19 思考の整理
「引越しかー……」
夕食の支度をしながらつい春華がポツリと呟く。
今日は綾の帰りが遅いので作りたてではなくてもいいようなメニュー、と思ってちらし寿司っぽい何かを作っている。
春のうちにこういう華やかなご飯を作りたかったんだよね。
細かく切った具材を甘辛く煮て、ご飯に混ぜる。で、春らしさは色で出す! と、さやいんげんの千切りとデンブをちらす。うわ、デンブなんて使うの何年ぶりだろう。
これ……こんなに手間をかけなくてももっと簡単に出来たな、とちょっと考えてしまったのだが。
具材を甘辛く煮たかやくご飯は、高校生の時の家庭科の授業をつい思い出したのだ。先生がとても素敵な人で「せっかく授業で学ぶのだから、家では色んな『素』を使うところをきちんと一から作る方法を学びましょう」という主義だった。
家では顆粒出汁を使っていたから、鰹節や昆布や煮干しで出汁を取るというのも本で知っている程度だった。
そんな思い出に浸りながら、小松菜のおひたしと味噌汁を作って、なんとなく茶碗蒸しを作った。あとは作り置きのきんぴらを出したら終わり。
こりゃ、なんかのお祝い事かな。
デンブを買うついでに花麩なんて買ってきちゃったもんね。なんとなく一気に華やいだなぁ。
食卓に並ぶ、まるで「ザ・田舎のお祝い事」なメニューを眺めながらつい苦笑が漏れる。
「さて、と。どうせ綾ちゃんは帰りが遅いんだし先にお風呂に入っちゃおうかな」
春華は先ほどから同時進行で用意していたお風呂の方にチラリと目をやってそそくさと支度を始める。
本来なら今月は春華は掃除当番の方を担当していた。
でも綾が仕事が遅いから食事の支度ができないと言うので時間の合間を見計らって作り置きをしたり、買い出しをしたりできたので春華が代わりに食事の用意をすることとなり。
そして今月の本来の掃除当番。自分の気の済むまでピカピカに磨き上げた浴室に一番乗りできるというのはとても気分がいいのだ。もう鼻歌まで出てしまう。
今の気分のアロマオイルはラベンダーとローズマリー。
台所の塩をスプーンで五杯。そこに数的ずつ落としてよく混ぜて簡易バスソルトの完成。本当は岩塩とかなんだろうけどとりあえず食塩でいいかな、と。
で、タオルを2枚とバスタオルに……古本屋さんで買った写真集。これはガーデニングの本。
いくつかのアイテムをまとめて持っていざ浴室へ。
「……はぁ……気持ちいい……」
アパートなのでさほど広くない浴室だけどお湯に浸かるのって本当に気持ちいい。
簡易的に浴槽の蓋を半分乗せてテーブルにしたせいかバスソルトの香りがこもってとてもいい香り。ラベンダーだからフローラルなんだけど、ローズマリーのすっきり爽快な香りが混ざるので頭の芯まですっきりしながらリラックスできる気がする。
タオルをお湯で絞って目の上に乗せて温めながら深呼吸すると色んなストレスや疲れがスッと消える。
うん、これ、とても気分がいい。落ち着く。安らぐ。
絞ったタオルが冷める頃に外して目を開けると浴室の明るさにちょっと目を細めてしまう。
でも……あちこちキレイ。当たり前だけど、目に入る場所が一応全部キレイ。
思わずもう一度深呼吸。
これ、当たり前だと思っていたのよね。
お風呂掃除をしたらあちこちキレイで、不快なものが目に入らない。
掃除当番を担当するのが綾ちゃんだとそうはいかないことを痛感すること数ヶ月。
最初は浴室の床がぬるっとしていて「?」と思った。
洗剤でも落としたのかな、とか。
で、そのうち隅っことか水道周りとかが黒ずんだりピンク色になったりして、浴槽の隅がぬるっとするので「まさか」と思って聞いたらやっぱり掃除の行き届かない事が原因だと分かった。
実家でこういう事を教わらなかったのかな、と思ったらそうでもなく、親からはお風呂掃除当番を課せられていたという。で。
「めんどくさいし、仕事もしているからいつもサボっていたんですけど、お母さんったら代わりにやってくれればいいのにやってくれないんですよねー」
と言うから「まぁ、教育上代わりにやったら意味がないよね……で、そのあとどうしてたの?」と聞いたら。
「えー、だからぬるぬるの浴槽に入ってましたよ。真ん中で膝を抱えて小さくなって入れば周りに触らなくて済むし」
当たり前のようにそう答えられてギョッとした。
いやそこは、遅くなってすみません、と言いながら掃除するんじゃないの? と思ったが過去の彼女にあれこれ言っても仕方ない、と割り切ってその時は飲み込んだ。
でもうちでそれをやられたら困る! と思ったので掃除の仕方と特に洗わなければいけない場所を教えたところ「特に洗わなきゃダメ」と言ったところだけ洗って満足するようになってしまったので愕然とした。
