1始まりの、始まり。
昼過ぎ。
そろそろ春めいてきた、と言ってもいいのかなという暖かな日差しを受けながら高瀬春華は仕事を終えて車を走らせる。
赤い軽自動車はもう十年は乗っているが手入れを欠かさないせいかどこも調子が悪くならず、こんな日は機嫌良さげにさえ感じられる。
機嫌良さげ。
こんな感覚は私だけだろうか、なんてたまに思う。
職場の手芸店でも客が持ち込んでくる「壊れた」ミシンの機嫌が伝わってくる事があるのだ。
くすり、と小さく笑みが漏れる。
今日のはその代表格だった。
「もう。このミシン久しぶりに出したらこの有様で全く使えないのよ」
怒り気味の客に持ち込まれたミシンは、本来の手順通りにまずはスタッフが不調箇所を確認して修理業者に依頼書を書きミシンと共に送る事になっていたのだが。
なんとなく薄汚れた様子に「この子、機嫌悪そうだな」と直感して必要箇所の掃除をして糸をかけ直し丁寧に電源を入れると、機嫌が直ったような気がした。
「これでこの子も機嫌良く縫ってくれると思いますよ」
そう言って微笑むと客の雰囲気も和らいで、言った通りきちんと縫えるようになったミシンに感心されたのだ。
もちろん、何か不思議な力があるとかでは、ない。
機械には正しい使い方というものがある。ただそれだけ。
春華にはそれが「機嫌」として感じ取られているというだけの事だ。
そんな風に気持ちを込めて扱われる品物を見て客も自分の所有物への見方が変わる。
ああ、もっと大切に扱ってあげないと「可哀想」と。
入店した時の怒りの気持ちがそんな風に変化して最後に笑顔で帰っていくのを見送るのが春華にとってはちょっとしたやりがいでもあった。
「……おっと、曲がるの忘れるとこだった」
つい小さく独り言を呟いて、アパートへ帰る道の途中でウインカーを出す。
今日は寄るところがあったのだ。
レトロな雰囲気の「ひいらぎ屋」という看板がかかった近所の小さな古物屋。
狭い駐車場に慎重に車を停めると、すぐ脇の生垣にぶつけないようにドアを開ける。
そもそもここは車で乗り付けるような店ではないのだろう。
古民家をそのまま店にした建物に、庭先の一部を車がせいぜい三台くらい入れられるようにしたという程度の駐車場。
藍色の暖簾を潜って引き戸をガラリと開けると目の前には雑多なものがひしめき合う、なんとも魅力的な場所だ。
「いらっしゃいませ……ああ、春華さん」
奥で作業をしていた店主、柊巽が顔を上げて声をかけてきた。
絵に描いたような古物屋店主……なぜか今時常に和装の年齢不詳男だ。物腰や喋り方からして四十過ぎにはなっていると思うが今年三十五の春華と同年代にも見える。
スラリと背が高く時々かけている眼鏡の奥で細められる目は切長。
そしておそらく、年齢不詳の一番の原因は髪だ。艶々サラサラのストレート長髪。それを首の後ろで括った姿は、これ……特定の界隈の女子が大好物なやつじゃないかな、と春華は常々思っている。なにしろ手芸店勤務の身。いろんなジャンルのオタクな方々が服や小物作りでいらっしゃるのでそういう世界観にも馴染みがあるのだ。
今日も今日とてライトグレーのタートルネックのセーターの上から紺の着物を着るというお洒落和装男子を目の前に、ついにやけそうになるのを堪える。
「……なんですかね、その微妙な笑みは。いつも思うんですが春華さんって僕を見る視線が時々なんとなく生温かいですよね」
「いえいえ滅相もない。いつも綺麗な装いだなあって感心してるんですよ? その髪の綺麗さなんてキープするの難しいでしょ?」
すぐに視線の変化を察した柊に春華が返す。
春華としても艶々サラサラなストレート髪には憧れる。
でも三十を超えたところで自分の髪は元々癖毛だとようやく諦めて五年近く経つ。ショートは似合わないと思うし今は肩より少し下で切り揃えている。縮毛矯正をやめたら毛先の方でパーマをかけたかのようにくるりと巻く地毛にちょっと驚いた。手間をかけずとも程よくまとまるので、まぁ満足はしているが。
