえよがしに木下に「小声で」話している。
で。
「そうなんですね。まぁ、独身の女子だから仕方ないんじゃないですか?」
と木下。
いや、えーと。私が色目使ってるみたいな言い方やめてくれるかな。……そうか今店内に他にお客様いないのか。言いたい放題だな。
と、春華の表情がこわばる。
「そうそう。さっきのお客様、私が店にいる時よく来てくださるんですよ。なので私はよく知ってるんですけどね、ひいらぎ屋っていうお店の店主なんですよ」
ちょうど春華が二人の前を通過しようとしたところで木下が春華の方に向かって声をかけてきた。
「え、ああ、うん」
そういえば柊さん、私がいない時によくここに来てるみたいだったな。こないだも「陰のボス」なんて言い方してたけど木下さんの出勤日にはよくぶつかるのかな。
そう思いながらも、なんとなく何か返事した方がいいかなと思ったところで「知ってますよ」的な返事をすると空気の悪さを拗らせそうなので春華は無難に答えたのだが。
「あそこね、知る人ぞ知るっていうお店で。ママ友の間でも口コミだけで人気なんです。店内撮影禁止だからSNSにも上げられないんだって。古くていい感じの家具とか雑貨を売ってる店なんだけど最近は可愛い手作り雑貨も売ってるから評判なんですよ」
「えーそうなんだ! さすが木下さん、よく知ってるね!」
真っ先に声を上げたのは皆川。
春華の方は。
表情どころか体が固まった。
いやだって。
その手作り雑貨、私の作品です。って言っていい雰囲気じゃないよね。雰囲気だとしても恥ずかしいから言いたくないし。
だって今の木下さん、めっちゃドヤ顔だったもん。
もう「私の方があのお客様のことよく知ってるんですよ? 情報提供して差し上げましょうか?」っていう感じの。
なので「そうなんだー」と微妙な愛想笑いで誤魔化した。
と。
「高瀬さん、ああいう風にね、他のスタッフが前々から接客していて、そのスタッフ目当てで来てくれてるお客様だっているんだからそういう人を横取りするのは厚かましいですよ?」
皆川が春華に向かってそう言い放ち。
「えー、ちょっと皆川さーん、別に柊さんは私目当てで毎回来てくれてるわけじゃないですよー? たまたま毎回声かけられてるだけですってー!」
木下がどことなく嬉しそうに言い添える。
うわー……どうしよう。訂正したいところはいくつかあるけど……そもそも……あ、そうか、最初に柊さんが暖簾の件で来た時ってまだ木下さんがここで働くようになる前だったし、なんなら「ほぼ」同期である皆川さんもまだ入ってなかったかも。実は数ヶ月程私の方が先にここで働いてるんだよね。
だからもっと前から柊さんがここに買い物に来てるの、知らなくて当前か。
そして、一度接客したら、あの見た目に物腰だ、絶対忘れない。
訂正したいし突っ込みたいけど……なんか無駄に失うものがありそうな気がするのでやめとこう。
なので「ハイ、ソーデスネ」と慣れた営業スマイルを貼り付けて答えておく。
そんな反応はもしかしたら木下には不服だったのかもしれない。
どことなく彼女の視線がキツくなった。
「そういえば、私、知ってるんですよ?」
なんていう不穏な一言に春華が「え?」と真顔になると。
「綾ちゃんから色々聞いてるんですけど。なんか高瀬さん、お家であの子のこと色々いじめてるんでしょう? 綾ちゃん泣いてましたよ」
「はいっ?」
今度は春華の声も少し大きくなった。
こんな場所であの子の名前が上がること自体予想してなかったけど、よりによって「いじめてる」?
途端に木下の隣にいた皆川も興味津々といった面持ちで木下の顔を覗き込む。
「こないだお店に来てくれた時に相談されたんですけど。高瀬さんって随分細かいことまでずけずけ言うらしいじゃないですか。おかずの食べ方とか、お風呂の入り方まで指示してくるとか。しかも夜遅くまでくどくどお説教するんですって?」
「えー……何それ……ちょっと性格悪すぎじゃない?」
木下のセリフと便乗する皆川に春華の頭が真っ白になった。
そうか、このことか。
ちょっと前に綾が言っていた「もう木下さんは私の味方ですよ」というセリフが脳裏によみがえる。
おかずの食べ方、ね。
確かに煮物の中から特定の食材だけを引っ張り出して食べるのはお行儀が悪いです。と言いました。夜遅くまで……っていうかあの日はそもそも彼女が白衣を洗うのに夜遅くまでかかっていたから、私がお風呂に入る前にその話をちょっとしたのが遅い時間だっただけです。
お風呂の入り方……はあれかな。
お風呂に入ったら髪も洗った方がいいよ、と言ったことだろうか。もしかしたら一週間以上お風呂に入ってないということが判明した時に、さすがにそれは不潔! と言ったことかもしれない。
「他にも色々聞いてるんですよ」
と言う木下に、さてこれは本当のことを説明した方がいいのだろうか、と考えているところへ、新しくお客様のご来店。
こうなるともう私語は打ち切りとなり、春華もやりかけの作業に戻らなければならない。
なんか……今一気に身体中の力が抜けた。
そうか、そういう言い方をすると私の言葉は全部悪意の言葉に変換されるんだね。
呆然とする春華の頭の中を木下のセリフと綾との過去のやりとりがぐるぐる回る。
例えばうちに来たばかりの頃、あの子、いつも鼻をズルズルとすすっててあまりにもうるさかったので「鼻をかんだら?」とティッシュを差し出したこともあった。
そしたら「私、鼻炎持ちなんですよ? 鼻かんだりしたら鼻が赤くなっちゃうじゃないですか! 」と謎の力説をされたのだ。
それだって「鼻のかみ方まで指図される」と言われたら、「えーそんなことまで言ってくるの?」とすごく細かい嫌味な人みたいに思われるんだろう。
もういいわ。
もはや私のことはどうとでも思ってくれ。
一回開き直ってみよう。
と、春華は思い直してみる。
だって、私の言動、ちゃんと私の側では筋が通ってる、と、思うのだ。
木下さんにしても、一般的な感性を持ち合わせていたらきっとどこかでそれに気づくと思う。綾ちゃん、あの感じだと木下さんと親しくなるつもりみたいだし、親しくなればなるほど真相が明らかになる……と思うんだよね。
どんどん気が重くなっていく春華はその後の仕事はもう心ここに在らず、だった。




