13 心の負荷
「高瀬さん、ちょっといいですか?」
帰り支度をしている春華に珍しく店長が声をかけてきた。
「はい?」
仕事用のエプロンを外してロッカーにしまい、バッグに手を伸ばしたタイミングだったのでそれを手に持ったまま奥の事務机に向かっている店長の方に歩み寄ると。
「……ちょっと幾つか、高瀬さんについて声が上がっていてね」
春華の後方に視線をちらちらと向けながら店長が言いにくそうに口を開いた。
後方……は、おそらく店内へのドア。
その向こうでは、帰り際に店長に作業を言いつけられた木下が作業をしている。普段なら、閉店後の退勤はほぼ全員一緒になるところを今日はそんなわけで木下は残業になっている。
ああなるほど。他のスタッフに聞かれたくない類の話で、木下さんがこっちに来ないか警戒しているのかな?
と、察した春華が神妙な面持ちになる。
場合によってはこの感じ、お客様から名指しでクレームでも入っただろうか。
と、ここ最近の接客を頭の中で早回しで回想する。
春華としてもいつも完璧でいられるわけではない。
たまに客の要望をうまく聞き取れない時もあるし、売り切れていると思っていた品物が他の客によって変なところに入れ込まれていて「申し訳ありません品切れです」と言ったそばから出てきて「今無いって言ったよね?」と客が不機嫌になることもある。
レジ業務だってこちらが善意で発した一言が相手には「余計なお世話」と取られることもある。
「いやね……なんか高瀬さんが特定のお客様の接客を他のスタッフに譲らない、とか」
「え……はい?」
思いもよらぬ店長の言葉に春華の目が点になった。
「まぁ、ちょっと大袈裟かなとは思ったんだけど……お客様への接し方に問題があって店内作業をあんまりやってくれないってこぼしているスタッフがいてね」
「え、それ、私が、ですか?」
思わず春華が言葉を区切りながら聞き返す。
あ、いや。
うん、なんかそんな事を言い出しそうな人に心当たりはあって……あ、そうか。だから木下さんには用事を言いつけて話ができるようにしたのかな?
と、春華は察した。
「まぁ、ね。僕が見たところだと高瀬さんは普通にやってるように見えるんだけど……そこは……女性同士の職場っていうのもあるし……でもスタッフ同士の関係が拗れるのは良くないと思うんだよね」
「はあ……」
えーと……これは……私は一体何を期待されているんだろう。
店内作業をもっとやります……的な? てゆーか、やってるんだけど。なにしろ今日もあれこれ忙しかった。
なんなら私が今日のうちにやらなきゃいけなかった分はひと段落したのだ。頑張って終わらせたので。
そして、今店内で「店長から用事を言いつかって」取り掛かっている木下さんは。
あれ、本来数日前までに彼女自身が終わらせてなければいけなかった作業だし。いつまで経っても取り掛かるそぶりがないから店長が「特別枠」みたいな雰囲気で作業を頼んだんだよね、どう見ても。で、木下さん、本来なら「終わってなくてすみません」という感じで引き受けるべきところを「私みたいに優秀な人には店長もこうやって残業手当つけてでも任せてくるよね」っていう半ばドヤ顔で引き受けてたから……春華は、なんか調子狂うなーと思いながら帰り支度を始めたのだ。
「えーと……私、何かやり忘れてる業務とかありましたっけ?」
一応確認。
これ、本当にあり得るから。忙しすぎて期日までに終わらせなきゃいけないことが一つくらいは抜ける可能性。
最近はいろんなイベントとかセールが単発で入ってきて、それぞれ期間が違ったりするし、その準備で「私がやります」と引き受けたのに、すっかり頭から抜け落ちてて他のスタッフが気を利かせてやってくれていることにすら気がついてない、とかだったら本当に申し訳ないことだ。
「ああ……いえ……特には……。ただそういう事を言ってるのが一人じゃないからちょっとね。……まぁ……みんなと仲良くしてくれたらいいな、と思って」
……それ、こっちが言ってやりたいセリフ!