そんな春華に柊は胡散臭そうな目で。
「ああこれ? なんか元々こうなんですよ。特に何をしてるってわけではありません。せっかく綺麗なので長めにしていますが」
などと全女子を敵にまわしそうなセリフを口にしながら品物の間を縫って春華の方に歩み寄ってきた。
なにしろ店内。
古い小さな棚や鏡、裁縫箱や文箱、ランプ、椅子にテーブルに置物と多種多様なものが並んでいる。それらを避けながら着物の裾や袖を引っ掛けることもなく歩き回るのだから大したものだ。
「そうそう、それ。なかなか好評ですよ。最近は若いお客さんも増えました」
柊がにこやかに指すのは春華の近く、入り口付近の小さなコーナーだ。
「え……ほんと? 良かった!」
小さな古いテーブルに和柄の生地を重ねて敷き込んでその上に並べているのは手作りの小物たち。色とりどりの生地で作った小さなぬいぐるみや髪飾りやブックカバーといった雑貨で、春華の手作り品だ。
「春華さんの手仕事は丁寧で気持ちがこもってますからね。店の品物たちも喜びます」
ふふ、と品よく笑う柊に一瞬春華が目を丸くする。
そう、この人も時々こういう物言いをするのだ。
まるで物に心があるかのような。
多分そのせいで仲良くなったのだと思う。
その感性について語り合ったり確認しあったりしたことはないが、なんとなくそういう言い方をする人であるせいか所作にそれが表れるようで親しみが持てた。
知り合ったきっかけは春華が働いている店に柊が布を買いに来た事だった。
店の暖簾を新しく作りたいので生地を探している、と。
たまたま声をかけられて、要望を聞きながら生地選びを手伝ったところ、自分が住むアパートの近所の店である事が判明して仕上がりを覗きに来て仲良くなり、なんだかんだで手作り品を店先に置かせてもらうことになったのだ。
ディスプレイも任せてもらっているので、なんだか照れ臭くてその場所を用もないのに正視するのが気恥ずかしいところだが、話題がそっちに向いたので改めてしげしげと眺め直す。
うん、並べていたうさぎのぬいぐるみは一つ売れたみたい。お揃いで作った髪留めとブローチも一つずつ無くなってる。
また追加で作っておこう、と記憶に留めることにして。
それにしても、と小さく笑みを漏らす。
自分が並べたディスプレイがそのまま維持されているのがなんだか嬉しい。
職場の方では実はこうはいかないのだ。
ある程度担当を任されている場所はあるのだが、後から手を加えたがるスタッフがいて、いつも雰囲気を変えられてしまう。
「春華さんのディスプレイは素敵ですね。お店の方もこんな風にしたらいいのに。……前にそんな感じに出来上がっていたコーナーもありましたよね?」
柊がぽつりと呟いた。
「え、柊さん見たことあったんですか? 私が作ったコーナー」
春華が目を丸くすると。
「ああ、あの日は春華さん店にはいなかったんだったかな。春華さんらしい優しくて華やかなディスプレイだったし、見本作品が春華さんが作ったと話していた物だったから印象的でしたが……次に行ったときには並べ方が微妙に変わってましたね」
「あはは……」
つい乾いた笑いになってしまうのは仕方ない。
「ああ……あの影のボスかな?」
ぎく。
春華が固まる。
「やだなあ、そんな人聞きの悪い……」
誰だそんな物騒な呼び方してるの。
「いや、なんかいるじゃないですか一人、ちょっと言葉のきつい感じの先輩さんが」
眉を下げて笑う柊に春華はつい困ったように言葉を詰まらせた。
うん、いるね。言葉のきつい強めスタッフ。でも彼女……。
「……あれ、先輩じゃなくて後輩です……」
「え……」
