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七つの邪道  作者: ちぇ!


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第四の邪道 鉛筆 


 綴野筆之進が筆を持つと、人は咳をすることさえためらった。


 明治の東京には、まだ江戸の名残があった。人力車が煉瓦造りの建物の前を走り、洋傘を差した紳士の脇を、髷を切ったばかりの男が通り過ぎる。瓦屋根の向こうには煙突が立ち、通りでは新聞売りが、新しい時代を声高に売っていた。


 その日、筆之進は新聞社の二階に設けられた席で、公開執筆を行っていた。文士や記者、学生らが壁際まで並んでいる。筆之進の弟子たちもその中に混じり、最前列では若い弟子が膝の上の帳面を固く握っていた。


 若い記者たちの手には、鉛筆があった。筆之進が書く文字を一言も逃すまいと、帳面の上を走らせている。


 部屋の中央に置かれた机には、硯と筆、真新しい原稿用紙だけがあった。下書きはない。筋書きもない。題だけが決められていた。


『戦から帰った男』


 筆之進は背筋を伸ばし、硯へ筆を沈めた。一行目を書き始める。迷いはなかった。筆先は紙の上を走り、止まらず、戻らない。一枚を書き終えると、その紙を脇へ送り、すぐに次の一枚へ移った。誰も頁をめくる音を立てなかった。


 男が戦地から故郷へ帰る。村は焼かれ、家はなく、待っていたはずの父も死んでいる。男は父の墓へ向かい、腰の刀へ手をかける。


 そこで、筆之進の筆先がわずかに乱れた。


 本来、書くべき名は弥助だった。だが、紙にはこう記されていた。


 野菜は、刀を抜いた。


 見ていた記者の一人が息を呑んだ。学生が隣の者を見る。筆之進の娘も、部屋の隅から父の筆先を見つめていた。最前列の弟子は帳面を握ったまま、目だけを見開いている。


 筆之進は止まらなかった。次の行を書く。


 野菜とは、彼の名ではない。戦場で弥助につけられた、嘲りの名であった。弥助は戦へ赴くとき、刀とともに野菜の種を持っていった。


「戦が長引いても、土さえあれば食いもんは作れるべ」


 そう語る弥助を、仲間たちは野菜と呼んで笑った。


 部屋の空気が揺れた。誰かが小さく吹き出し、慌てて口を押さえた。筆之進は構わず書き続ける。


 やがて兵糧は尽きた。弥助は荒れ地を耕し、種を蒔いた。芽が出れば水を運び、敵が迫れば刀を取った。最初の実りを口にした日、生き残った兵たちは、もう彼を笑わなかった。


 それでも、名だけは変わらなかった。


 故郷へ戻った弥助は、父の墓前で刀を抜く。仇を討つためではない。敗走した兵たちが、村に残された食料を奪おうと迫っていた。弥助の背後には父の墓があり、その脇には、父が生前に耕していた小さな畝があった。弥助は刀を構え、一歩も退かなかった。


 最後の一行で、踏み荒らされた畝から、黄色い菜の花が一面に咲いた。人々はその男を、弥助ではなく、野菜と呼んだ。


 今度は、誰一人として笑わなかった。


 筆之進が筆を置いた。誰もすぐには動かなかった。先ほど笑った記者は、開きかけた口を閉じたまま、原稿を見つめている。


 やがて新聞社の主筆が紙を手に取り、初めからゆっくりと読み返した。


「……たった二文字の書き損じから、英雄の名を作ってしまった」


 主筆は顔を上げ、呆れたように笑った。


「見事です」


 筆之進は、うなずきもしなかった。


「書いた言葉から逃げなかっただけだ」


 翌日の新聞には、筆之進の短編が掲載された。


『野菜の弥助』は評判になった。人々は、兵糧の尽きた戦場で芽を守る弥助の姿に胸を打たれ、父の畝を背に一歩も退かない結末を褒めた。


 書評家は、野菜とは命を奪う戦に抗う生命の象徴であり、蔑みの名が英雄の異名へ変わる過程には、人間が伝説となる瞬間が描かれていると論じた。


 筆之進は、その書評を最後まで読まなかった。書き間違いだったことを知る者は、あの部屋にいた者だけだった。


 筆之進は、誤りを直さなかった。間違えた道を、正しい場所まで歩き切った。それが筆之進の書き方だった。


「父上は、書く前に迷わないのですか」


 家へ戻った夜、娘が尋ねた。筆之進は硯を洗っていた。


「迷う」

「いつです」

「筆を持つ前だ」

「持ったあとは?」

「進む」

「間違えたら」

「間違えた先へ進む」


 娘は自分の机を見た。そこには鉛筆と消しゴムが置かれていた。


 新聞社では記者が使い、学校では学生たちが使い始めている。硯を持ち歩かずとも書けるその道具は、いつの間にか東京のあちこちで見かけるようになっていた。木の軸の中に黒鉛が入り、削れば何度でも先が現れる。そして、書いた文字を消すことができた。


