第三の邪道 印刷
江戸の朝は、声から始まった。
魚を売る声。豆腐を売る声。朝湯へ急ぐ男を呼び止める女房の声。長屋の路地では井戸の水が跳ね、表通りでは荷車が石を踏んだ。団子を焼く甘い煙に、醤油と炭と、まだ乾ききらない土の匂いが混じっている。芝居小屋の前には昨夜の役者について語る者が集まり、貸本屋の軒先では、子どもが本を立ち読みして追い払われていた。
物語は、屋敷の奥に置かれるものではなくなっていた。武士も、商人も、職人も読む。湯屋で続きを語り、茶屋で結末を言い争い、字の読めない者は、読める者の隣へ座った。
ただし、その頃の本は、まだ一冊ずつ人の手で写されていた。
綴野写兵衛は、江戸で最も美しい本を作る写本師だった。
毎朝、写兵衛は着物を選ぶところから仕事を始めた。晴れた日には浅葱の小紋。雨の日には鼠色の羽織。桜の時期には、裏地にだけ花を散らしたものを着た。帯には銀の根付を下げ、髪には香油を使う。硯箱は蒔絵。筆は用途ごとに十二本。紙を選ぶときには、指で弾いて音を聞いた。
「先生。その紙は、昨日のものと同じに見えます」
弟子が言うと、写兵衛は紙を光へ透かした。
「同じに見えるってのは、見ていないのと同じだよ」
「どこが違うのでしょう」
「昨日の紙は冬だ。こいつは春先だね」
「紙に季節が?」
「ないように見えるうちは、まだ筆を持つな」
少し気取った男だった。だが、その美意識は本物だった。
恋文を書く場面では、筆先を細く整えた。墨を薄く含ませ、紙へ触れるか触れないかの力で書く。文字はかすかに震え、読む者には、筆を持つ娘の指まで見えるようだった。合戦では濃い墨をたっぷり含ませ、筆を立て、紙を切るように走らせた。太い文字が並ぶだけで、馬の蹄と鎧のぶつかる音がした。
人が死ぬ場面では、名を書いたあと、大きく余白を取った。何も書かれていない白さが、その人物の不在を語った。雨の場面では、紙へ水を一滴落とす。墨の端がゆっくりとにじんでいく。
「雨と書かずに、雨を降らせる」
太さには声があり、かすれには疲れがあり、余白には沈黙がある。写兵衛にとって本とは、文章を入れる器ではなかった。一冊そのものが、物語だった。
その本は高く売れた。武家は床の間へ飾り、豪商は客へ見せるために買った。町人たちは何人かで銭を出し合い、一冊を順番に読んだ。
ただし、写兵衛は同じ本を二度作らなかった。
客の顔を見て、文字も、紙も、時には物語まで変えた。武士へ渡す本では合戦を長くし、商家の娘へ渡す本では恋文を増やした。老いた夫婦へ渡す本では、本来死ぬはずだった主人公を故郷へ帰した。
「父上。同じ物語なのに、結末を変えてよいのですか」
息子が尋ねると、写兵衛は藍の羽織の襟を直した。
「同じ人間が二人といるかい」
「いません」
「だったら、同じ本を二冊渡す方が野暮だろう」
「では、主人公の本当の結末はどれです」
「その本を読んだ人が、一番気に入った結末さ」
息子は、父ほど字が美しくなかった。筆を持たせれば整ってはいるが、面白みがない。写兵衛は一度だけ息子の字を見て、
「行儀のいい町人みたいな字だね」
と言った。
褒めているのかどうかは、息子にも分からなかった。
その代わり、息子は人の顔を覚えるのが得意だった。どの町で何が売れ、どの話を誰が好み、どの場面で笑ったかを忘れない。貸本屋へ行けば主人と茶を飲み、魚屋へ行けば鯖を一尾おまけしてもらった。
父の本を売りたいのではなかった。父の物語を、もっと多くの人に読ませたかった。
「父上の本を待っている人がいます」
「待たせな」
「一冊仕上がるまで、三月かかります」
「美しいものには、待つ時間も含まれる」
「その間に死ぬ人もいます」
「なら、その人の分から急いで仕上げよう」
「ほかの人が三月待ちます」
「待つのも風情だよ」
写兵衛は新しい紙を広げた。
「本ってのはね、急いでこしらえるもんじゃない」
その日の昼、息子は長屋の井戸端を通りかかった。数人の町人が、父の代表作について話していた。
「最後は見事だったな。主人公が城へ戻って、仇を討つところだ」
桶を抱えた男が言うと、向かいの女房が眉を寄せた。
「何を言ってるんだい。仇は討たないよ。二人で豆腐屋を始めたじゃないか」
「豆腐屋?」
「毎朝、並んで豆を挽くんだよ。あそこが泣けるんじゃないか」
魚屋の若者が口を挟んだ。
「主人公は死んだだろう。川へ落ちて」
「助かったよ」
「助からない。飼い犬が仇を討った」
「犬なんて出てこないよ」
「出ていた。最後には殿様になった」
「犬が?」
「忠義を認められてな」
