第六の邪道 インターネット
電話線が、声だけでなく、文字や物語まで運び始めた。
平成も半ば。駅前には大型書店とパソコンショップが並び、店先では「インターネット接続」と書かれた旗が風に揺れていた。電器店のテレビには鮮やかな映像が映り、その隣では、灰色の箱のようなパソコンが、世界中とつながる新しい道具として売られていた。
家庭へ入り込んだインターネットは、まだ少し不便だった。誰かが使っているあいだは電話がつながらず、一枚の絵が画面へ現れるだけでも時間がかかった。
パソコンが電話線へつながるたび、居間には金属を擦り合わせたような電子音が響いた。
「世界が開く音だよ」
娘の綴はそう言ったが、父の万作には、機械が苦しんでいるようにしか聞こえなかった。
それでも人々は、遠く離れた誰かの文章を読み、自分の書いた言葉を、会ったこともない相手へ届け始めていた。
分からないことがあれば検索し、書きたいことがあれば自分で公開する。知識にも物語にも、門を通らず触れられる時代が来ようとしていた。
綴野万作は、インターネットを嫌っていた。
「検索して出た答えは、知識ではない」
居間のパソコンから、綴が顔を上げた。
「じゃあ、何なの」
「借り物だ」
「本に書いてあることも、誰かの知識でしょ」
「本は読み、覚え、考える」
「ネットも読むよ」
「本には順序がある」
「検索結果にもあるよ」
「上から並んでいるだけだろう」
「それも順序じゃない?」
「違う」
「何が?」
「重みがない」
綴は父の書斎を見た。
壁という壁が本で埋まり、棚へ収まらないものは床から廊下へ領土を広げている。
「物理的な話?」
「知識の話だ」
万作は答えた。
綴野万作は歴史小説家だった。
二十代で新人賞を取り、三十代で発表した戦国小説は文学賞を受賞した。その後も幕末、平安、古代史と題材を変えながら作品を発表し、書斎には自著と受賞記念の盾が並んでいた。
「父さん。この本、どこへ戻せばいい?」
「西側の棚、上から三段目、右から十七冊目だ」
「十六冊しかないよ」
「お前が一冊持っているからだ」
綴が本を差し込むと、確かに十七冊目になった。
「知識とは、必要なときに取り出せて初めて知識になる」
「本の場所まで覚える必要ある?」
「今、取り出せただろう」
「取り出したのは私だけど」
万作は答えなかった。
このところ、その万作の新作が振るわなかった。
以前なら発売と同時に増刷された本が、書店から早々に姿を消すようになった。書評では変わらず「重厚」と褒められたが、その後ろへ「古風」「難解」「読者を選ぶ」と続くことが増えた。
新作の企画を持ち込んでも、編集者は困ったように原稿をめくった。
「先生。主人公が旅へ出るまでに四十頁あります」
「旅へ出る理由を書いている」
「理由だけで四十頁あります」
「人が生まれ育った土地を捨てるのだ。それくらいは考える」
「もう少し早く物語を動かせませんか」
「動いている」
「主人公はまだ家から出ていません」
「心は動いている」
企画は通らなかった。
万作は不調を認めなかった。
「売れなくなったのではない」
彼は言った。
「時代が、少し慌ただしくなっただけだ」
時代は万作を待たず、かなり慌ただしく先へ進んでいた。
綴は学校へ通い、友達と遊び、流行の音楽を聴いた。分からないことがあればすぐに検索し、宿題は提出日の前夜に始めた。
父の原稿もよく読んだ。
「この人、前の章では右足を引きずってたよ」
綴が言うと、万作は原稿を取り上げた。
「負傷したのは左足だ」
「三章では右足」
「そんなはずはない」
万作は三章を開いた。
本当に右足と書いてあった。
「これは間違いではない」
「治ったの?」
「……左右を入れ替える必要があった」
「いつ?」
「今、必要になった」
万作が原稿を直しているあいだ、綴は友人から借りた音楽雑誌を読んでいた。
綴は趣味で、インターネットへ小説を載せていた。
魔法の国へ迷い込んだ少女が、小さな食堂を開く話だった。
「なぜ異世界で食堂を開く」
「料理が好きだから」
「主人公がか」
「私が」
「作者の都合を、主人公の動機にするな」
「読んだの?」
「近頃の文学を知るための調査だ」
「面白かった?」
「食堂を開くまでが遅い」
「三話目で開いたよ」
「一話目で開け」
「父さんの主人公は、四十頁たっても家にいるけど」
「あれは必要な四十頁だ」
綴は笑った。
万作は、Web小説を文学とは認めなかった。
「編集者にも選ばれていない作品を、勝手に世へ出すべきではない」
「誰でも読めるよ」
「読む前に、まず選ばれる必要がある」
