第五の邪道 ワープロ
綴野墨蔵の原稿は、読む者を泣かせる前に、編集者を泣かせた。
字が読めなかった。
「これは『雪の夜』でしょう」
「いや、『雷の芋』としか読めん」
「綴野先生が、芋の話を書くか?」
「先生なら、芋でも泣かせるかもしれない」
昭和も終わりに近づいた頃。東京の出版社では、三人の編集者が一枚の原稿を囲んでいた。
机の上には吸い殻の積もった灰皿と、冷めた珈琲、赤鉛筆の転がる校正紙が並んでいる。その中央に置かれた墨蔵の原稿だけが、雨に濡れた蔦のような文字で埋め尽くされていた。
綴野墨蔵は、人の心を書く作家だった。
夫を亡くした女が、翌朝も二人分の味噌汁を作ってしまう。家を出た娘の古い櫛を、母親が捨てられずにいる。誰にも言えなかった寂しさを、墨蔵は本人さえ気づかない仕草から拾い上げた。
その小説を読んだ者は、登場人物が泣いた場面ではなく、自分の中にも同じ悲しみがあったと気づいたときに泣いた。
ただし、そこまで読み進めるには、まず墨蔵の字を解読しなければならなかった。
もともと達筆とは言い難かったが、このところはさらにひどくなっていた。線は震え、文字は隣の文字へ寄りかかり、行の途中で力を失ったように細くなる。
編集者に呼ばれた墨蔵は、原稿を手に取って穏やかに首を傾げた。
「雷の芋にも見えるね」
「先生が書いたんですよ」
「書いたときには、雪の夜だったと思うのだが」
「今は?」
「芋にも自信がなくなってきた」
墨蔵が笑うと、編集者たちは笑えなかった。
医者から、次の春は難しいと言われていた。
病は身体の内側から、少しずつ墨蔵の力を奪っていた。長く座っているだけで息が切れ、右手の指にも力が入らない。万年筆を握ることはできても、一枚を書き終える頃には、指先が小さく震えていた。
それでも墨蔵は、原稿用紙と万年筆を手放さなかった。
「人が手で書いたものには、魂が宿る」
墨蔵は弟子にも編集者にも、そう語ってきた。
「原稿用紙に魂を込めなさい。迷った跡も、震えた線も、その人が書いた証になる」
部屋の扉が開いた。
「雪の夜だよ」
入ってきた青年は、墨蔵の息子、万作だった。
二十代半ばの万作は、父に似ず、柔らかな言い方をあまりしなかった。幼い頃から本を読むことが好きで、小説、歴史書、新聞、辞書、百科事典まで、家にある活字なら何でも読んだ。
読み終えた本の内容だけでなく、何頁に何が書かれていたかまで覚えている。墨蔵の作品についても、本人より詳しいことがあった。
万作は原稿を一度見て、その次の行を指した。
「庭の椿に白いものが積もっている。雷は積もらないし、芋は空から降らない。『雪の夜』以外にない」
「さすがだね」
墨蔵が微笑むと、万作は眉を寄せた。
「読めたんじゃない。前後から絞っただけだ」
「それを、読めたと言うのではないかな」
「違う。推測は外れる」
「私が書いた字よりは、確かだよ」
締切は三日後だった。
物語が佳境へ入るほど、墨蔵の字は崩れていた。登場人物が泣けば線が震え、別れを告げれば文字が重なった。墨蔵自身が感情を抑えられなくなる場面ほど、他人には読めなくなるのである。
万作は父の右手を見た。原稿を持つ指が、わずかに震えている。
「父さん。残りは俺がワープロに入れる」
編集室の隅には、万作が持ち込んだ家庭用ワープロが置かれていた。
編集者の一人が、物珍しそうに黒い機械を覗き込む。
「それが噂のワープロですか」
「まだ導入している出版社は少ないんですよ」
万作が答えると、編集者は感心したように頷いた。