その場にいた全員が、同じ題名の本を読んでいた。だが、誰も同じ物語を知らなかった。
半刻ほど言い争った末、町人たちはそれぞれの写本を持ち寄った。頁を開くと、本当にすべて違っていた。ある本では主人公が死に、ある本では生きている。ある本では仇を討ち、ある本では仇と豆腐を作っている。犬は三冊に一冊しか出てこなかった。
「俺の本が一番いいな」
「いや、豆腐屋だよ」
「犬が殿様になる方が景気がいい」
町人たちは笑っていた。それぞれ、自分の読んだ物語を愛していた。それでも、誰かが好きだと言った場面を、ほかの者は読むことができなかった。
息子だけは笑えなかった。
皆、父の本が好きなのに、その本について同じ話ができない。
家へ戻ると、写兵衛は竹の葉が揺れる場面を書いていた。
「父上」
「何だい」
「主人公は、最後にどうなるのです」
写兵衛は筆を止めなかった。
「どの客へ渡した本だ」
「父上の代表作です」
「だから、誰に渡した本だい」
「一つに決めましょう」
筆先が止まった。写兵衛はゆっくり顔を上げた。
「今、ひどく野暮なことを言ったね」
「町の人たちは、同じ本を好きなのに、同じ場面を語れません」
「それぞれ違う場面を好きなら、それでいいじゃないか」
「私は、同じ場面で笑ってほしいのです」
「笑う場所まで揃える気かい」
「揃えるのではありません」
息子は父の前へ、一冊の印刷本を置いた。
「同じ物語を、皆へ渡したいのです」
写兵衛は本を手に取り、頁を開いた。
「線が固い」
「版木ですから」
「墨が浅い」
「多く刷るためです」
「余白が狭い」
「紙を節約しています」
写兵衛は本を閉じた。
「百人へ同じ着物を着せて、流行だと言い張る気かい」
「本です」
「同じ型から、同じものを作る。瓦と変わらないね」
「瓦は読めません」
「これも、私は読まないよ」
翌日、息子は父の原稿を抱え、版元へ向かった。写兵衛もついてきた。
「来ないのでは?」
「見届けるだけさ」
印刷所では、彫師が薄い紙へ書かれた文字を板へ裏返して貼っていた。小刀で文字の周りを彫り、一頁を一枚の版木へ移していく。写兵衛は腕を組み、黙って見ていた。
彫師の腕は確かだった。細い線も、強い払いも、原稿に忠実に木へ刻んでいる。
「違うね」
写兵衛が言った。彫師の手が止まった。
「どこがでしょう」
「『帰る』の払いだよ」
「原稿通りですが」
「そいつは逃げ帰る払いだ。主人公は胸を張って故郷へ帰るんだよ」
「払いに、そのような違いが?」
「あるとも」
写兵衛は小刀へ手を伸ばした。版元が慌てて止める。
「先生、彫るのは職人の仕事です」
「だったら職人へ伝えな。うちの主人公を腰抜けにするなと」
その日、写兵衛は日が暮れるまで印刷所にいた。翌日も来た。その次の日も来た。
「印刷なんざ邪道だ」と言いながら、毎日来た。
文字が太ければ野暮だと言い、細ければ色気がないと言った。余白が狭ければ息苦しいと言い、広ければ間が抜けていると言った。紙の色を見て、
「これじゃ春の空が乾いちまう」
と、誰にも分からない理由で刷り直させた。
版元が勝手に一行詰めた日、写兵衛は黙って庭へ出た。小石を拾う。
「先生」
「何だい」
「石をどうするのです」
「少し意見を述べる」
写兵衛は印刷所の戸へ投げた。
「余白を盗むな!」
かつて洞窟の壁に絵を描いていた先祖も、気に入らないことがあると石を持ったという。文字も紙も印刷も生まれたが、綴野家が怒ると石を拾うところだけは、あまり進歩していなかった。
余白は元に戻された。
翌月、版元は売れ行きを考え、恋の場面を前へ移そうとした。写兵衛は握り拳ほどの石を拾った。
「順番を変えるな!」
だが、今度は版元も引かなかった。
「先生、このままでは、恋が始まる前に読者が三十頁も旅をします」
「旅をしてから恋に落ちるんだよ」
「読者が先に宿へ入ります」
「根性のない読者だね」
「本を買うのは、その根性のない読者です」
写兵衛は石を持ったまま黙った。版元も黙った。彫師と摺師は、どちらにも目を合わせなかった。
「……恋の場面は前へ出す」
版元が息をつく。
「ただし、その前に橋の場面を入れる。二人が顔を合わせる理由がなけりゃ、恋じゃなくて事故だ」
「承知しました」
「あと三頁だ」
「二頁です」
「二頁半」
「版木に半頁はありません」
「融通の利かない板だね」
結局、二頁が加えられた。
さらに、題名が地味だという理由で、『旅人の帰郷』を『美剣士血涙仇討絵巻』へ変えようとした。写兵衛は庭石を選んだ。一人では持ち上がらず、弟子二人に運ばせた。
