第七の邪道 生成AI 前編
人々が、ようやく顔を見せて話し始めた頃だった。
時は令和。
後の歴史書にも記されるであろう疫病が世界を覆い、人々は長いあいだ、互いの口元を布で隠して暮らしていた。店の入口には消毒液が置かれ、食卓の中央には透明な板が立ち、学校も会社も、会議も酒盛りも、四角い画面の中へ押し込められた。
それから何年かが過ぎ、透明な板は少しずつ撤去された。駅には人が戻り、居酒屋から笑い声が聞こえ、外したマスクを鞄の底へしまう者が増えた。それでも、疫病が残したものは消えなかった。会議は家から参加できるようになり、食事は画面を数度触れば玄関まで届いた。人々は遠く離れたまま働き、遊び、買い物をし、言葉を交わすことに慣れていた。
世界は以前の姿へ戻ったのではない。少し違う形のまま、先へ進み始めていた。
人間が自分の声を取り戻した頃、今度は、声を持たないものが言葉を書き始めた。
綴野綴は、その知らせを布団の中で知った。
午前一時十三分。締切まで、あと二日だった。
寝室の明かりは消えていたが、綴の顔だけが、スマートフォンの光に青白く照らされている。画面では、短い動画が次から次へと流れていた。猫が箱へ入る動画。見知らぬ男が十秒で炒飯を作る動画。外国の海岸で、巨大な波から逃げる人々の動画。
小説とは何の関係もなかった。
綴は資料を探していた。少なくとも、最初に布団へ入ったときは、そのつもりだった。
次の動画へ指を滑らせると、画面に文字が現れた。
『文章も小説も書ける。話題の生成AIを試してみた』
綴の指が止まった。
動画では、男がパソコンへ短い指示を入力していた。
『雨の日に出会った男女の恋愛小説を書いてください』
数秒後、画面へ文章が現れた。
雨の駅。一本の傘。肩が触れ合う二人。
ありふれていた。けれど、文章になっていた。
「へえ」
綴は小さく声を漏らした。
驚きより先に、疑問が浮かんだ。どのくらい長く書けるのか。人物の性格を保てるのか。伏線を覚えていられるのか。雨を降らせた理由まで考えているのか。
綴は動画を閉じ、その生成AIについて検索した。
父の万作なら、検索して出た説明を一通り疑っただろう。綴は三つほど読み比べ、公式と書かれた頁を開いた。
登録を済ませると、白い画面の下に細長い入力欄が現れた。
何でも尋ねてください、と書かれている。
綴はしばらく考えた。
『締切が二日後なのに、動画を見続けています。どうすればいいですか』
送信すると、すぐに返事が表示された。
『まず動画を閉じ、執筆する時間を二十五分だけ確保してみましょう。完璧に書こうとせず、現在の場面を最後まで進めることを優先してください』
「正しい」
正しすぎて、少し腹が立った。
『それができないから困っています』
『では、最初の一文だけ書いてください。一文を書けたら、次の一文へ進みましょう』
「知ってる」
綴はスマートフォンを伏せた。五秒後、また手に取った。
今度は仕事に使うつもりだった。
綴は小説家になっていた。
父の万作がインターネットへ投稿した『黄昏の王』が書籍となってから、長い年月が流れている。綴も学生の頃から載せていたWeb小説をきっかけに本を出し、その後も途切れることなく物語を書き続けていた。
恋愛、幻想、歴史、推理。題材が変わっても、綴の小説には、そこにしかいない人間がいた。
正しいことを言いながら誰かを傷つける者。嫌いな相手のために傘を残していく者。嘘をつく直前だけ、相手ではなく自分の手を見る者。
綴は、人物が何を言うかより、なぜその言葉しか言えなかったのかを書くのが得意だった。
新作は、町から人の記憶が少しずつ失われていく物語だった。主人公の女は、十年前に姿を消した兄を探している。しかし町の人々は、兄の存在そのものを忘れ始めていた。
構成はすでに決まっていた。結末も見えている。ただ、締切が二日後だった。
綴は原稿の一部を生成AIへ貼りつけた。
『誤字や、文章として不自然な箇所だけを指摘してください。書き直しはしないでください』
数秒後、いくつかの指摘が並んだ。一つ目は変換の誤り。二つ目は助詞の重複。三つ目は、同じ段落で「振り返る」という動作を二度使っていることだった。
どれも正しかった。
「便利じゃん」
綴は身体を起こした。