という言葉はぐっと飲み込んだ。
なんかちょっと全体が、勝手ながら、想像できちゃったりして。
皆川さんと木下さんでしょ。
ちょっと前の二人のやりとりを思い出した春華は顔が熱くなるのを自覚した。
別に怒りが湧いてきたとかそういう事じゃ、ない。
小さな悪意が誤解となって増幅したことが恥ずかしい。
そんな対象に自分がなっていることが、恥ずかしい。
「あの……なんか……すみません」
ちょっと声が震えた。
ついでに目が潤んでしまうのは計算とかではない。
ので、慌てて視線を下げて誤魔化す。
「ああ! でも高瀬さんはお客様からの評判はいいからね。これからも頑張ってね」
わずかな反応を察したのか店長はそう言うとくるりと背を向けて事務作業に戻った。
ので。
「はい……お疲れ様です」
そう言って春華が事務所の裏にある通用口に向かう。
ううう。
何だろうなぁ。
私、そこまであの人たちにとって気に食わない存在なのだろうか。
なんとなくね、木下さんはここで働き始めた頃から他のスタッフにマウントを取るタイプだったのは知ってる。親切で教えてあげたことにも「え、そんなことくらい知ってますよ」という態度で返すからみんな大体一度は引いていた。で、言葉が強くて声が大きいので接客業だし店の雰囲気を悪くしたくないから皆空気を読んで「そうなんだね。よく知ってるね、凄いね! さすがだね!」という感じで割とチヤホヤしていた。
たぶん、そうやって自己肯定感を維持するタイプなんだろうな、と思うから正直めんどくさくて私はあまり関わらなかった。要はチヤホヤしなかったのだ。
皆川さんは、わりと初めからなんとなく私に対しての当たりが強いなと思うことが多くて。
思い当たるのはほぼ同期という立場。数ヶ月違いとはいえここに入ってきた時に緊張を和らげてあげたくて「同期ですね!」と声をかけた。で、そこから変に意識されていたのかもしれない。
同期とはいえ、年齢は私より一回り以上、上。
同期で年下の私の方が周りから評価されるような目立ち方をしたから気に入らなかったのかも。いや、数ヶ月先に働いていたからそりゃ多少は経験値が上がるのよ。そしてまぁ……若いからコツを覚えるのも早かったんだと思うのよ。
例えば服装。私は節約生活で、買うより作った方が安いと思える物に関しては手作りだ。その服を着て仕事をするから接客でも身につけているものが役に立っていた。
そんな接客をするようになったら皆川さんの服装が変わってきたんだよね。手作りに走るんじゃなくて既製服だけどちょっと個性的で人目を引くような服装へ。……あれ、私が接客で服の作り方や布の選び方に自分の服を使ってることを知らなくて、単に毎回服装を褒められているのと勘違いしたんじゃないかと思っている。
スタッフ同士でも最初の頃は「あ、また作ったの? 良いねそれ!」って褒められてたのが、段々「あ、今日の服も良いね!」と省略褒めされるから尚の事。
……どちらにせよ、普通に仕事してるだけだと思うんだけどなぁ。
モヤモヤモヤモヤ。
怒りを覚えるとかいうことはないのだ。
こういうのって怒っても仕方ないもんね。
なんか、酷くがっかりしたというか。
じゃあどうすれば二人の気に入るように出来るのかといえば……なんかこう。
ちょっと、子供の頃のクラスの女子たちの様子が思い浮かぶ。
派閥、みたいなのがあって、各自がどこかに属していなければならなかった。
苦手だったけど。
たまたま、穏やかで誰ともぶつからない雰囲気の子達のグループに入れた時もあった。でも大抵はそんな都合のいいグループは無いか、影響力のある子がその中に何人かいて最初は良くても段々変な雰囲気になるからどこにも所属したくなくて孤立していたことが多かった。
その頃の感じによく似ている。
あの頃はそういうのが嫌で早くオバサンになりたいとか思ったものだ。
はぁ……いい大人になってもまだそういう人たちに悩まされるのか。
めんどくさいなぁ。
そんなモヤモヤを抱えたまま帰宅すると、玄関の一番近くのドアが少し開いている。
ああ、綾ちゃん今日は休みだったんだっけ。
「ただいまー」
声をかけると中から。
「あ、おかえりなさーい。すみません、私さっきまで職場の友達が遊びにきてたので夕飯一緒に食べちゃったんです」
という声がする。
「あ、ほんと? 了解ですー」
と、春華が返しながらコンロに乗っている鍋を確認。
今朝出かける前に夕食用に作っておいたカレーが入っているはず。ルウを使うカレーなんてなかなか作らないんだけど綾ちゃんが安かったからと二箱買ってきてたから今朝それ全部使って大鍋に作り置きしてたのだ。
なにせ綾ちゃん、ご飯が進む系のおかずはいくらでも食べちゃうから一箱分程度じゃ一回で無くなる。……が。
「お、おおう、空か」
つい声が漏れた。
「……あ、それ、美味しかったですよー。私たちで全部食べちゃいましたぁ」
何人来たんだ?
