2春華という人
公園のベンチに座って読書をしていた春華がふと顔を上げた。
薄茶色に古びたページに小さなしみがポツリと出来たので。
咄嗟に読んでいた本を閉じて胸元に引き寄せる。
……雪?
眇めた目の先で空中を舞う粒。
真っ直ぐに落ちるというより舞っているところを見ると……雪かもしれない。
三月だというのに今年はやけに冷え込む日が続いていた。
高曇りと思っていた空にはまだ太陽が透けて見える部分もあって、ごくごくわずかな日差しがお気に入りのベージュのコートから出ている膝を黒のワイドパンツ越しに微かに温めているような天気だ。
背後の遊歩道を歩く人も、目の前の広場で犬の散歩をしている人もまだ気づいているそぶりすら見せない程度。
どうにも立ち去りがたく、空を睨みつける。
今日は仕事のシフトが午後からなので昼過ぎまで公園で読書してから出かけるつもりでサンドイッチと珈琲を入れた水筒まで用意して隣に置いてある。
うーん……どうしようか、な。
ここまであれこれ準備して出てきているのに今更家に帰って出直すというのは、時間的に勿体無い。
かといって先にサンドイッチを食べて様子を見るにもちょっと時間が早い。
とりあえず、借り物の本は大切に扱いたいので丁寧にバッグの中にしまってぼんやりと宙を見つめる。
公園の前の通りを挟んだ向こうには本を貸してもらったひいらぎやがある。
この公園は春華のお気に入りの場所だ。
ここに引っ越してきて五年ほど経つ。
生まれつき体が弱かった春華は昔から特に病名がつくわけではなくても体調が悪くなる事がよくあった。
母親は「そんなの気のせいでしょう」と取り合ってくれなかった。父親は「周りの注意を引こうとして大袈裟にしてるだけだ」と蔑むような目を向けてきた。三つ年の離れた妹の優華は至って健康で両親には「素直ないい子」と可愛がられていたから余計そう思われたのかもしれない。
実際学校から「一度病院に行った方がいいのでは」と言われて行ったけれど、病院ではあれこれ検査した結果「特にどこにも問題はない」と言われたので両親の反応は間違ってはいなかったのだろうと思う。
大人になって自分なりに調べて、自律神経とかホルモンバランスとかそういう微妙な類の不調かもしれないと納得している。
母親はびっくりするほどの癌家系だった。祖父母は母が子供の頃に他界しており、母の姉たちももれなく何かしらの癌を患って亡くなった。従兄弟たちも短命な人が多い。
父は障害を持っている家系らしい。時代や住んでいた土地の背景的なあれこれのせいかそういう人たちとの関わりがなかったので春華は父方の親族をほぼ知らないのだが昔両親が話している親戚の話を聞きながらそれをなんとなく察した。
そして……おそらく父も何か持っていそうだ。
今で言えば発達障害とかの括りだと思う。他人の気持ちを察するということが全くできない人だったのだ。
だからといって病院のお世話になるほどの事でもなく、なんなら対人関係以外なら自分が執着している事に対して物凄く集中力があるので職場での昇進はトントン拍子という人だった。
そういうことを客観的に見るようになったのは春華が家を出てしばらくしてから。
実家にいた時はそこにあるものが全て「普通」だと思っていたが、出てみて気づいた。世の中の他の家庭はあんな感じではない。
春華の感覚と、そう長いわけでもない人生経験からしてあの「高瀬家」はちょっと異常だったと思う。
出てきて良かった、と思っている。
妹は子供の頃から親に可愛がられていたせいで……控えめに言っても私への風当たりが強い。常に蔑むように接してくる。
母が亡くなった時に、父からは「春華が体調が悪いとか言ってお母さんを困らせるから死んじゃったじゃないか」と言われた。
妹は「春華は結局親の財産が目当てで家にいるだけなんでしょ」と言って父が私を追い出すように仕向けた。……あの子は私のことを「お姉ちゃん」と呼んだことは一度もない。
二十歳で家を出て仕事の関係であちこち転々として、今いる場所が一番長い。
そして体調不良だが、ここに来てちょっと変わった。
今までは突然眩暈がしたり、頭痛が始まったり、動悸が始まったりと予測不能な不調に襲われるので呑気にあてもなく外を歩くなんて出来なかったのだが、それがなくなった。
厳密にはこの付近にいる時には、体調不良にならない。
気づいたのは些細なきっかけだ。
引っ越してきた当初、買い物に出かけるのもビクビクしていたものだが、どうにもこの公園には心惹かれるものがあって「具合が悪くなったらすぐに帰る!」と自分に言い聞かせて車で来たところその日はやけに体調が良く、調子づいて周りの散策をかねて初めてあてもなく散歩するなんてことまでした。
車を公園の広い駐車場に停めたまま、通りを隔てたひいらぎ屋まで歩いて行った時は……恥ずかしながら「初めてのお使い」を達成した子供のような気持ちになった。
まぁ、思い込みみたいなものかもしれないんだけどね。
病は気からと申します。具合悪いと思ってたら元気でもどこか調子悪いような気がしますよきっと。
でもって、たまたま初回で体調が悪くならなかったから「ここ、私の体と相性いいんじゃない?」なんていい気になってるのかもしれないよね。