次に、登場人物の年齢と出来事をまとめた表を貼りつけた。
『年齢や時系列に矛盾がないか確認してください』
少し待つと、返事が現れた。
『第三章で主人公は十八歳ですが、十年前の回想では九歳と記されています。現在が十八歳であれば、回想時は八歳になる可能性があります』
綴は原稿を開いた。本当に九歳と書いてあった。
「うわ」
誰にも見られていないのに、声が出た。
直した。
さらに、兄が失踪した日の曜日と、十年後の同じ日の曜日が一致していないことも指摘された。綴はカレンダーを開いて確かめた。
それも正しかった。
父なら、自分で気づいたと言い張るところだった。綴は素直に二か所を直した。
その夜、生成AIは小説を書かなかった。綴が書いた文章を変えもしなかった。ただ、綴が見落としたものを見つけた。誤字を探し、年月を数え、散らばった情報を一つの場所へ並べた。
これまで綴が使ってきた道具とは、少し違った。
便利だった。
だから綴は、もう一度使った。
翌日は、章ごとの出来事を整理させた。その次には、登場人物ごとの行動を抜き出させた。主人公が兄を探す理由と、町を離れられない理由が弱い気がして、問題点を挙げさせた。
『主人公は兄を探すことを望んでいますが、失敗した場合に何を失うのかが、現時点では明確ではありません』
綴は画面を見た。
同じことを、編集者に言われた覚えがある。
「そこまで分かるんだ」
綴は、主人公が兄を見つけられなければ、自分自身も兄を忘れてしまうという設定を加えた。物語に期限が生まれ、主人公の行動は強くなった。
生成AIが考えた設定ではない。だが、生成AIに問われなければ、すぐには思いつかなかったかもしれない。
綴は構成の一部を貼りつけた。
『この展開から考えられる次の出来事を十個挙げてください』
十の案が出た。
兄が町へ戻ってくる。主人公自身が忘れられる。町の外にも異変が広がる。兄が最初から存在しなかった証拠が見つかる。
半分は使えなかった。三つは、すでに綴が考えていた。一つは、少し悔しいほどよかった。
綴はその案をそのまま使わず、別の人物へ役割を移し、物語の中へ入れた。
締切には間に合った。
編集者からは、これまでで最も構成が明快だと言われた。
綴は生成AIを使ったことを伝えた。
「どこまでですか」
「誤字と矛盾の確認。あとは展開案をいくつか」
「文章は?」
「書かせてない」
編集者は少し安心したような顔をした。
その表情が、綴には引っかかった。
「書かせてたら、まずかった?」
「まずいというより……今は、まだ会社として決まりがないんです」
「使ったことは書いた方がいい?」
「今回は必要ありません。ただ、今後は申告してもらうことになるかもしれません」
「どうして?」
「読者が気にするからです」
その頃、世の中には生成AIで作られた文章があふれ始めていた。
一日に何十話も更新する作者が現れ、数か月で数百冊ぶんの小説を公開する者もいた。小説投稿サイトでは、作品が人間によって書かれたのか、機械によって作られたのかを巡って、毎日のように言い争いが起きた。
文章の巧い新人が現れると、まずAIの使用を疑われた。
誤字がなければAIらしいと言われた。
文章が整っていればAIらしいと言われた。
感情表現が薄ければAIらしいと言われた。
では、誤字があれば人間らしいのかと問われると、誰も答えられなかった。
ある日、綴の新作について短い投稿がされた。
『最近の綴野綴、AI使ってる? 文章が前より整いすぎてる気がする』
綴は画面を閉じた。
文章を生成させた場面ではなかった。何日も悩み、自分で書き、三度直した章だった。
しばらくして、また画面を開いた。
投稿には、いくつか返信がついていた。
『分かる。綺麗すぎる』
『昔の方が人間味あった』
『AIっぽい文章って、何となく分かるよね』
何となく。
綴は、その言葉を長く見つめた。
何となくで、人間が書いたものから人間を消せるらしい。
綴は自分の文章を読み返した。整いすぎているのだろうか。以前より間違いが減ったからか。構成が明快になったからか。
生成AIを使わなかった頃より、作品はよくなっている。それでも、よくなった部分が機械のものだと言われれば、自分の努力までどこかへ消える。
その夜、綴は生成AIの画面を開いた。