「この中に、私の小説を入れるのかい」
墨蔵は黒い機械をしばらく眺めた。
「人の言葉を機械に書かせるなんて、邪道じゃないかい?」
「書くのは父さんだ。機械は文字を出すだけだ」
「機械の文字は、少し寂しくないかい」
「読まれない原稿の方が寂しい」
「私の手を離れたら、それはまだ私の小説なのだろうか」
万作はすぐには答えなかった。
父の原稿を、誰よりも読んできた。雑誌に一度載っただけの短編も、若い頃に書いた未完の小説も、物置に積まれた古い原稿も読んだ。墨蔵がどんな言葉を選び、どんな言葉を選ばないかも知っている。
「俺は言葉を選ばない」
万作は言った。
「父さんが選んだ言葉を、読める形にするだけだ。分からなければ聞く。勝手には直さない」
「それでは、万作は私の手になるのかい」
「手になんかなれない」
万作は、震えている父の右手を見た。
「少し、手伝うだけだ」
墨蔵は息子を見つめ、それから静かに原稿を差し出した。
「頼むよ」
万作はワープロの電源を入れた。低い駆動音が鳴り、小さな画面に緑色の文字が現れる。
墨蔵が原稿を読み、万作が鍵盤を打った。万年筆が紙を擦る音とは違う、硬く乾いた音が部屋へ続いた。
作業は、すぐには進まなかった。
「ここは『母は悲しかった』か?」
「寂しかった、だよ」
「意味は似ている」
「違うよ」
墨蔵は穏やかに言った。
「悲しいときは、誰かに慰めてほしい。寂しいときは、その誰かがいないんだ」
万作の指が止まった。
少し考えてから、「寂しかった」と打ち込む。
しばらくすると、今度は同じ台詞が三度続いた。
「ここ、『寒かったでしょう』が三回もある。二つ削る」
「削らないでおくれ」
「同じ言葉だ」
「一度目は、雪の中を歩いてきた娘へ言っている」
「二度目は?」
「家を出てから、一人で生きてきた十年へ」
「三度目は?」
「娘を待つことしかできなかった、自分へだよ」
万作は画面を見つめた。
寒かったでしょう。
寒かったでしょう。
寒かったでしょう。
初めは重複にしか見えなかった。だが父の説明を聞いたあとでは、同じ言葉には見えなかった。
「……残す」
墨蔵は嬉しそうに頬を緩めた。
入力を進めるうち、万作は物語の矛盾に気づいた。
「この女、三章では五十二歳なのに、ここでは四十九歳になっている」
「本当だ」
「五十二歳に直すよ」
「ありがとう。三年長く待たせてしまったね」
万作は何も言わず、数字だけを打ち直した。
万作は父の小説へ何度も問いを投げた。誰が話しているのか。いつの出来事なのか。なぜこの言葉を選んだのか。
墨蔵は一度も嫌な顔をしなかった。尋ねられるたびに考え、必要なら言葉を変えた。
「父さんは、悔しくないの」
「何がだい」
「俺に間違いを見つけられて」
「読者に見つけられる前でよかったよ」
「自分の小説だろ」
「だからこそ、間違えたまま渡したくはない」
万作は父の横顔を見た。
頬は以前より痩せ、何度も息を整えなければ言葉を続けられない。それでも登場人物について話すときだけは、目に柔らかな光が戻った。
三日目の朝、最後の文字を打ち終えた。
印刷機が静かに動き始める。白い紙へ、均一な文字が一行ずつ刻まれていった。
編集者が刷り上がった原稿を手に取り、しばらく頁をめくった。
「……読める」
「原稿なんだから、読めて当然だろ」
編集者は顔を上げ、万作へ頭を下げた。
「ありがとう。これなら安心して校正に回せます」
出来上がった原稿には、墨蔵の筆圧も、万年筆のにじみもなかった。震えた線も、涙の落ちた跡もない。どの文字も同じ濃さで、同じ大きさだった。