でもさ、せっかくそんな素敵な思い込みが出来るようになったのならそこは利用しなきゃ、と思うのです。
なんだかんだでストレスの多い職場に出向くに当たってここでエネルギーチャージしてから出勤すれば一日上手くいく……というのもほぼ私の中でジンクスのようになっているのだ。
そんなわけで。
公園のベンチから色んな意味で立ち上がることを渋っている春華なのである。
でもさー……雪にしろ雨にしろ、ちゃんと降ってくるとなると話は別よねぇ。
癖のある髪はそんな天気じゃモワモワになっちゃうじゃない。これから接客業に入る身としてはそれはいただけない。
と、落ちてくる小さな雪の粒を眺めていると。
「……もう読まないのか?」
「……へ?」
突然背後で男の声がして、春華が反射的に声を上げて振り返った。
いや、だれよ。
知らんよこんな人。
黒のロングコートの前ボタンを全部外して首にかけたマフラーも結ぶでもなくぶら下げたままの男がこちらに身をかがめながら……睨みつけるように見下ろしている。
しかも……なんだか袖がゆったりした特徴のあるコート着てるなと思ったら、下に着てるの和服だ。この近所で和装男子なんて柊さんくらいだと思ってたけど、いたわここにも和装男子。しかも強面系。
年の頃は多分……私より結構上。あ、だからこんなに馴れ馴れしいのかな。もしくは誰かと勘違いしてる?
髪を軽く後ろに流して切れ長の目に髭。といってもこの髭の感じ、無精髭みたいな不潔っぽさが微塵もないから手入れしてるんだろうなっていう……ああ、ビジュアル的にはイケメンに入るのかもしれない。イケオジってやつか。けど……絶対不審者。知らない人にこんな雰囲気で声かけてくるなんて絶対不審者!
勘違いしてる方の可能性がいいなっ。不審者に絡まれてるとなるとこの場から逃げるのがきっと大変だ。
一瞬でそこまで思考が至った春華は「人違いしてませんか?」という空気感を全面に醸し出しながら黙り込んでみた。
「……さっき読んでた本。ひいらぎ屋の本だろ?」
ぼそっと帰ってきた言葉に春華の眉間のシワが一気に和らいだ。
「あ! ひいらぎ屋の関係者さんですか?」
なんだ。
あの店のお客さんとか、柊さんの身内の人とかそっち方面の人か!
なら多分変な人じゃない!
「か、関係者……」
春華の勢いのある問いに男が一瞬怯んだ。
怯んで視線がちょっと遠くに飛び、気まずそうに再び春華の方に戻ってきたところで。
……あ、なんだこの人。ちょっと可愛いかも。
春華の眉が下がった。
……ああしまった。気を緩めてしまった……。
春華が若干後悔しながら「ひいらぎ屋の関係者」らしき人に向けた笑顔を固まらせる。
うん、知ってる。
どうやら私、心からの笑顔を作ると相当人懐っこい表情になるらしくて相手と打ち解けやすくなるのよね。
接客業においてはとてもお得な性分です。なんならクレームつける勢いで来る人とも大体最後には仲良くなってます。
ですが。
今この人にその能力を発揮する必要はなかった。
なんか……変な間があった後、ベンチを回って正面に来られてしまったじゃない。
で。
「……」
なんかやっぱり変な間がある。
ので。
「……あ! さっきの本!」
何か言わなきゃと思考を巡らせた結果、声をかけられた内容を思い出してバッグの中の本をチラリと見せる。
「読んでるんですけど、ほら、雪が降ってきちゃったじゃないですか。ページが濡れちゃうからとりあえずしまっただけですよ?」
えへへ、と笑いも付け足してみて。
と。
「ふーん……この程度なら大して濡れたりしないだろ? つまらない内容だったんじゃないのか?」
宙に向けた視線で落ちてくる粒を追いながら男が呟くので。
「え! 駄目よ、こんな小さな粒だって紙に落ちたらシミになるんだから! 借りている大切な本を汚すなんてとんでもない! それにこれは、ちっともつまらなくなんかないですよ」
本がデリケートな代物であることを知らないからそんなことを言うに決まってる! とばかりに春華が怒ったように声を上げた。
実際決してつまらない本ではなかった。春華的には。
どうやら私製本というのは間違いなさそう。
タイトルらしきものはない。
内容は、はっきりしないどこかの地域の言い伝えらしい。
妖怪とか物怪とか呼ばれるようなものについてのあれこれが載っているのだ。
まだ読み途中ではあるが、河童とか鬼とか竜神とかが出てきた。それが目撃されたと言われる場所の記載があるが、なにしろ時代的にも古いのか今は使われていないような地名が出ており、どういう場所の出来事なのか皆目見当がつかない。もしかしてその土地に古くから住んでいる人なら「ああこの地名はあの地区の昔の呼び名だ」と分かるのかもしれないが。
子供の頃から体の不調が多く、外で活発に遊びまわることがなかった春華にとってこういう話には馴染みがある。子供の頃はこういうお伽話系は洋の東西を問わずあれこれ読み漁った。
そんな春華の気合いと気迫の伴ったセリフに男は多少面食らったように言葉をなくした。
そして。
「……ふーん……」
え。
えええええええ!