 筆之進は、その道具を好まなかった。


「書いたものを消すための筆か」

「書き直すためです」

「同じことだ」

「違います」

「逃げ道に名をつけても、逃げ道は逃げ道だ」


 筆之進は娘の手にある鉛筆を見た。


「そんなものは邪道だ」


 娘は答えず、原稿へ向かった。


 鉛筆を走らせる。一行書く。止まる。消す。また書く。筆之進が一枚を書き上げる間に、娘は一行を三度消した。


「何を書いている」

「男が橋を渡る場面です」

「渡らせればいい」

「なぜ渡るのか、まだ決まりません」

「決めてから書け」

「書いてみなければ、決まらないこともあります」


 石油ランプの黄色い灯りの下で、娘が消しゴムを使うたび、白いかすが机へ落ちた。粗い紙はこするたびに毛羽立ち、消した文字の跡を薄く残した。


 筆之進はそれを見て眉を寄せた。


「紙を汚すために書いているのか」

「まだ、書いている途中です」

「紙へ置いたなら、もう途中ではない」

「父上にとっては」


 娘は新しい一行を書いた。そして、また消した。筆之進は、それ以上何も言わなかった。


 数日後、文芸誌の編集者が綴野家を訪れた。筆之進と娘へ、同じ題で短編を書いてほしいという。


 題は、


『橋を渡る男』


 戦から戻った男が、故郷の橋を渡る話だった。


「一月後までに」


 編集者が言った。


 筆之進は答えた。


「明朝には渡す」


 娘は答えなかった。


 その夜、筆之進は一気に書いた。


 男は戦で片腕を失っていた。橋の向こうでは、妻と幼い息子が待っている。男は変わり果てた姿を見せることを恐れ、何度も足を止める。


 だが、戻る道はない。


 筆之進の男は、橋を渡った。


 橋の中央で、男は川面を見下ろした。水に映っていたのは、片腕を失った自分の姿だった。


 筆之進は、男がその顔から目を逸らす場面を書くつもりだった。だが、意識はすでにその先へ走っていた。筆先は今書くべき描写を飛び越え、まだ先に置くはずだった言葉を紙へ落とした。


「お前だけ、帰るのか」


 橋の上には、誰もいない。


 筆之進は止まらなかった。


 川面に映る男の背後へ、戦場で見捨てた友人の姿を立たせた。友人は亡霊となって男を責めた。男は橋の上で罪を認め、それでも家族のもとへ帰る。最後に息子が、残った方の腕へ抱きついた。


 朝までに、一編を書き上げた。


 編集者は読み終えると唸った。


「これほどのものを一晩で」

「一晩もかかった」


 筆之進はそう言った。


 一方、娘はまだ、最初の頁を書いていた。


 男は橋の前に立っている。次の一行が決まらない。橋の向こうに誰を待たせるべきか。妻か。子か。誰も待っていないのか。


 娘は妻を書いた。消した。子を書いた。消した。故郷の家を書き、それも消した。


 一週間後、男はまだ橋の前にいた。


「渡れぬのか」

「渡る必要がないのかもしれません」

「題は橋を渡る男だ」

「題にあるから渡らせるだけでは、題に引っ張られています」


 筆之進は腕を組んだ。


「題を裏切る気か」

「題が望んでいるものを探しています」

「題は何も望まん」

「では、読者が」

「読者に聞くな」

「父上も聞いていません」

「だから書ける」

「私は、聞きたいのです」


 娘は男を橋から遠ざけた。


 次の稿では、橋を渡ったあとで故郷へ戻れなくした。その次の稿では、橋の途中で妻とすれ違わせた。さらに妻を消し、待つ者をすべて消した。


 紙が積み上がった。鉛筆は短くなった。消しゴムは角を失い、丸い小石のようになった。筆之進は何度か娘の机の前を通ったが、原稿を覗かなかった。


 二十日目、娘は父の短編を読んだ。


 片腕の男が橋を渡る。水の中から、亡霊となった友人が現れる。罪を認め、家族へ帰る。


 面白かった。


 悔しいほどに。


 娘は読み終えると、自分の原稿を最初から消した。


「まだ消すのか」

「父上の方が面白いので」

「なら、負けを認めろ」

「締切までは負けていません」

「見苦しい」

「父上に似ました」


 筆之進は黙った。


 娘は新しい稿を書き始めた。


 男は、戦から戻ったのではなかった。戦へ向かう途中だった。橋の向こうには、故郷ではなく戦場がある。男は家族を守るために戦うつもりだった。村の者たちは、勇敢な男として見送った。橋の中央まで進み、男は立ち止まる。川面には、自分の顔が映っている。敵を斬る覚悟はあった。だが、敵にも家があり、橋があり、待つ者がいると考えてしまった。