いや……お風呂なんて基本的にどこもかしこも掃除して欲しいよ? 床の四隅とか浴槽の四隅だけ掃除したって他のところにカビが発生したりぬるついたりしたら気持ちよく入れないじゃない? なんなら排水口だって掃除できるようになってるんだからやらないと。
彼女が掃除当番になってほどなく小虫がどこからともなく発生するようになったのには度肝を抜かれた。
なので彼女がいない時間帯にこっそり代わりに掃除したりしたのは……もはや自分のためだ。
で、そんなこんなで自分が当番の月はいつでも気にせずきちんと掃除ができるので心からリラックスできる。これはもはやありがたい、とさえ思う。
眉間にシワを寄せてしまうようなあれこれをうっかり思い出してしまったのでもう一度深呼吸して。
今度は浴槽の上の簡易テーブルの上に乾いたタオルを広げてその上に写真集を広げる。
古本屋さんで買った安い物なので濡れたりしても気にならない。
イングリッシュガーデンの本は一面に美しい花の写真とそれぞれの植物の説明が載っていて眺めるだけでも癒されるし、読んだら勉強になる。
庭づくり以外にもその文化ならではのあれこれが書いてあって色々思い浮かべると楽しいのだ。
そもそも古い物を大切にするイギリスの文化にはとても魅力を感じる。
ガーデニングも一時的な美しさではなくて、先々を見越した植物の植え方をするのがイングリッシュガーデンだ。
さらに、冬の間を家の中で楽しむ方法。庭で収穫した花の種の整理をすることや、古い雑貨をいかに大切に使うかなんていうのも描かれていてとても共感できる。
こんなスローライフには憧れる。
柊さんのところでヒスイと一緒に生活するようになったら、こういう感じの生活ができるのかなぁ……。
古道具に囲まれて、古風なヒスイがいて、隣の母屋にも和装男子がいる生活。
日本の古き良きものに囲まれる生活……。
「あ、ダメダメ。よくないこんなの」
はぁ……と、ため息を吐いて本を閉じる。
夢を見すぎてはいけないのだ。
理想を膨らませて期待しすぎたら、現実がそうではなかった時にその落差に落ち込む。しかも、この度の環境の変化はたぶん……そう簡単に引き返せない。
形式上とはいえ「嫁入り」だ。
そう簡単に「思ってたのと違うのでやめます」とは言えないだろう。
それに、そうなったとしても私に帰る場所はない。
帰る場所……あ、そうだ。
綾ちゃんにこのアパート出て行くって話をしなきゃいけないな。
なんとなく自分の中で引っ越すことに現実味がなかったのでそういう話をしていなかったけど、柊さんは「梅雨入り前に」なんて言っていた。来月は六月。たぶん遅くても来月には引っ越しすることになるんだろう。
アパートの契約自体は三ヶ月前に退去申請する事ってなってたけど、退去するわけじゃなければ大丈夫かな。……まぁ、三ヶ月分くらいなら私が家賃払ってもいいんだしその辺は近日中に、か。いや、うっかり忘れるわけにいかないから先に綾ちゃんにだけはここに一人で住み続ける意思があるか確認しなきゃ。
今日は私が寝た後に帰ってくるだろうから……手紙でも書いて食事と一緒に置いておこうかな。
都合よく彼女も仕事を増やしたから自活することは出来るだろうし良かった。
それに……私があれこれ言うのをうちの職場の木下さんに愚痴ったりしていたみたいだからそういうのもなくなったら綾ちゃんにとっても気が楽になるかもしれない。
そりゃあ「お風呂掃除の仕方まで指図される」なんて言ったら私がどんな潔癖症の完璧主義かって思われても当然よね。
木下さんが「えー綾ちゃんお風呂掃除くらいちゃんとできるんでしょ? って聞いたら『当たり前じゃないですか! ちゃんと四隅のカビやすいところは重点的に掃除したりしてますよ?』って言ってたからあの子、本来ちゃんとできる子なんですよね」なんて皆川さんと聞こえよがしに話していたけど……ツッコミどころ満載すぎて……しかも絶妙に私に話しかけてるわけではなかったので……訂正も出来なかった。
とりあえず、あれこれ考えながら髪を乾かして食卓に向かう。
綾の分はきっちりラップをして取っておいてあるので、自分の分だけ取り分けた食事をランチョンマットの上に並べて。
「いただきます」
誰にともなく言ってしまうのはもはや習慣だ。
と。
ピンポン
……おや。
こんな時間帯にはちょっと不似合いな軽快な呼び鈴の音がして春華が反射的に時計に目をやる。
七時半。
……そうか、陽は落ちたとはいえまだこんな時間か。
宅配とかかな。
そう思いながら玄関へ。
お風呂上がりとはいえ服装、大丈夫よね。
まぁ、これ、普通に部屋着だし。すっぴんだけど髪はちゃんとまとまってるしそんなにおかしくはないはず。
一応自分の格好を確認してからドアを開けると。
「え、ヒスイ?」
目の前に思ってもいなかった相手がいて春華は固まった。