そう。自分より後から入ってきた、言うなれば後輩スタッフ。彼女がなんならみんながやる事にちょこちょこ手を出してくるので自分の仕事が完遂できずにいるのだ。まぁ、パート仲間なので上も下もないんだけど……ないからこそ文句も言えないんだけどちょっとめんどくさい人が、いるにはいる。
「まぁ、ね。女子ばかりの職場なので色々あるんですよ」
「ふぅん……店長さんは男性なのにね」
「あ……まぁ、そう、ですが……」
「店にいつもいるわけじゃなければ分からないか、そういうの」
「はは……」
そうか、ここに来る度に仕事の話をしてしまう関係上、柊さんにはほぼお見通しか、と春華は肩をすくめる。
店長は他の店舗も兼任しているのでいつも店にいるわけではないというのも前に話した事があったな、と思う。
「ああ、それはさておき! 今日は私に用事があったんですよね?」
春華が彷徨わせていた視線を改めて柊に向け直した。
今日は春華の方で用事があって来たわけではないのだ。数日前に「ちょっと相談したい事があるので時間があるときに来て欲しい」と改まって言われて、今日は仕事が午前中のシフトしか入っていなかったから帰りに寄るという話になっていた。
「っあー……そう、それなんですがね……」
途端に柊の顔色がくもる。
「?」
首を傾げる春華に。
「実はちょっと紹介したいものがあったんですが……うっかり機嫌を損ねさせてしまいまして……うーん……どうしようかな……」
曖昧な言い方をしながら柊の視線が店の奥に向かう。
へぇ……機嫌を損ねる物……なんだろう? と春華は興味津々でむしろ目が輝くのだが。
「……春華さん、古本ってお好きでしたよね? ジャンルはこだわりますか?」
おもむろに問われる内容に春華がつい、きょとんとしながら。
「うーん……難しい内容だと読むのに時間がかかるかも……?」
と返す。
確かに古本は好きだ。そもそも古いものはなんでも好きなのだ。人の手を経たものにはドラマとロマンがあると思っている。本も然りで本屋に並ぶ新しい本よりも古本屋に売られてきた本の方が心ときめく。そんな話も柊にした事がある。
「ふ、む。なるほど。……じゃあ、とりあえずこれ、貸しますので読んでみます?」
店先の、商品と思われる古い小さな棚には古本も並んでいる。
その中から一冊抜き取って手渡された本は。
「わぁ……なんですかこの本。なんか……素敵」
いい感じに古びた本だ。
とはいえ……これは私製本……といっていいのだろうか。表紙はくすんだ茶色の和紙が貼られたハードカバーで題名もついていない。もちろん出版社も書かれておらず……でも、薄茶色に変色した中のページには印刷された文字が並んでいる。
そんな意味ありげな雰囲気がまた……そそられる。
「そう言ってくれると思いました。内容的にはそんなに難しくないですよ。ちゃんと口語体ですし」
おお、それはありがたい。
この古い感じ、文語体だったらどうしようと思ったけど。
そう思いながら春華がその本を抱きしめるように胸に抱える。
「じゃ、読まさせていただきます!」
「……帰るのが楽しそうで良かったです」
「……え?」
ポツリとつぶやかれた言葉に春華が動きを止めた。
「ああ、いえ。……ほら、ここのところだいぶお疲れのようでしたので」
困ったように笑う柊に春華がふと我に帰った。
……ああそうか。
最近この「ひいらぎ屋」は春華の小さな避難所になっていた。
自宅である小さなアパートに休み場がなくなってしまったので。
現実に引き戻された春華が最近始めたルームシェアの相手のことを思い出した。
以前の職場の同僚の妹が、なぜか転がり込んできているのだ。
「姉が春華さんのことを『とても良くできた人だから一緒に生活したらいいよ』って言ってくれたのでこっちに引っ越してこようと思ったんです!」
満面の笑顔でそう言い放つ十は年下の桑野綾にまず気圧されたのは数ヶ月前。
