第17話『帝国の天才財務卿 vs 元・公認会計士(※頭脳戦開幕)』
カイル皇子が這う這うの体で逃げ帰ってから数日後。
公爵邸の執務室では、私とヴィンセント様が対峙していた。……いや、対峙というよりは、私がひたすら書類仕事の邪魔をされていた。
「エレノア、見てくれ。この書類の署名欄だが、君が指で押さえていてくれないとペンが進まないんだ」
「……旦那様。それは単に私の手に触りたいだけの言い訳ですわね?」
「バレたか。だが、君の体温を感じていないと私の作業効率が50%落ちるというのは紛れもない事実だ」
悪びれもせず堂々と言い放つ「氷結公爵」改め「溺愛公爵」。
前回の帝国撃退劇を経て、ヴィンセント様の「妻を手放したくない度」は上限値を突破し、今や隙さえあれば抱きついてくる始末だ。
「はぁ……。これでは私のニート生活どころか、日課の帳簿チェックすら進みませんわ」
呆れつつも、差し出された手にそっと自分の手を重ねてあげると、ヴィンセント様は心底幸せそうに目を細めた。
――そんな甘い空気を切り裂くように、アルフが静かに執務室へと入ってきた。
「旦那様、エレノア様。お客様がお見えです。……前回の皇子殿下とは異なり、正式な外交手続きを踏んでの訪問でございます」
応接間に通されたのは、上質な黒の礼服を纏った細身の青年だった。
モノクル(単眼鏡)の奥で光る知的な瞳と、一切の無駄がない洗練された立ち振る舞い。
「初めまして、ヴァルハイト公爵閣下。そして……『数字の魔女』こと、エレノア・ヴァルハイト夫人」
青年は深く綺麗な一礼を捧げた。
「私はガルニア帝国・特命財務卿、ルーカス・フォン・シュタイナーと申します。先日は我がカイル皇子が大変なご無礼を働き、誠に申し訳ございませんでした」
「……帝国の財務卿が、直接謝罪に追参したというのか?」
ヴィンセント様が警戒を強める。
前回のカイル皇子のような力押しの馬鹿ではない。この男ルーカスは、静かだが底知れない知性を漂わせている。
「ええ。皇子の無礼のお詫びと……そして、私個人として『エレノア殿と知恵比べをさせていただきたい』と思いましてね」
ルーカスはフッと意味深な笑みを浮かべると、革張りのアタッシュケースから厚みのある羊皮紙の束を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これは、我がガルニア帝国が数年後に計画している【大陸横断・巨大物流ルート構想】の財務計画書(投資案件)です」
「物流ルート構想……?」
「ええ。もし我が国の計画通りに物流網が完成すれば、貴国およびヴァルハイト公爵領にも膨大な通行税と貿易利益がもたらされます。……しかし、もしこの計画の『計算上の致命的な穴』を指摘できなければ、ヴァルハイト公爵領は我が国の経済圏に完全に組み込まれる(買収される)ことになりますが……いかがでしょう?」
ルーカスはモノクルをクイッと上げ、挑戦的な笑みを向けた。
武力(軍事力)ではなく、完璧に組み立てられた『高度な投資・金融ロジック』による経済侵略。
これまでの悪徳商会や成り上がり官僚とは格が違う、本物の天才による挑戦状だった。
(……ほう? 金融工学と事業投資のスキームで私に挑もうというのですか?)
私の血が、前世の公認会計士としての本能が、激しく騒ぎ出す。
「面白いですわ、ルーカス財務卿」
私は扇子を優雅に広げ、不敵な笑みを返した。
「その過剰に膨らませた『取らぬ狸の皮算用』……私が10分で粉々に分解して差し上げますわ!」
「エレノア……(また妻の悪役顔が始まってしまった……だがそこが可愛い)」
こうして、公爵家の平穏(と妻のニート生活)を賭けた、大陸最高峰の頭脳戦の火蓋が切って落とされたのだった――!




