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森の影と割れた水時計 闇の影と朝日に透ける体

Day0夜・教練棟

暗い。

静まり返った夜。

教練棟の窓からは、ただ冷たい月光だけが差し込んでいる。


カナリアは冷たい床にポツンと座り込んでいた。

どれだけの時間が過ぎ去ったのか、もはや分からない。壁の時計の針は読めても、ここが「いつの何日」なのかを確かめる術がなかった。

音もない。人の気配もない。


「……どうしよう」


ぽつりと呟くが、もちろん返事など返ってこない。

カナリアの長い耳が、しゅんと力なく垂れ下がる。


「師匠の魔道具だとしたら、絶対にどこかに帰る方法はあるはずなんだけど……。いや、まさか帰れないの? どういう仕様なのよ……」


眉をひそめ、不満げに空を睨みつける。


「……あとで絶対、思いっ切り文句言ってやるんだから」


――その時だった。

廊下の向こうから、誰かが歩いてくる気配がした。

制服ではない。教職員――今夜の宿直を担当している職員だ。


カナリアの瞳が、ぱっと輝く。


「あっ……!」


声が届かないことなど構わず、彼女はすがりつくように駆け出した。


「ねえ! 私! 私なんだけど……っ!」


両手を大きく振り、自分がここにいることを必死に説明しようとする。


――しかし。

宿直職員の反応は、カナリアの期待とは大きくかけ離れていた。


青白い月明かりのなか。

薄く半透明に透けた森の民が、無言で自分に向かって一直線に走ってくる恐怖。


職員の顔が瞬時に恐怖で引きつり、腰の武器へと手が伸びる。


「え……?」


職員が何かを叫んでいる。音のない世界では聞こえない。

だが、その表情と口の動きで、何を言われたのかは痛いほどよく分かった。


(あっ……)

(これ、助けを求めるどころか……一番怖い怪奇現象のやつだ……!)


勢いよく武器が振り上げられる。


「危なっ!?」


カナリアは反射的に身を翻し、弾かれたように逃げ出した。

廊下の角を曲がり、階段を駆け上がっていく。


――その時だった。

視界の後方、闇の陰から別の「影」がぬっと現れる。


黒い影。

カナリアの視界の端で、その影が何かをサッと投げつけるのが映った。

空中に舞う、怪しい白い靄(もや)。


それが、カナリアを追おうとしていた宿直職員の頭上へ降り注ぐ。


ぐらり、と職員の身体が大きく揺れた。

手から武器が滑り落ち、カランと音も立てずにその場に崩れ落ちていく。


――完全な気絶。


カナリアは咄嗟に足を止め、呆然と振り返った。


立ち尽くす黒い影。

倒れた宿直職員。

その気絶した身体。


目の前で起きた出来事の全貌を、カナリアの頭はすぐには理解しきれなかった。


「……」


黒い影は微動だにしない。

いや――影は確実に、半透明のカナリアの方を「見て」いた気がした。


ゾクッと、カナリアの背筋に冷たいものが走る。

冷え込む夏の夜。音のない静寂の世界。


(まずい……! あれだけは絶対にまずい……!!)

(私じゃない……『森の民の幽霊』なんかじゃない……!)

(あいつが……あいつが全部やってるんだ……!)


カナリアは再び夢中で走り出した。


教練棟の廊下を駆け抜け、演習場を切り裂き、保管庫の前を通り過ぎる。

行き先なんてない。ただひたすらに、あの黒い影から逃げ惑う。


誰にも話せない。

誰にも助けを呼べない。


音のない夜は、果てしなく長かった。


ただ――あの恐ろしい黒い影だけは、確かにそこに存在していた。


◇


Day1朝・教練棟

朝。

夏。

ベイルスレイブの谷へ眩しい朝日が差し込んでくる。

夜の冷気が少しずつ押し返され、石造りの校舎がゆっくりと温まり始める時間帯。


カナリアは教練棟の廊下を歩いていた。

――正確には、歩いている「つもり」だった。


身体は薄く、羽のように軽い。

踏みしめる足裏の感触もどこか曖昧だ。それでも、どうにか前へと進むことはできていた。


(朝……? さっきまで夜だったよね? また時間が飛んだの……?)


