森の影と割れた水時計 半透明の睡眠と始まりの日
Day1夜・教練棟(廊下の影)
さらに時間が経つ。
静寂のなか、夜空の月がゆっくりと傾いていく。
「ミナト、眠たい……?」
「私、ちょっと眠い……」
ニーコスがぽつりと呟くと、そのまま床へぽてんと腰を下ろした。
そして――何のためらいもなく、すーっと静かに目を閉じる。
「……は?」
ニーコスは一瞬で寝息を立て始めた。
身体は薄いまま。半透明で月光を透かしたまま。
この原因不明の異常事態、音もない夜の教練棟で。
ミナトはあまりのことに息を詰めた。
(……ね、寝るのか……!? この状況で!?)
立ち尽くしたまま、しばらく信じられない思いでニーコスを見下ろしていたミナトだったが、やがて諦めたように大きく肩を落とし、彼女の隣へと腰を下ろした。
冷たい月光が差し込む廊下。
膝を抱えるニーコスの肩が、規則正しく静かに揺れている。
(……すごく穏やかな寝息を立てている気がする)
(いや、実際には音なんてまったく聞こえないんだけれど……)
静けさの中で、ミナトの思考はぐるぐると渦を巻き始める。
(……それより、戻れなかったらどうする?)
(本当にこのまま元の時間に帰れなかったら……リーンは怒るかな。泣くかな……必死で探すのかな)
(凛姉さん……。母さん……)
(どうすれば戻れる? そうだ、そもそもなんでこんなことになったんだ?)
(ニーコスが……あの時ニーコスがあそこに手を伸ばしたせいだ……くそっ……!)
苛立ちとともに湧き上がりかけた黒い感情。
だが、ミナトはすぐさま首を振ってそれを打ち消した。
(……いや、違う。誰かのせいにするのは違うだろ)
(でも、普通寝るか……? よくこんな状況で熟睡できるな。緩いなんてもんじゃない。実はもの凄く図太い奴なのか……?)
(もしかして、そっちなのか?)
(いや、思い出せ、
「ミナト!」と叫んで、水を汲んできてくれたのはニーコスだ。
そうだよ、森林で寄生虫にやられた二人を助けるために歯を食いしばったニーコスだ)
(ニーコスは不安なんだ。だけど、俺がいるから……だから、いつもと同じようにできるんだ)
(情けないぞ、ミナト!俺はニーコスを信じられる……いや、信じる!)
焦りと恐怖で乱れかけた心だったが、急にできる気がしてきた。そして思考を前へと進める。
(だが……どうすればいい? もしここが本当に『過去』なんだとしたら……この時間のどこかに『俺自身』もいるはずだ)
(自分に会うか……? 会って、あの遺物保管庫に行くのを止める? 止められるのか? ……わからないが、止めてみるしかない……!)
定まらない思考のまま、ミナトの視線がゆっくりと落ちていく。
張り詰めていた精神の緊張が限界を迎えたように、彼もまた静かに目を閉じた。
音のない、夏の夜はどこまでも続いていた。
◇
朝。
夏。
ベイルスレイブの谷へ眩しい日差しが差し込み始める。
夜の冷気がまだ校舎の影に残っているものの、石畳の上にはゆっくりと熱が戻り始めていた。
カナリアは遺物保管庫の扉の前に呆然と立ち尽くしていた。
半透明の身体。
薄く透けた輪郭。
相変わらずの、静もり返った音のない世界。
もう何度目になるのかすら分からない朝の光景。
「……うっそ、さっきまで『私』と一緒にいたはずなのに……」
胸のざわつきを抑えきれず、そのまま教練棟の廊下を走り、大きな窓から外を見下ろした。
――そして、彼女の足がピタリと止まる。
教練棟の入口。
そこにはニーコスがいた。そのすぐ横にはミナトの姿。
「本物」の二人は、窓辺に立つ自分を視認すると、まっすぐこちらに向かって歩いてくる。
そして――その少し手前。
自分と同じように、影の薄い「半透明のふたり」――幽体のニーコスとミナトが佇んでいた。
実体のある二人と、透けた二人。
「え……?」
トクン、とカナリアの心臓が大きく跳ね上がる。
(だめ……! 待って……!!)
(これって……あの子たちまでこの異常に巻き込まれてるってこと……!?)
(あの薄い二人……何かを止めようとしてる……? ダメ、もし『過去』を変えて止めたりしたら、もっとまずい事態が起きる……!!)
カナリアは反射的に、背後にある遺物保管庫の方向へ視線を向けた。
――今日。
このあと。
「本来の時間軸の自分」が、あの保管庫へ入る。
そして、あの遺物が起動するのだ。
そこまで思考が辿り着いた瞬間、カナリアの顔色が瞬時に蒼白へと変わった。
「だめだって……!!」
もちろん、声は一小節たりとも届かない。
カナリアは必死で、千切れんばかりに両手を振り回した。
実体のある二人が怪訝そうな顔を浮かべ、窓辺のカナリアを見つめている。口を動かして何かを言っているようだが、何も聞こえない。
「止めちゃダメ!!」
「あの遺物を発動させないと、歴史がズレて私たちが帰れなくなる……っ!」
ふと、下にいた「薄いミナト」が足を止めた。
隣の「薄いニーコス」も不思議そうに首を傾げる。
――薄いミナトと薄いニーコスの二人には、窓辺で暴れるカナリアの影が見えていた。だがやはり、声も音も届かない。
「またいるねぇ」
「……昨日と同じ影か」
幽体の二人が自分を見上げているのに気づき、幽体カナリアはさらに激しく手を振った。
遺物保管庫の方向を指差し、それから必死で首を横に振る。
「そこに行くな」「余計なことをするな」――言葉の代わりに、何度も何度も同じ身振りを繰り返す。
(伝われ……! おねがい、伝わって……!!)
(お願いだから……今日だけは森の人の勘を働かせてよ……!!)
その真意に気づいたのか、幽体ニーコスの足がピタリと止まった。
――しかし、その直後。
目の前に近づいてきた「実体のニーコス」が、不審に思って幽体カナリアへと手を伸ばした。
「そう!!」
「そこで止まって、いい子だから貴方達は、自分の本体に近付かなくていいから……! ああっ!!!」
幽体カナリアを見上げる幽体の二人。
実体のある方を含めると、ここには都合四人の人間が存在している。全員が口を動かし、何かを叫び、話し合っているのが分かる。だが、全き静寂の中で音は一切聞こえない。
そして――実体のニーコスの指先が、幽体カナリアに触れた。
その瞬間。
世界が、激しくグラリと揺れた。
「ああああっ――!?」
空間が歪む。
カナリアの薄かった身体の輪郭が、解れ、弾け、眩い光の粒子へと変わっていく。
そして――。
光となった彼女の身体は、引き寄せられるようにして、遺物保管庫の奥へと一気に吸い込まれていくのだった。




