森の影と割れた水時計 半透明の不安
Day1夜・教練棟
夜。
夏。
昼間の熱気はすでに去り、教練棟の重々しい石壁にはひんやりとした夜の冷気が戻ってきていた。
カナリアは、またしても暗闇の夜の世界へと跳ばされていた。
教練棟。
静もり返った廊下。
静寂が横たわる演習場。
月光が落ちる渡り廊下。
ただ目的もなく歩く。
頭を巡らせ、考える。
だが、どう足掻いても現状を打開する術は見つからない。
(帰れない……)
(誰ともまともに話せないし、触れることすらできない……)
(でも、師匠の魔道具なんだから……たぶん、元の時間に戻る方法はあるはず)
(……たぶん)
力なく、長い耳がペタリと伏せられる。
「『たぶん』なんて、一番あやふやで嫌なんだけどなぁ……」
虚しく吐き出した呟きに、返事は来ない。
見上げれば、澄んだ夜空に冷たく輝く月。
音の存在しない夜は、あまりにも静かすぎた。
◇
どれくらい歩き続けた頃だろうか。
ふと、カナリアの足がピタリと止まった。
「あ……」
暗闇の中で、電球が弾けたように閃く。
「『私』に会えばいいんだ……!」
両手をポンと打ち合わせる。
もちろん、その手応えの音すら聞こえはしない。
「そうじゃん! 他の生徒や職員には怪しまれて逃げられるけど……『私自身』なら、この異変にも気づいて話を聞いてくれるはずじゃん!」
途方に暮れていた表情が一変し、パッと明るい希望が灯る。
カナリアは勢いよく背筋を伸ばすと、過去の自分が歩いているはずの「宿直巡回ルート」を目指して駆け出した。
◇
Day1夜・教練棟~遺物保管庫前
それから、しばらく巡回ルートを追いかけて――。
廊下の先、月明かりが差し込む一角に、目当ての人物が立っていた。
今の自分(幽体)ではない。
「二日前の自分」。宿直業務の最中である、実体を持ったカナリアだ。
幽体のカナリアは思わず足を止め、ぱっと表情を輝かせた。
「いた……!」
安堵から、少しだけ嬉しそうに笑みがこぼれる。
彼女はすぐさま大きく、必死に手を振ってみせた。
――異変に気づき、宿直中のカナリアがピタリと足を止める。
月光の届かない闇の領域を凝視し、怪訝そうに眉を寄せた。
それも当然だ。そこに立っているのは、自分と寸分違わぬ姿をした森の民なのだから。
(おーい! ここだよー! 私! 私!)
幽体カナリアは声の届かない世界で、ぶんぶんと必死に手を振り続ける。
宿直カナリアは油断なく警戒しながらも、ゆっくりと距離を詰めてきた。
幽体カナリアは「よしっ」とばかりに満足そうに頷く。
(よし……! きたきた! そのまま……そのまま付いてきて!)
幽体カナリアはくるりと踵を返して歩き出し、途中で立ち止まって振り返る。
そして再び歩き出し、手を振って手招きをする。
――誰が見ても、明らかに特定の場所へ導こうとする手招き(誘導)だった。
宿直カナリアもその意図には気づいているようだった。
不気味な罠かもしれない。だが、それ以上に「自分と同じ姿の影」への強烈な興味と好奇心が上回る。警戒を怠らないまま、影の導くままに足を進めていく。
二人のカナリアが向かった先――。
それは、すべての元凶が眠る『遺物保管庫』だった。
◇
Day1夜・教練棟(廊下の影)
少し離れた廊下の暗がり。
二人のカナリアのやり取りを、ミナトとニーコスが静かに見つめていた。
二人とも身体は半透明で、冷たい月光がそのまま身体を通り抜けて床に影を作らない。
「カナリアさんだ」
「……どっちがだ」
「両方」
ミナトは片手でぐっと額を押さえた。
……たしかに、ニーコスの言った通りだった。
片方は実体のある本物。
もう片方は、薄く透けた影のような存在。
だが――どこからどう見ても、どちらも紛れもなくカナリア教官だった。
「追いかけてるねぇ」
「……誘導してるように見える」
「うん」
二人の間に、重い沈黙が流れる。
(……止めるか?)
(いや、止めていいのか……? ここが本当に『二日前の過去』だとしたら、下手に干渉して歴史が変わったらどうなる?)
ミナトの足がすくみ、動かない。
隣のニーコスもまた、動こうとはしなかった。
「やめとこう」
「……理由は?」
「分からないから」
ニーコスはぽてんと首を傾げ、窓の外の月を見上げた。
「今はまだ状況がよく分からないし。私たちは二人だし……それに、何もしなくても今は安全そうだからね」
ミナトは小さく息を吐き出した。
それは論理的で、客観的に見れば正しい判断だ。正しいはずだった。
――けれど。
(もし……元の時間に戻れなかったらどうする?)
(いや、そもそも……俺たち、あの光を浴びた瞬間に本当はもう死んでたりしないか? ここはあの世なのか……?)
(いやいや、ニーコスも一緒にいるんだから死んでない。……たぶん)
(それにしても、なんでニーコスはこんな状況でこんなに落ち着いていられるんだ? ……俺、焦って苛立ってるのか?)
じわりと喉が渇くような錯覚。
だが、空腹感は一切ない。どれだけ走り回っても疲労感すらほとんど残らない。
その生理現象の欠落が、余計に自分たちの「存在の現実感」を削ぎ落としていく。
「お腹減らないね。便利だねぇ」
「……便利なのか、それ」
「よく感じてみたら、痛みとか物に触れてる感触もすごく弱いよね?」
ニーコスは自分の指先をじっと見つめ、呑気に呟く。
「多分……こんなの長く続かないよ」
ニーコスは心からそう思っているようだった。
決して不安がないわけではない。ただ、予期せぬ事態に対しても必要以上に恐れていないのだ。
ミナトは自分が疲れていることを感じていた。
そして、何が起きても柔らかく受け止める――森でも見てきた、これがニーコスという人間の本質なのだと、思うことにした。
◇
二人のカナリアが去った後の廊下で、しばらくして――。
ニーコスがふと自分の着ている制服へと視線を落とし、不思議そうに首を傾げた。
「服、脱げるかな……あ、無理だった」
自分の服の裾をつまんで引っ張ってみるが、まるで身体の一部として張り付いているかのように、布地すらまともに動かない。何も起きなかった。
ニーコスは「ちぇー」とでも言いたそうに、少し残念そうな顔をした。
「……」
ミナトは無言のまま、自分も手元に視線を向け、胸元の布地にゆっくりと指先を近づけてみる。
触れようとした指先が、かすかに震えていた。
(……法則が、分からない)
壁や床は踏み越えられないのに、人はすり抜ける。
服を引っ張ることもできなければ、腹も減らず、痛みすら曖昧。
この歪んだ世界には、間違いなく何らかの「法則」が存在している。だが、それが何によって定められているのかが全く見えてこない。
(見えない法則ほど、怖いものはない……)
冷たい闇の中で、ミナトの胸の奥にある不安の影は、静かに、しかし確実にその濃度を増していくのだった。