『私の文章には、どんな特徴がありますか』
過去に書いた短編をいくつか読み込ませた。
返事には、綴が意識していた特徴が並んだ。
会話の途中に短い情景を挟む。人物の感情を直接書かず、手や視線の動きで示す。対立する二人のどちらかを、完全な悪人にはしない。
その下には、自分でも気づいていなかった癖があった。
『登場人物が本心を隠す場面では、窓、鏡、水面など、像を映すものが置かれる傾向があります』
綴は過去の原稿を開いた。
本当だった。
別の作品も開いた。そこにも鏡があった。
画面には、さらに一文が続いていた。
『また、あなたの作品では、大切なものを失うことよりも、失ったことに慣れてしまうことが、強い恐怖として描かれる傾向があります』
綴は、その一文を読み返した。
正しいのかどうか、すぐには分からなかった。分からないのに、画面から消したくなった。
「気持ち悪い」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
綴は迷った末に、新作の途中までを貼りつけた。
『この文章の特徴を保ったまま、続きを書いてください』
送信するまで、しばらく指が止まった。
試すだけだ。使うつもりはない。
数秒後、文章が現れた。
主人公は、兄の部屋へ入る。机の上には、埃をかぶった鏡が置かれている。町の誰も兄を覚えていないのに、その鏡の中にだけ、主人公の背後へもう一人の影が映る。
主人公は振り返らない。振り返れば、そこに誰もいないと分かってしまうからだった。
綴は画面を閉じた。
すぐに開いた。
もう一度読んだ。
文章は、綴のものほど巧くなかった。人物の声も少し違う。物語の先として、その展開を選ぶこともない。
それでも、綴が書きそうだった。
鏡を置くところも、振り返らせないところも、そこに誰もいないことより、誰もいないと知ることを恐れさせるところも。
自分でも気づかなかった癖を拾い、自分より先に並べていた。
綴が怖くなったのは、質が高かったからではない。
自分の考え方に似ていたからだった。
綴は別の指示を送った。
『もっと私らしく書いてください』
送ったあとで、何をしているのだろうと思った。
生成AIは、先ほどより綴らしい文章を返した。語尾の長さが近づき、情景を挟む位置が変わり、主人公は鏡ではなく、自分の指先を見るようになった。
嘘をつく前に、自分の手を見る。
綴が何度も書いてきた仕草だった。
画面の向こうに、自分を真似る何かがいた。
いや、真似ているのではない。綴が差し出した文章から、綴らしさと呼ばれるものを拾い集め、並べ直しているだけだ。
それなら、自分がやっていることと何が違うのだろう。
綴も、これまでに読んだ本から言葉を学んだ。父の小説から知識を得た。会った人の仕草を覚え、自分の人物へ与えた。経験した悲しみを形を変えて物語にした。
何もないところから、すべてを生み出したわけではない。
それでも、自分は作者だと思っていた。
生成AIも、同じように過去の言葉から新しい文章を作るのだとしたら。
「便利なのは分かる」
綴は誰もいない部屋で呟いた。白い画面は返事を待っていた。
「でも、それで私がいなくても書けるなら……私は何なんだろう」
生成AIは、その問いにも答えることができた。
綴は送信しなかった。
答えまで作らせたくなかった。
翌日、綴は父を訪ねた。
綴野万作は、年を取っていた。
書斎の本は以前より増えていたが、万作自身は少し小さくなっていた。立ち上がるときには机へ手をつき、棚の上段にある本は綴に取らせるようになった。それでも、本の場所を尋ねれば、一冊も迷わず答えた。
「西側、上から二段目、右から九冊目だ」
「八冊しかないよ」
「俺が一冊読んでいる」
万作の膝に、本が載っていた。
「まだ覚えてるんだ」
「忘れる理由がない」
綴は本を父へ渡し、向かいへ座った。
「お父さん。AIは邪道だと思う?」
万作の手が止まった。
「生成AIか」
「うん」
「何に使った」
「最初は誤字と矛盾の確認。次に構成。展開案も出させた」
「文章は」
「試しに書かせた」
「使ったのか」
「使ってない」
万作は黙った。いつものように、すぐ理屈を返してこなかった。
「昔のお父さんなら、邪道って言ったよね」
「言っただろうな」
「今は?」
万作は本を閉じた。