窓から差し込む朝の光が、カナリアの身体を真っ直ぐに照らす。

――その瞬間。


彼女の身体の輪郭が、スーッとさらに薄くなった。


「ん?」


半信半疑でさらに前へ進み、強い日差しをたっぷりと浴びてみる。

――やはり、一層透けて薄くなっていく。


「え……?」


足をとめ、自分の両腕を顔の前に掲げた。

結果は明らかだった。朝日を浴びれば浴びるほど、彼女の存在そのものが世界から削られ、薄くなっていくのだ。


「いやいやいや! 待って待って!」


慌てて廊下の柱の影へ飛び込む。

日陰に入ると、すりガラスのようだった輪郭が少しだけ濃く戻った。だが、完全に元通りというわけではない。


(日光で消えるの!? そんな、本物の幽霊みたいな設定いらないんだけど!! いや、今の状況って実質幽霊みたいなものだけどさ!!)


カナリアの長い耳が、力なくぺたりと下がる。


「最悪……」


日陰の壁に背をあずけ、完全に途方に暮れる。

だが、彼女の困惑を置き去りにしたまま、時間だけは無情にも刻々と過ぎていった。


◇


やがて、登校してくる生徒たちの姿が見え始める。

朝の教練棟。まだ講義が始まる前の時間帯。

談笑する者、遅刻しそうになって廊下を走る者、眠そうに目を擦る者。

当たり前の日常風景のなか、誰一人として日陰に佇むカナリアには気づかない。


カナリアは少しだけ考え込み――そして、開き直ったように「にこり」と愛想笑いを浮かべた。


「おーい」


もちろん声は届かない。

それでも彼女は両手を大きく振り、親しみやすくアピールしてみせる。


――その時、近くを通りかかった生徒のひとりが、ふと日陰の方へと視線を向けた。

しっかりと目が合う。


その瞬間、生徒は驚きで目を丸くした。


薄暗い日陰に浮かぶ、半透明の森の民。

美しい金の髪。

儚げに透ける影。

そして――なぜか満面の笑み。


視線に気づいたカナリアは、条件反射でさらにぶんぶんと手を振り重ねた。


「あ、気づいたー?」


当然、声は届いていない。


生徒は怯えと好奇心が混ざり合った表情で、恐る恐るカナリアへと近づいてくる。

その異変に気づいた周りの生徒たちも集まり始め、周囲は一気にざわめき立った。

だが、音のない世界にいるカナリアには、何ひとつ聞こえない。


やがて、おそるおそる手を伸ばしてきた生徒の一人が、カナリアの服の裾へ指先を触れさせた。


「あ、たぶん触れないと思うよー」


カナリアがそう言おうとした――次の瞬間。


世界が、パリンと弾けるように壊れた。


眩い光。

視界を覆う強烈な暗転。


「あっ……!」


カナリアの身体は、教練棟の廊下から完全に掻き消えた。


◇


突然目の前で消え去った影に、残された生徒たちは顔を見合わせる。


「……消えた」


彼らはそう言ったはずだった。

音の届かない世界の外側で。


――その日から。


教練棟で度々目撃されることになる“森の民の幽霊”の噂は、生徒たちの間で瞬く間に広がっていくことになる。


・人を見かけると、愛想よく微笑みかけてくる。

・手招きするように手を振ってくる。

・だが、近づいて触れようとすると、一瞬で消え去ってしまう。


噂だけがひとり歩きしていく中で――誰も知る由はなかった。


その哀しい幽霊の正体が。

ただ自力で帰れなくなり、必死に助けを求めていただけのカナリア本人だったということを。

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