「誰に?」
「編集者だ」
「読者じゃなくて?」
「読者へ渡すものを選ぶのが編集者だ」
万作は画面に並ぶ作品を見て、眉を寄せた。
「選ばれもしない作品を、勝手に世へ出すなど邪道だ」
「父さんの新作、選ばれなかったよ」
「あれは編集者が時代に追いついていない」
「便利な考え方だね」
綴はそれ以上、何も言わなかった。
ある夜、万作は行き場を失った新作を机へ置き、そのまま眠った。
題は『黄昏の王』。
滅びかけた国の老王が、かつて追放した息子を呼び戻す物語だった。王国の成り立ちだけで三十頁あり、王が息子を追放した理由へたどり着く頃には、老王だけでなく読者も少し年を取っていた。
それでも綴は、その小説が好きだった。
老王は傲慢で、自分が間違っていたとは決して認めない。けれど、息子へ送る手紙を何度も書き直し、最後には「帰れ」ではなく、「帰ってきてほしい」と書く。
父に少し似ていた。
読まれずに机の上で終わるには、惜しいと思った。
父が眠ったあと、綴は原稿を自分のパソコンへ移し、Web小説の投稿サイトへ載せた。
最初に投稿したのは、王が使者へ手紙を託すところまでだった。
翌朝、一件の感想が届いていた。
『続きが読みたいです』
万作はしばらく画面を眺めた。
「誰が勝手なことをした」
「私」
「すぐに削除しなさい」
「分かった」
綴が画面へ手を伸ばす。
「待て」
万作は咳払いした。
「読者を途中で放り出すのは、作家として無責任だ」
「消さないの?」
「今回だけだ」
「続きは?」
「載せる」
「インターネット、嫌いなんじゃなかった?」
「読者に罪はない」
その日から、万作は毎日、続きを綴に投稿させた。
初めのうちは、一人の読者へ届けるためだった。
次の日には、三人になった。
十人、五十人、百人と増えていった。
万作は何度も画面を開いた。
「この数字は何だ」
「今日、読まれた回数」
「同じ人間が二度読んだ場合は」
「二回になるよ」
「なら、読者数ではない」
「アクセス数」
「紛らわしい」
そう言いながら、一時間後にはまた確認していた。
ブックマークという機能を知ると、万作はさらに熱心になった。
「これは何だ」
「続きを読みたい人が、作品を登録してる数」
「つまり読者か」
「だいたい」
「今、百二十一ある」
「そうだね」
翌日、百二十になった。
万作は夕食を残した。
「具合悪いの?」
「一人、去った」
「誰が?」
「分からん」
「なら、気にしなくていいよ」
「理由も告げずに去るとは、礼を欠いている」
「本屋で本を棚に戻すとき、作者に連絡しないでしょ」
「それとこれは違う」
「何が?」
「数字で見える」
感想が来ない日は無口になり、アクセスが伸びた日は家族へ菓子を配った。
深夜二時、順位が一つ上がっただけで、綴を起こしたこともある。
「綴。起きろ」
「何」
「文学史が動いた」
綴は布団から目だけを出した。
「三百八十二位から三百八十一位になっただけでしょ」
「一歩は一歩だ」
「寝て」
翌朝には三百八十三位になっていた。
その日は朝食も残した。
「二歩下がった」
「文学史、戻ったね」
「歴史は前進だけではない」
「便利な言い方だね」
読者が増えるにつれ、万作の小説も少しずつ変わった。
誰がどこまで読み、どの場面で続きを待ったのかを、万作は見ていた。
王国の歴史を三十頁語る予定だった章は、二十頁になった。
「十頁も削ったんだ」
綴が言った。
「削ってはいない」
「なくなってるよ」
「後ろへ移した」
「読者には見えないね」
「必要になれば出す」
「出番がなかったら?」
「必要がなかったということだ」
万作は不満そうだったが、消した十頁を戻すことはなかった。
ある日、歴史について書かれた感想が届いた。
『王が立ち寄った村の火祭りですが、この時代には、まだ始まっていなかったと思います。県立図書館が古い村誌を公開しています』
万作は画面を読み、鼻を鳴らした。
「検索で得た知識を、歴史小説家へ教える気か」
「間違ってるの?」
「火祭りは、この地方で古くから行われていた」
「いつから?」
「少なくとも三百年前からだ」
「物語は四百年前だよ」
万作は綴を見た。
「村誌を出せ」
「本はないよ。ネットにある」
綴が公開された村誌を画面へ表示した。
古い頁が、上からゆっくり現れる。ブラウン管の青白い光が、万作の顔と机の上の本を照らした。万作は待ちきれず、何度も指で机を叩いた。
「遅い」
「本を取りに行くよりは早いよ」
「待つことも調査のうちだ」
「じゃあ待って」
画面がすべて表示されると、火祭りが始まった年は、物語の時代より八十年ほど後だった。