墨蔵は印字された原稿を手に取り、静かに頁をめくる。
「私が書いたものには見えないね」
「書いたのは父さんだ」
「万作の手で打った」
「言葉を選んだのは父さんだ」
「万作が間違いを見つけた」
「間違いだと決めたのも、直したのも父さんだ」
墨蔵は小さく頷いた。
「そういうものなのかもね」
編集者がその場で読み始めた。部屋には紙をめくる音だけが続く。
物語の終わり近く。老いた母が、雪の夜に帰ってきた娘へ同じ言葉を三度かける。
寒かったでしょう。
寒かったでしょう。
寒かったでしょう。
編集者の指が止まった。同じ三行をもう一度読み、眼鏡を外す。
「……同じ言葉なのに、全部違って聞こえる」
しばらく原稿を見つめてから、静かに息を吐いた。
「これは、読んだ者の心に残りますね」
万作は何も言わなかった。墨蔵も、ただ穏やかに微笑んでいた。
『雪の夜』は雑誌に掲載された。
読者は、墨蔵が手で書いた原稿を見ることはなかった。雑誌に並んだのは活字であり、墨蔵の筆跡は一文字も残っていない。
それでも、多くの読者が同じ場面で泣いた。
出版社には手紙が届いた。母を亡くした者。娘と長く会っていない者。誰にも言えない寂しさを抱えていた者。
ある手紙には、『雪の夜』を読んで十年ぶりに母へ電話をかけたと書かれていた。別の手紙には、家を出た娘のために、今年も玄関の灯りをつけて待つと書かれていた。
そして何通かの手紙には、それぞれ違う筆跡で、あの三行が書き写されていた。どれも同じ三行なのに、少しずつ違って見えた。
万作は届いた手紙を日付順に並べ、送り主の名前と住所を帳面へ記していった。
「そこまできちんと並べなくても、手紙は逃げないよ」
「あとで探せなくなる」
「何を探すんだい」
「どの言葉に、何人が反応したか」
「読者の涙を数えるつもりかい」
「記録しているだけだ」
墨蔵は息子の横顔を見て、優しく笑った。
「お前は、物語を書くより先に記録を始める作家になりそうだね」
「俺は作家になるとは言っていない」
「本を読みすぎる人間は、いつか自分の本を書きたくなるものだよ」
「父さんの思い込みだ」
「なら、覚えておこう」
墨蔵は読者から届いた一通の手紙を手に取った。
紙には、自分よりも震えた文字が並んでいた。長く病床にいるという女が、娘に読んでもらった『雪の夜』の感想を書いていた。
最後の一行だけは、娘が代わりに書いたらしい。
母は、同じところで泣きました。
墨蔵はその一文を何度も読み返した。
やがて印字された原稿へ目を落とす。
「機械の文字にも、魂は宿るのだろうか」
万作は手紙を整理したまま答えた。
「魂は、たぶん気のせいだよ」
墨蔵は少し笑った。
「なら、それでもいいのかもしれないね」
その日から、墨蔵は万年筆を握れない日にも、物語を書いた。
墨蔵が語り、万作が打った。墨蔵が言葉を迷えば、万作は急かさずに待った。時代の間違いを見つければ指摘し、父にしか選べない言葉には手を触れなかった。
ある朝、墨蔵は原稿用紙へ万年筆を置いた。
指には、もうほとんど力が入らない。それでも時間をかけて、一文字だけを書いた。
人。
墨蔵はその文字を見て、満足そうに息を吐いた。
「次の頁を頼めるかい」
向かいに座った万作が、ワープロの電源を入れる。
「まだ書くの」
「手が動かないだけで、話はまだ動いている」
画面が光った。
墨蔵は目を閉じ、次の一行を探した。
万作は鍵盤の上へ指を置き、父の言葉を待った。
次の物語も、万年筆ではなく、鍵盤を叩く音から始まった。