ちょっと! どうすんのよこれ!
男は春華の隣にドサっと腰を下ろしたのだ。
いやいやいや、ちょっと待って。
なんで隣に座るの?
私たち、お友達とかじゃないからね? 百歩譲っても知り合いですらない。
そりゃ、間を少し開けて座ってくれてるから間違っても恋人同士が並んで座るような距離感じゃないけど……でもね、空気読んでくれないかな。こっちは用が済んだらさっさと行けよオーラ出してるつもりなんだけど。え、出てないのかなぁ?
春華がそんな事を考えていると。
「……この公園、久しぶりに来たけど……居心地がいいな。相変わらず」
「え……あ、そう? うん、そうよね! 私も好きよ、ここ」
お? なんか、今ちょっと心の同志みたいなこと言った?
とばかりに春華が笑顔になった。
「……ふーん」
…‥なんだろうこの人。
つい笑顔を作ってしまうのは……もしかしたらこの人の雰囲気に呑まれているのかもしれない、と、春華は思う。
なんとなく、邪険に扱っちゃ可哀想な気がする、そんな雰囲気。
いや、決して弱そうなイメージなんかなくて、むしろちょっと怖そうなイメージもあるくらいの顔立ちだ。言葉遣いなんてぶっきらぼうのお手本みたいだし。すっと切れ長の目元は睨まれたら震え上がってしまいそうだし……ていうか、是非とも睨まれるような状況にならないように努力したいと切実に願ってしまうような……綺麗な顔立ちをしている。
不機嫌そうに引き結ばれた口元も、危うく状況を悪化させそうだからマジマジと見たりしないほうがいいのだろうという気がするから一度視線をそちらに向けた後はチラ見程度に控えてしまう。
で。
「えーと……飲みます? 珈琲」
間がもたなくなったので隣に置いてあった一人用の水筒を手に取って見せる。
中身は朝淹れた珈琲だ。直接口をつけて飲むタイプではあるが、なんとなく紙コップを持ってきて注いで飲んでいる。
「……珈琲……」
男が小さく呟いた。
あ。なんか物凄く怪訝な顔をされてしまった。
いや、うん……そうだよね! 私が迂闊でした。知らない人から飲食物を貰うのってよろしくないよねこのご時世! しかも買ったものとかならまだしも、こういう出どころの分からない系の物は一番駄目!
「ああ、ごめんなさい! 珈琲苦手な人もいますよね!」
当たり障りなく断れるようにこっちから切り出す礼儀も忘れない。
「いや、苦手じゃない……けど」
「へ?」
いやそこは断ろう? 怪訝な顔したでしょう。受け取りたくなかったんでしょうよ。せっかく断り文句を作ってあげたのに。
「苦手じゃない。……さっきからなんかいい匂いしてたし」
あれ。
これは、注いであげるべき?
空気が読めなくなってきた春華が半ば投げやりな心境でバッグの中の新しい紙コップを出して珈琲を注ぐ。
水筒の蓋は開けっぱなしだったのでそろそろ飲み頃の温度かもしれない。
なんとなくカップに注いで、なんとなくその流れで「はいどうぞ」と差し出すと、春華より一回り大きな手がそれを受け取る。
うわ。指長いな。爪の形いいな。……なんだこの敗北感。
複雑な心境になった春華が見守る中、男は静かに珈琲を飲む。
うわ。飲み方よ。飲み頃に冷めてるかもしれないとはいえまだ熱いと思うんだけど……なんでズズズとか音立てないのよ。……上品じゃないか。
……なんかずるくないか。色々と。