 男は刀を抜く。


 戦うためではない。


 刀を川へ投げ捨てるためだった。男は橋を渡らなかった。来た道を戻ることもしなかった。橋の中央へ座り、戦へ向かう兵たちを止め続けた。最後には斬られ、橋の上で死ぬ。


 それでも彼の後ろでは、一人、また一人と兵が引き返した。


 最後の一行を、娘は十四度書き直した。書いては消し、また書いた。消しゴムのかすが、雪のように机へ積もった。


 十五度目、娘は書いた。


 その橋だけが、戦場へ続かなかった。


 娘は鉛筆を置いた。


 一月目の朝だった。


 編集者は二つの作品を持ち帰った。活版で組まれた二つの短編は、同じ号の文芸誌へ並んで掲載された。


 筆之進の作品は、読み始めた者を最後まで離さなかった。片腕の男が罪を背負い、それでも家族へ帰る物語に、多くの読者が泣いた。


 娘の作品は、静かだった。剣戟も亡霊も出てこない。男は橋を渡らず、刀を捨て、死ぬ。だが、読み終えた者は、しばらく次の頁をめくれなかった。


 文芸誌が発売されると、新聞社や書店へ感想が届いた。筆之進の作品を褒める声は多かった。娘の作品について語る者は、それより少なかった。


 ただし、一年後まで語られていたのは、娘の方だった。


 筆之進は何も言わなかった。


 夜、娘の原稿を一人で読んだ。一頁目から最後まで、姿勢を崩さずに読む。


 読み終える。


 筆之進は原稿を机へ置いた。しばらくして、また一頁目を開いた。娘は廊下から、その様子を見ていた。一度書いた行へ戻らない男が、同じ一行を二度読んでいた。


 筆之進は最後まで読み直した。


「何度、書き直した」


 娘は部屋へ入った。


「覚えていません」

「数えておけ」

「次からは」

「次も書き直す気か」

「父上は、書き直さないのですか」

「必要ない」

「そうですか」


 娘は机の上の原稿を取ろうとした。筆之進の手が、その端を押さえた。


「この一行」


 最後の頁を示す。


「はい」

「最初から、これだったのか」

「いいえ」

「最初は何と書いた」

「男の名を残しました」

「なぜ消した」

「名前を残すより、橋を残した方がよいと思ったので」

「その次は」

「誰も覚えていない、と」

「なぜ消した」

「忘れられたことを強く書くと、かえって忘れられない人になってしまうので」


 筆之進は黙った。


 娘が原稿を受け取る。


「私の方が面白かったのでしょう」

「長く残っただけだ」

「それを面白いと言うのでは」

「言わん」

「そうですか」


 娘は原稿を抱え、部屋を出た。筆之進は一人になった。机へ紙を置く。硯で墨を磨る。筆を持つ。かつて一晩で書いた、自分の『橋を渡る男』を開いた。


 最初の一行は、こうだった。


 男は、失った左腕を隠すように橋へ立った。


 筆之進は別の紙へ、同じ一行を書いた。


 男は、失った左腕を隠すように橋へ立った。


 しばらく見つめる。その下へ、二行目を書こうとする。


 筆が止まった。


 左腕を隠す必要が、本当にあるのか。妻は、男の傷を恐れるだろうか。男が恐れているのは妻の目か。それとも、自分自身か。


 筆之進は書いた紙を横へ置いた。新しい紙を出した。


 男は、戦場に置いてきた左腕を思った。


 そこまで書き、また止まる。左腕を置いてくるとは、どういうことか。腕だけが戦場に残っているように読める。


 以前なら、そのまま進んだ。左腕を戦場の守護神にでもして、最後には故郷へ帰しただろう。


 筆之進は紙を横へ置いた。三枚目を出した。


 夜が明ける頃、机の脇には、墨で一行だけ書かれた紙が七枚並んでいた。


 どれも間違いではなかった。


 どれも、最初の一行にはならなかった。


 朝、公開執筆の場で最前列に座っていた若い弟子が、部屋へ入った。


「先生。これは」


 筆之進は八枚目の紙へ筆を置いた。


「稽古だ」

「何の稽古でしょう」

「迷う稽古だ」


 弟子は並んだ紙を見た。


「先生は、迷わないのでは」


 筆之進は筆先を整えた。


「迷わぬ一行を書きたければ、その前に迷え」


 弟子は深くうなずいた。


 その日の夕方、娘の鉛筆が一本、父の机の隅に置き忘れられていた。筆之進はしばらくそれを見ていた。何も言わず、机の引き出しへしまった。


 数日後、筆之進は弟子たちを集めた。机の前へ正座し、短く告げる。


「書いた言葉から逃げるな」


 弟子たちは背筋を伸ばした。


「だが、書き終えるまでは、何度でも戻れ」


 弟子の一人が恐る恐る尋ねた。


「それは、鉛筆を使ってもよいということでしょうか」


 筆之進は黙った。


 庭で烏が鳴いた。


「道具に覚悟を預けるな」

「はい」

「消したなら、なぜ消したか覚えておけ」

「はい」

「迷い抜いた末に、迷いのない一行が生まれる」


 弟子たちは感心し、急いでその言葉を書き留めた。娘は何も言わず、部屋の隅で箒を動かしていた。父の机の下には、白い消しゴムのかすが落ちていた。娘はそれを見つけたが、顔を上げなかった。


 ほかのごみと一緒に集め、静かに掃き取った。

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