手芸店の仕事は収入が割と少なくて、部屋数が一部屋余分にあるアパートは維持できそうにないから次の契約更新を機にワンルームくらいの所に引っ越そうかと思っていた矢先だった。とはいえ料理が好きな身にとって、そういう物件のキッチンはきっと物足りないだろうとも思えていたのでルームシェアという選択肢にちょっと心がぐらついたのだ。
とはいえ。
綾の姉である桑野玲子とは実はそれほど親しくもなかった。
なぜ彼女が妹に自分を紹介したのかも謎だ。本当に、ある日、いきなり、玲子から連絡が来たのだ。
で、「今どうしてる?」という話から現状を話すことになり、その流れで「それならうちの妹がそっちで仕事をする事になったからルームシェアしたら良いよ」と言われ……話の流れ上断れず、とりあえず本人と会うことになり……そして春華としては理由をつけて本人に断ればいいかな、と思っていたら会った途端勢いで押し切られた。
天真爛漫を具現化したらこうなるんだろうか? というのが綾の第一印象だった。明るくて素直で可愛らしい。
なので、勢いに押されたが「まあいいか」とも思えた。
この数週間、あの日の自分をどついてやりたい。と何度思ったことか。
最近の若い子の衛生観念ってどうなってるんだろうか。
まず、綾は風呂に入りたがらない。部屋の片付けが出来ない。なので空いていた部屋をとりあえず使ってもらってはいるが、臭いが立ち込めるのでドアが開けられなくなった。……まだ寒い年明け早々だったというのに。
ルームシェアというからには台所やトイレ、浴室といった共同スペースは責任を持ってある程度掃除も分担してくれる筈だったのに……実質的にやっているのは春華だ。しかも彼女は汚し方が半端ない。
共同生活が始まって最初の一週間でお気に入りの鍋の取っ手が焼け落ちているのを見た時は正直何が起きたのか分からなかった。
そして彼女は、なぜか「謝る」とか「反省する」という感覚が欠落しているようだった。
「え、今日は私が仕事に行っている間に掃除をやっておいてくれる筈じゃなかったっけ?」と、帰宅して散らかった部屋を見ながら聞くと「えーだって私、せっかくの休日だったんですよ? 春華さんの家政婦になる為にここに来たわけじゃ無いんですけど」と言われた。
……いや、自分で言いだしたんでしょうが。自分で散らかしたものは休日に自分で片付けると。
でもまぁ、そんな綾は看護師として働いているので慣れない職場で疲れているのだろうな、と思うから帰宅して疲れ切ったところであっても片付けと掃除を引き受けた。
多分……そういうのがいけなかったのかもしれない。
以来、家事に関係する雑用は色々理由をつけて押し付けられるようになってしまった。
一人で生活している分には全ての事に自分が責任を持てるところ、他人がいて予想外の仕事を増やされる日常というのは意外にストレスが溜まる。
なのでなんとなく、ひいらぎ屋に来た時には自分が整えた売り場のスペースがそのまま保たれていることや、落ち着いた雰囲気の中での柊との談笑にほっと一息つくようになっていたのだ。
そんなわけで、どうやら柊が自分のことを気にかけてくれているらしいと気付き、春華は少々気まずさを覚えた。
……あんまりよそ様に心配かけないようにしないと、ね。
気をつけよう。
そう自分に言い聞かせて。
柊の「用事」も今のところ本を貸してくれるというだけなようなので春華は早速帰ることにする。
車を停めた生垣の内側には桜の木が一本。その木が伸ばした枝は車の方にも伸びており、まだ固い蕾の下で乗ってきた車が行儀良く待っている。
「やれやれ……本当ならもっと手際良く引き合わせてあげたかったんですけどねぇ……」
静かなエンジン音と共に店先から出ていく赤い車を見送りながら柊が呟くと。
「……ふん。別に頼んじゃいねぇ」
店の奥からポツリと不貞腐れたような声が聞こえてきた。