「分からん」
綴は父を見た。
万作が、自分から分からないと言った。初めて聞いた気がした。
「検索は、すでにある答えへたどり着くための道具だった」
万作はゆっくり言った。
「正しいかどうかは、自分で調べればよい。だが、そのAIというものは、答えそのものを作るのだろう」
「物語も作る」
「なら、俺の知っている邪道とは少し違う」
「何が?」
「これまでの道具は、書く者の手を助けた」
万作は机の上の本を見た。
「そいつは、書く者の席へ座る」
綴は答えなかった。
「使わなかったら、時代に置いていかれるかもしれない」
「使えば、自分がいらなくなると思うのか」
「うん」
「では、どちらを選んでも怖いわけだ」
「答えになってない」
「分からんと言っただろう」
「お父さんらしくないね」
「定説のないものを断定するほど、若くはない」
万作は少し考え、付け加えた。
「それに、俺は一度、時代へ負けている」
「一度?」
「記録上は一度だ」
万作はそれ以上、何も言わなかった。
家へ戻った綴は、書斎の奥にある古い箱を開いた。
綴野家には、代々の物語書きが残した品々と記録が保管されていた。
最初から一族の歴史として集められたわけではない。木簡を書き写した古い紙。弟子の日記。新聞の切り抜き。墨蔵が口述した記録。散らばっていたものを万作が集め、年代順に並べ、足りない箇所へ細かな註を加えていた。
綴は、箱の中身を机へ並べた。
木呂麻呂が使っていたと伝わる、木簡を束ねるための紐。黒ずみ、ところどころ毛羽立っていた。
写兵衛の扇子。紙は黄ばみ、骨には墨の染みがついていた。その隣には、印刷所へ投げたと伝わる小石が一つ収められている。
筆之進の筆と、短くなった一本の鉛筆。筆箱の底には、いつのものか分からない白い消しゴムのかすが残っていた。
墨蔵の万年筆と、一枚の古い写真。写真の中で墨蔵は穏やかに笑い、その隣には、まだ若い万作が立っていた。
綴は一つずつ手に取った。
「木呂麻呂なら、学習に使われた文章の出所を全部調べるんだろうな」
古い紐は答えなかった。
「写兵衛は、どれも同じような文章になるって怒る?」
扇子は閉じたままだった。
「筆之進なら、自分で背負えない言葉を書くなって言うよね」
筆も鉛筆も動かなかった。
「墨蔵は……読んだ人が泣いたなら、魂があるって言うのかな」
写真の中の墨蔵は、変わらず穏やかに笑っていた。
綴は一族の記録を読み返した。
彼らは、時代に取り残された愚か者ではなかった。
木呂麻呂は、三千枚を超える木簡の一枚一枚を覚えていた。写兵衛は、文字のかすれと余白だけで人の心を表した。
筆之進は、一度置いた言葉を物語の最後まで背負った。墨蔵は、本人さえ気づかない悲しみを仕草から拾った。万作は、書棚へ積み上げた知識を、インターネットの向こうにある知識へつないだ。
誰もが、自分の時代に生まれた道具で、書ける限りのものを書いた。守ろうとしたものにも、確かな価値があった。
それでも新しい道具は、いつも彼らの外側からやって来た。そのたびに、失われると思ったものは形を変え、次の時代へ残った。
重さ。
味。
覚悟。
魂。
知恵。
綴は、それらを読んで育った。
では、自分は何を守ろうとしているのだろう。
文章か。
才能か。
作者という名前か。
自分が書かなければ、この世に生まれなかったはずの物語か。
綴は机に並んだ品々へ尋ねた。
「私は、どうすればいい?」
古い紐も、扇子も、筆も、写真も答えなかった。
当然だった。
彼らが生きていたとしても、答えられたかどうかは分からない。
それでも、答えてほしかった。
使えと言われれば、使えた。使うなと言われれば、怖がる自分を正しいと思えた。どちらでもよかった。
自分で決めずに済む答えが欲しかった。
夜が更けても、綴はその答えを見つけられなかった。
生成AIの画面を開く。
白い入力欄が待っている。
『私は、どうすればいい?』
そこまで打ち、消した。
使うかどうかを、生成AIへ尋ねることだけは違う気がした。
綴はパソコンを閉じた。机の上には、古い道具だけが残った。
「一人くらい、何か言ってよ」
返事はなかった。
綴はそのまま机へ伏せた。
いつ眠ったのかは、分からなかった。
その夜、綴は夢を見た。
夢の中で、誰かが鹿肉を焼いていた。