「あー……うん」
こびりついたカレーが乾きかけているのでシンクに持って行って水を張る。シンクに使い終わった食器が2人分あるのでそれは先に洗ってしまうことにして。
これで少し落ちやすくなるかな。
で、そうか。
カレー全部ないということは、私が食べる分の夕食もないということで。
と、考えながら仕事用のバッグを部屋まで持って行き、台所に再び戻ってきてから冷蔵庫を開ける。
うん。
知ってた。
今日は出来上がってるものは何も入ってないねぇ。
作り置きしていたポテトサラダもないということは綾ちゃんはお友達と一緒に平らげてしまったのだろう。
時間的に今から何か作るというのも……ちょっとめんどくさい。今日は特に力が抜けきっている。
ので。
ある物を確認して簡単なサンドイッチに決める。
夜ご飯だけどね。
一人分程度、というイメージで少なめの水を入れたやかんを火にかけて、薄く切った食パンを二枚トーストする。
その間にフライパンで目玉焼きを焼き、レタスをちぎる。スライスチーズくらいは常備している。
トーストしたパンにはマヨネーズと粒マスタードを塗って、レタスと目玉焼きを乗せ、ケチャップを少しかけ、チーズを乗せてもう一枚のパンを重ねる。
やかんのお湯をティーポットに移して温めて、茶葉を用意する。
このお湯は一旦捨てて茶葉を入れ、新しいお湯を注ぐ。で、これはティーコゼーを被せて先にテーブルへ。
サンドイッチは包丁をサクサクと入れて二つに切り分けて適当なお皿に乗せて、マグカップと一緒にテーブルへ。
軽食、というにはちょっとガッツリしたサンドイッチ完成。
今日は何だかやけに気持ちが疲れたので、あんまり色々考えずに食べたらお風呂に入ってさっさと休もう。
そう思いながら席に着いて、サンドイッチをぱくりと一口。
うん、美味しい。
そろそろいい感じに蒸らされたかな、と、ティーコゼーを外してポットの蓋を開け、中を覗くと茶葉は大体沈んでいる。
のでティースプーンでくるりと一混ぜするのはポットの中の濃さを均一にするため。あとはティーストレーナーを使ってカップに注ぐのはもう慣れた工程。
赤い水色と広がる香りに胸の奥が緩む。
これ、ちょっと贅沢な軽食って感じだなぁ。
なんてつい思ってしまうのだが。
ああ、こういう感じならあのお皿にサンドイッチを乗せてもよかったな。……いやちょっとお皿が小さいか。
……ふ。
もう、何が何でも心の癒しを求めようとしてるな私。
と苦笑が漏れる。
と。
「……あ、あれ?」
使うのは今じゃない。
と思いつつも視線が勝手に探してしまう、ヒスイに貰ったお皿、が、ない。
定期的に使うから食器棚の一番目につくところにしまっていたんだけど……ガラス戸越しに、いつもある場所に無いのが気になって食べかけのサンドイッチを皿に置く。
食器棚を覗き込んでもやっぱり無い。
あれ、私、洗ってカゴに放置でもしてるかな? とシンクの方に戻ってみるがやはり無い。
ん? 昨日私、部屋で何か食べて置きっぱなし? と自分の部屋に行ってみるがもちろんそこにも無い。うん、昨日は使ってないし、そもそも自分の部屋での飲食はしてない。
「ねぇ、綾ちゃん。私のお皿知らない?」
と少し開きっぱなしになったままのドアに向かって声をかける、と。
「あーあれ、割れたので捨てました」
「ええ!」
平然と帰ってきた答えに春華が思わず大きな声で聞き返した。
「え、何で……割れたの?」
私、変なとこに置きっぱなしにしたり……してないよね。だって今朝は使ってないし、食器棚に入っていたはず。
「あー、洗おうと思ったら落としたんですよねー」
ドアから顔を出した綾がそう言うと、不燃物を入れているゴミ箱の方を指差し、そのまま部屋の中に引っ込んでドアを閉めようとするので。
「え、洗うって……使ったの?」
私……勝手に使わないでね、って言ったのに。
という意味を込めて聞き返すと。
「もー、いいじゃないですか。形あるものはいつかは壊れるんですよ?」
そう言ってバタンと勢いよくドアが閉められた。
頰を涙が伝うのは……もうきっと疲れているせいもあるかもしれない。
食べかけのサンドイッチも飲みかけの紅茶もテーブルに放置したままゴミ箱の中から割れた皿をかき集めて自分の部屋に直行。
幾つかに分かれてしまった皿は、どうにか繋げられないだろうかと思ったが、すっぱり綺麗に割れたというより砕けている部分もあって隙間が埋まらない。
埋まらない隙間を見ていたら涙が止まらなくなってしまった。




