第10話『計算不能な愛につき(※降参いたします)』
「――本日をもって、私の離れへの完全撤退を宣言いたします!」
朝一番。私は両手にパンパンに詰まった荷物(主に会計帳簿と愛読書)を抱え、離れの玄関前で高らかに宣言した。
昨夜のヴィンセント様からの怒濤の「本気の求愛」から逃れるため、私は執務室を抜け出し、早朝から離れへの籠城作戦を決行したのだ。
(ふふふ……いくら公爵様とはいえ、鍵をかけた離れの中にまで強引に入ってくるような野蛮な真似は――)
バタン!!
「おはよう、エレノア。良い朝だな」
「……は!?」
ドアを開けて入ってきたのは、鍵を持っているはずもないヴィンセント様だった。
しかも、手に焼きたてのクロワッサンと極上の珈琲が載ったトレイを抱えている。
「な、なぜ中に入れているのですか!? 鍵はかけておいたはずですが……!」
「ああ、この離れの予備鍵か? 今朝一番でアルフからもらったのだ。『坊っちゃま、健闘をお祈りしております』とな」
(あの老執事、速攻で寝返りおった……!!)
「さあエレノア、朝食にしよう。君の好きな焼きたてのパンと、王都から取り寄せた最高級の珈琲豆だ。……あーん、してあげようか?」
「結構です! 自分の手で食べられますわ!」
甘い笑顔で迫ってくるヴィンセント様に対し、私は荷物を盾にして間合いを取った。
「だ、旦那様! 落ち着いて数字を見つめ直してください! 私は元・社畜の会計士で、趣味は帳簿つけとニート生活! 貴族の妻としての『愛らしさ』や『エスコートされる喜び』など一切持ち合わせておりませんのよ!?」
「それがどうした?」
ヴィンセント様はトレイを卓上に置くと、迷いのない足取りで私との距離を詰めてきた。
「数字に厳しく、不当な圧力には悪魔のような顔で立ち向かい、私のために夜を徹して計画書を書いてくれた……そんな頼もしく美しい妻を、愛さずにいられるわけがないだろう?」
「うっ……ファクトで返されるとぐうの音も出ませんわ……!」
「それに、君がどれだけ『ニート生活』を望もうと構わない。君が離れでゴロゴロしたいのなら、私もここで一緒にゴロゴロするだけだ」
「公務をしなさい公爵様!!」
正論を叩きつける私だったが、ヴィンセント様はフッと優しく目を細めると、荷物ごと私を丸ごと抱きしめてきた。
「きゃっ……!?」
「……冗談だ。公務は完璧にこなすよ。君に二度と苦労をかけないためにも、我が領地を世界一豊かな場所にしてみせる。……だから、お願いだ、エレノア」
耳元で聞こえる、少しだけ切ない声。
氷結公爵と呼ばれ、誰にも弱みを見せなかった男が、今や私に縋るように抱きついて we いる。
「私を置いて、一人で遠くへ行こうとしないでくれ。……君のいない広い屋敷など、ただの冷たい箱と同じなんだ」
「…………」
ずるい。あまりにもずるすぎる。
前世で数字とロジックの世界だけに生きてきた私にとって、この「純度100%の真っ直ぐな感情」は、どんな複雑な決算書よりも解読不能で――そして、胸が痛いほど愛おしかった。
(……はぁ。前世の会計士のプライドが泣くわね)
どんなに計算しても、この男から逃げ出すメリット(損益)が「ゼロ」であるという結論に達してしまうのだから。
私は諦めたように大きな溜め息をつくと、抱え込んでいた荷物を床にドサリと落とし、ヴィンセント様の背中にそっと手を回した。
「……はあ。降参ですわ、旦那様」
「……え?」
「契約改定に応じます。……ただし! 離れでのお昼寝時間は毎日2時間を保障すること。そして、私が退屈した時はいつでも領地の帳簿を見せること。……この条件を呑んでいただけるなら」
私はヴィンセント様の胸に顔をうずめ、照れくささを隠すように小さく呟いた。
「……あなたの『本当の妻』になって差し上げてもよろしくてよ?」
一瞬の静寂ののち。
「――エレノアっ……!!」
歓喜の声を上げたヴィンセント様に、私はそのまま力いっぱい抱き上げられ、くるくると回された。
「ありがとう、エレノア! 世界で一番愛している! 君を絶対に幸せにしてみせるからな!!」
「きゃあっ!? ちょっと旦那様、目が回りますわ! 落ち着いてください……んむっ!?」
言葉の途中で重ねられた、甘くて温かい唇。
「愛するつもりはない」から始まった二人の関係は、計算不可能なほどの「過剰な溺愛」と「最高のハッピーエンド」へと着地したのだった――。




