第2話『冷血公爵、一晩で作成された監査報告書に絶句する』
翌朝。朝靄がまだ残る清廉な空気の中、公爵邸の本館執務室は重苦しい絶望感に包まれていた。
「……くっ、やはりダメか……」
ヴィンセント・ヴァルハイト公爵は、目の前に積まれた書類の山を前に、こめかみを強く押さえていた。
青白い顔には色濃い隈が浮かび、自慢の銀髪も少し乱れている。一晩中、領地の会計書類と睨めっこをしていたが、解決の糸口などどこにもなかった。
父である前当主が無計画に膨らませた多額の借金。
それを補填するために無理なやりくりを続けた結果、公爵家の財政は完全に破綻しかけている。
(……くそっ、あと三ヶ月で騎士団への給与支払いどころか、領民への支援すら打ち切らざるを得ない。私ひとりの責任ならまだしも、新しく嫁いできたエレノアまで路頭に迷わせるわけには……)
昨夜、彼女に突きつけた冷酷な言葉。
「愛するつもりはない」と離れへ追いやったのは、この落ちぶれかけた公爵家の闇に彼女を巻き込まないための、彼なりの不器用な配慮――のつもりだった。
(今頃、彼女は冷たい離れで、私に対する怒りと悲しみに暮れているだろう……。すまない、エレノア。私に力がないばかりに……)
ヴィンセントが一人で勝手に罪悪感を募らせ、深く溜め息をついたその時だった。
コンコン、と軽やかなノックの音が執務室に響いた。
「入ってよろしいでしょうか、ヴィンセント様?」
「……! エレノア……!?」
不意を突かれ、ヴィンセントは跳ね起きるように姿勢を正した。
ドアが開くと、そこには――昨夜の疲れなど微塵も感じさせない、ピカピカと発光せんばかりに晴れやかな笑顔を浮かべたエレノアが立っていた。
手に、ずっしりと重そうな厚い羊皮紙の束を抱えて。
「……君、なぜここに? 本館への立ち入りは禁じたはずだが……」
「お戯れを、旦那様。緊急事態に規律を優先させるほど、私は頭が硬くありませんわ」
エレノアは優雅な所作で部屋へ入ってくると、ヴィンセントのデスクの前まで歩み寄った。
そして、彼が抱えていた頭痛の種(書類の山)のすぐ隣に、持ってきた羊皮紙の束をドサッ!と叩きつけた。
「……な、なんだこれは?」
「昨夜、離れの書斎でお借りした過去5年分の帳簿をもとに作成いたしました、『ヴァルハイト公爵家・財務監査報告書』および『経営再建計画案』にございます!」
「……は?」
爽やかな挨拶と共に差し出されたタイトルを聞いて、ヴィンセントの思考が完全にフリーズした。
「かんさ……ほ報告書……? 経営……再建……?」
「ええ。単刀直入に申し上げますね、旦那様」
エレノアは極上の笑みを浮かべたまま、美しい指先で報告書の表紙をトントンと叩いた。
「この公爵家、あと90日で確実に倒産(破産)いたしますわ」
「っ!??!?」
あまりにもハッキリと、しかも清々しい笑顔で事実を突きつけられ、ヴィンセントは喉を詰まらせた。昨夜の「冷酷な氷結公爵」の威厳など、跡形もなく消し飛んでいる。
「な、なぜそれを……いや、君はただの子爵家令嬢だろう!? 帳簿を一晩見ただけで何が分かるというのだ!」
「あら、失礼ですね。数字は嘘をつきませんわ」
エレノアはフッと冷ややかな笑みを浮かべると、報告書の1ページ目をパラリとめくり、淀みない口調でプレゼンテーションを開始した。
「まず、1年目から始まっている特定商会への不自然な高額発注。市場価格の約3倍で買い付けが行われていますわね。これは担当側近によるあからさまな【中間搾取】です」
「なっ……!?」
「次に、3年目から急増している謎の『雑費』。支出の裏付けとなる領収書が一切存在しません。つまり【横領】です。さらに、利益が出ているように見せかけるための杜撰な【粉飾決算】の痕跡が14箇所」
「ひ、14箇所……!?」
「ええ。前当主様の代からの腐敗を放置した結果、現在の赤字額は金貨5,000枚。このまま行けば、来月の騎士団の給与支払いで現金が底をつきます」
バシバシとファクトを突きつけられ、ヴィンセントの顔から完全に血の気が引いていった。冷酷な仮面はガラガラと砕け散り、開いた口が塞がらない。
彼が数ヶ月間、一人で頭を悩ませていた暗闇の正体を、この少女はたった一晩で完璧に解剖してみせたのだ。
「き、君は……一体何者なんだ……!?」
「ただの、数字と合理性を愛する妻でございます」
エレノアは胸を張り、満足気な笑みを浮かべた。
「『愛するつもりはない』とおっしゃいましたわね? 素晴らしいことです! 恋愛感情という不確定要素を排除し、ビジネスパートナーとして割り切れるのであれば、これほど仕事がやりやすい環境はありません!」
「び、ビジネスパートナー……!?」
「はい! 私はこの快適で静かな離れでの生活を守りたい。そのためには、この家を潰すわけにはいかないのです。――全権を私に任せていただければ、まずは3日で裏で甘い汁を吸っている腐敗側近を全員クビにし、今月の赤字をゼロにしてみせますわ!」
言葉を失い呆然と立ち尽くす「元・冷血公爵」に向かって、新妻は悪魔のように頼もしい笑みを投げかけたのだった。