万作は書斎から二冊の本を持ち出し、村誌と並べた。
自分が使った研究書は四十年前のものだった。その後に発見された神社の記録については、まだ載っていない。
綴が検索すると、その記録を撮影した画像も見つかった。
万作は黙って読んだ。
何度か頁を戻し、自分の本と見比べる。
それまで、検索して見つけたものは借り物だと思っていた。だが、画面の向こうにあったのは答えではない。自分が知らなかった史料だった。
「どうだった?」
綴が尋ねた。
「火祭りではない」
「何が?」
「王が見たものだ」
万作は原稿を開いた。
「この時代にも松明は焚いている。ただし祭りではなく、畑へ近づく獣を追うためだ」
「直すの?」
「間違いを残す理由がない」
「検索して出た答えは、借り物じゃなかった?」
「検索結果を信じたのではない」
「じゃあ、何をしたの」
「史料を読み、比べ、考えた」
万作は火祭りの場面を消した。
代わりに、村人たちが畑の周りへ松明を立て、闇の向こうにいる獣を追い払う場面を書いた。
国を守ると言いながら息子を追い出した老王は、その火を眺める。
守ることと追い払うことが、ときに同じ姿をしていると気づく。
短い場面だった。
だが、そのあとに王が息子へ手紙を書く理由は、以前より深くなった。
綴は書き直された部分を読んだ。
「前よりいいね」
「当然だ」
「感想を書いた人のおかげ?」
「誤りを指摘しただけだ」
「村誌を公開した人は?」
「史料を残した」
「検索した私は?」
「入口を見つけた」
「じゃあ、誰の知識?」
万作は少し考えた。
「選び、比べ、考えた者の知識だ」
綴は笑った。
「借り物から、ずいぶん昇格したね」
「使い方を正しただけだ」
老王が追放した息子へ初めて謝る場面には、何十件もの感想が届いた。
『父を思い出しました』
『もっと早く謝ればよかったのにと思うけれど、遅かったからこそ泣きました』
『王が嫌いでした。でも最後には好きになりました』
万作は一つずつ読んだ。
誰がどの場面を好きだと言ったか、書棚の本の場所を覚えるように記憶した。
そのうち綴に頼らず、自分で作品名を検索するようになった。
「何を見ているの」
「資料だ」
「自分の小説の感想でしょ」
「読者の反応も、作品を考えるための資料になる」
「検索してるね」
「確認だ」
ある日、出版社から電話が来た。
『黄昏の王』を書籍として刊行したいという。
相手は、その企画を一度断った編集者だった。
「前は、主人公が動かないと言ったな」
『今も、旅へ出るまでは少々長いと思っています』
「四十頁だ」
『Web版では二十八頁になっています』
「必要な二十八頁だ」
『ええ。読者の皆さんも、そう受け止めているようです』
万作は受話器を持ったまま、綴を見た。
綴は菓子を食べていた。
「読者が先に決めたからね」
万作は咳払いした。
「刊行の話を聞こう」
『黄昏の王』は、万作にとって久しぶりのヒット作となった。
発売後の取材で、インターネットについて尋ねられた。
万作は腕を組み、深くうなずいた。
「私は早くから、読者が直接作品を選ぶ時代が来ると確信していました」
「その説、いつから?」
隣にいた綴が尋ねた。
「先ほど確定した」
記者は冗談だと思って笑った。
万作は笑わなかった。
「従来の出版制度だけでは、優れた作品を取りこぼす恐れがある。インターネットは、作者と読者を直接つなぎ、知識を広く開く、新しい文学の場です」
記者は感心して、その言葉を書き留めた。
記事が掲載された日、綴は切り抜きを一つの箱へしまった。
箱の中には、万作がこれまで受け取った賞状の写しや、新聞記事、初版本の帯が収められていた。
その一番下には、『黄昏の王』の企画を断った編集者からの手紙も入っていた。
万作はその箱を「創作の軌跡」と呼んでいた。
不調だった時代の記録とは、決して呼ばなかった。
その夜、万作は新しい歴史小説を書いていた。
公開前の原稿を、綴が後ろから覗く。
「まだ誰にも選ばれてないね」
「明日には投稿する」
「編集者には見せないの?」
「読者の反応を見てからでよい」
「勝手に世へ出していいの?」
万作の指が止まった。
「誰が勝手だと言った」
「父さん」
「いつだ」
「去年」
「古い説だ」
万作は鍵盤へ指を戻した。
「時代によって、定説は変わる」
綴は笑った。
日付が変わると、万作は自分の手で投稿ボタンを押した。
数分後、一件の感想が届いた。
『続きが楽しみです』
万作は画面を見つめた。
それから、誰にも頼まれていない次の話を書き始めた。