「父上。それは投げられないでしょう」
「見せるだけさ」
写兵衛は庭石へ腰を下ろした。
「題を戻しな」
版元は腕を組んだ。
「『旅人の帰郷』では、何の話か分かりません」
「読めば分かる」
「読む前に買ってもらう必要があります」
「題まで野暮にする気かい」
「では、副題をつけます」
「いらない」
「つけます」
「いらないね」
「つけます」
写兵衛は庭石を撫でた。版元は庭石を見た。
「……短いものにします」
「美しくしな」
題は、『旅人の帰郷 父の墓へ刀を置くまで』となった。写兵衛は最後まで気に入らなかったが、庭石を運び直すのも面倒だったので、それ以上は言わなかった。
版木は半年かけて完成した。元となる物語を一つに決めるだけでも、三月かかった。
主人公は死なない。仇も討たない。豆腐屋も始めない。故郷へ帰り、父の墓前へ刀を置く。それが、写兵衛と息子の選んだ結末だった。
犬も一場面だけ残った。
「この犬は必要ですか」
「必要だよ」
「殿様にはなりません」
「犬は、殿様になるためだけに生きてるんじゃない」
息子は犬を残した。
初刷りは百部だった。刷り上がった本が店先へ積まれた。すべて同じ表紙。同じ紙。同じ文字。同じところで、墨がかすれていた。
写兵衛は一冊を手に取り、次の一冊も開いた。さらにもう一冊。
「気味が悪いね」
「何がです」
「かすれまで同じだ」
「版木ですから」
それでも、本は売れた。一日で四十冊。三日で百冊。すぐに二百冊が刷られた。
町のあちこちで、同じ表紙が開かれた。茶屋では娘たちが主人公の恋文について話し、湯屋では職人たちが、仇を討たなかった結末について言い争った。貸本屋の前では、子どもが犬の場面だけを何度も読んだ。
橋のたもとでは、見知らぬ二人の男が同じ本を持っていた。
「どこが好きだ」
一人が尋ねる。
「父の墓へ刀を置くところだな」
「俺もだ」
二人は同じ頁を開き、同じ一文を指でなぞった。名も、暮らす町も、その本を読んだ場所も違う。
それでも二人の中には、同じ墓があり、同じ刀が置かれていた。
写兵衛は道の向かいから、その様子を見ていた。
一冊ずつ比べれば、自分の写本の方が美しい。紙の白さも、墨の深さも、余白の呼吸も違う。写本ならば、主人公が刀を置く頁を開いただけで、風が止まる。
印刷本には、そこまでの美しさはなかった。
だが、自分の写本を読んだ者は、その風を一人でしか感じられない。
その先の路地では、子どもたちが物語の一場面を演じていた。
「もう、仇は討たねえ!」
主人公役の子どもが、棒切れを地面へ置く。
「父ちゃん。俺は帰るぜ!」
見ていた子どもたちが、一斉にそのあとの台詞を叫んだ。犬役の子だけが四つん這いのまま、少し遅れて吠えた。
その物語は、もう一冊の中にはなかった。
町のものになっていた。
写兵衛はしばらく何も言わなかった。
自分なら、もっと美しく作れる。もっと深い墨を置き、もっと静かな余白を残せる。
けれど、自分の本では、あの二人が同じ頁を開くことはなかった。
「なるほどね」
息子が父を見る。
「何がです」
写兵衛は羽織の襟を整えた。
「一人ずつ違う夢を見るのも悪くない」
路地では、また主人公役が刀を置いた。見ていた子どもたちが、一斉に同じ台詞を叫ぶ。
写兵衛は少し笑った。
「だが、町じゅうで同じ夢を見るってのも……」
扇子を開き、口元を隠す。
「なかなか粋じゃないか」
翌年、写兵衛の本は五千部を超えた。
刊行を祝う席には、版元、彫師、摺師、書店の者、それに大勢の読者が集まった。写兵衛は新しく仕立てた浅葱の羽織を着て、皆の前へ進み出た。帯には銀の根付を下げ、片手には扇子を持っている。
版元が声を張った。
「先生の物語が、江戸じゅうへ同じ姿で届けられました」
写兵衛は静かにうなずいた。
「物語というものは、作者の手を離れたあと、読者の胸へ住むものさ。同じ場面で笑い、同じ言葉に泣き、会ったこともない者同士が、一つの物語について語り合う」
写兵衛は扇子を開いた。
「同じ物語を、同じ姿で届ける。それが作者の誠意ってものだろう」
会場から感嘆の声が上がった。版元は深くうなずき、彫師たちは目を潤ませた。
会場の隅には、格好を気にする本人には内緒で、写兵衛が印刷所へ投げた石が、刊行の記念として並べられていた。
一番小さな石には、
『初版への憤り』
握り拳ほどの石には、
『増刷への憤り』
弟子二人で運んだ庭石には、
『完売への憤り』
と、それぞれ札が添えられていた。
どれも、行儀のいい町人のように整った字だった。




