↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
96/108

森の影と割れた水時計 戻る門に走る影

Day0夜・教練棟

夜。

澄んだ夜空に青白い月が浮かんでいる。

ベイルスレイブ冒険者協会育成校・教練棟。

昼間の喧騒は嘘のように、人気は全くなかった。


ミナトは演習場の中央に呆然と立ち尽くしていた。

その腕の中にはニーコスが抱きかかえられていた。


――ふたりの身体は、うっすらと薄かった。

夜の闇と月明かりに溶け込むように、輪郭がわずかに透けている。


「……」


(夜……夜だよな、それに、倉庫の前じゃなかったか?ここどこだ……)


「わぁ……」


ニーコスは自分の手を顔の前にかざし、感嘆の声を漏らした。

掌を月光にかざすと、その光が身体を通り抜けて地面に落ちている。


「綺麗」


「綺麗じゃない」

(う、思わず出た、だが、綺麗とかの前にあるだろ!そうか、この緩い感じはニーコスだからだ、うん、そう思おう。そうすれば、突っ込みの数を減らせるはずだ。そして、まずは、この透けた体が何なのか、おい、勝手に行くなニーコス!、あ、ここ、中庭だ。あっちが教練棟……)


ミナトは眉をひそめ、近くの石壁に手を押し当てた。

――押せる。

足元の地面を踏みしめる。

――踏める。しっかりとした踏み応えがあり、重力も正常に働いている。


だが……決定的に異常だった。

耳がおかしい。世界から、一切の「音」が消失していた。


(聞こえない……。風の音も、自分の足音も、虫の声すら……何もない。いや、ニーコスどこに行くんだ!)


音のない世界。

だが、なぜか隣にいるニーコスの言葉だけは、脳内に直接届くように理解できた。


「不思議だねぇ」


(聞こえ……る?ニーコスの声だけ近くに聞こえる??、そこそこ離れているよな)


「どうなってるんだ……」


混乱を抑え込もうと、ミナトは教練棟の壁に設置された大きな大時計へと視線を向けた。


文字盤の針。

日付を示す小窓。

曜日を示すプレート。


それらを視認した瞬間、ミナトの喉がごくりと一度だけ鳴った。

背筋に走る冷や汗とともに、両肩が強く強張る。


「……は?」


(いや待て、曜日時計が水曜日を指している、そんなことあるのか、なんでだ、故障か?いたずらか?時刻は21時、夜で当たり前だ。そらの暗さと時刻は合っている、だが……)


――二日前。


時計が示していたのは、自分たちが今いたはずの金曜日の朝ではなく、「二日前の夜」だった。


「水曜日の夜だね〜。一日ズレたよ」


ミナトの視線が定まらないまま泳ぐ。

パニックに近い動揺に襲われ、彼は不意にニーコスの華奢な手を強く掴み寄せた。思わずぐっと距離を詰める。


「朝だった……! 俺たち、さっきまで金曜の朝にいただろ!?つまり、二日だ!いや、正確には一日半だ、なんだこれ!!!」


「うん」


「なんで夜なんだよ……! 二日も戻ってる上に、時間まで飛んでるだろ!?」


「分からない」


ニーコスはまったく困った様子もなく、のんびりとした調子で答える。

そのあまりにもマイペースな態度が、今のミナトにはかえって底知れぬ不安を煽った。


(おかしい……絶対におかしいだろ!!)

(あの遺物か? 遺物のせいで時間が飛んだのか!?)

(いや戻ったっていうのはほんとか?進んでないのか?実は、五日後の夜とか)

(二日前か五日後……? 俺たち、元の時間に……戻れるのか?)


「とにかく、ここを出よう」


二人は教練棟の外を目指して走り出した。

敷地の境界を示す門をくぐり、外の通りへ出ようとする。


――だが。


門を跨いだはずの次の瞬間、視界がわずかにブレ、気づけば二人は門の内側へと引き戻されていた。


「あれ?」


「……っ」


もう一度、門に向かって走る。

――同じ。跨いだ瞬間に内側へ巻き戻る。

三度試す。

――結果はまったく同じだった。


夏の冷たい夜風が吹き抜けているはずだった。

しかし、音のない世界では風の揺らぎすら伝わってこない。

ただ、不気味な静寂だけが世界を支配していた。


ミナトは生きてきた中で初めて、本気の、そして背筋が凍りつくような『嫌な予感』を覚えるのだった。


◇


夜。

ベイルスレイブ冒険者協会育成校・教練棟。

月光だけが、静もり返った石造りの床を青白く照らしている。

相変わらず音はなく、風も届かない。世界と自分の間に、薄い膜を一枚挟み込まれたかのような全き静寂。


敷地の門から出られないことを確認したミナトとニーコスは、やむなく再び教練棟の内部へと足を進めていた。


「……」


「困ったねぇ」


言葉では「困った」と口にしているものの、ニーコスの表情には焦りの色ひとつ浮かんできていない。いつも通りの、どこか呑気で穏やかな顔つきのままだ。


(なんでそんなに普通なんだ……? いや、普通じゃない状況なのは分かってるはずだろ。なんでそんなに平気そうなんだ……)

(……パニくってるのは、俺だけか?)

ふと、ニーコスの手がせわしなく握られたり開いたりしているのを見た。

よく見るとニーコスの目もいろいろと動いている。


(……そうか、ニーコスも不安なんだな。俺だけじゃない。落ち着け俺、こういう時は、数えるんだ、そうだ、最近学んだ関数の説明を考えるんだそうすれば、落ち着く……)



ミナトが一人で焦燥感を沈めていた、その時だった。


「あ」


ニーコスがぽつりと声を漏らし、視線を演習場の奥へと向けた。

そこには、誰かが立っていた。


全身を包む黒い影。

人型の輪郭だけが、水面に揺れる月影のようにゆらゆらと歪んでいる。


「……またか」


二人は一瞬だけ顔を見合わせると、頷き合い、その影に向かって駆け出した。


黒い影は演習場に整然と並べられた触媒棚の前で足を止め、何かを確認するように手を素早く動かしている。


「なにしてる……!」


声を張り上げるが、やはりこの世界では声が届かない。

ミナトは回り込むようにして、影の進行方向へと立ちふさがった。


(正体はわからない……だけど、夜の教練場で演習用の触媒に触ってるなんて、どう考えたって普通じゃない!)


視線に気づいたのか、黒い影がゆっくりと振り返る。

相変わらず顔の造作は見えない。


次の瞬間――影の手が動いた。

小さなガラス小瓶のようなものを、ミナトに向けて鋭く投げつけてくる。


「っ……!」


ミナトは反射的に腕を交差させ、身構えた。

――しかし。


放たれた液体は、ミナトの半透明な身体をそのままスーッと通り抜けていった。

衝撃も、濡れた感触すら一切ない。

液体はそのままミナトを透過し、背後の棚に置かれていた予備の触媒へと降り注ぐ。


ジジュジュ……と音もなく、触媒がどろりと禍々しい黒に汚染されていく。


「……え?」


あまりの現象に、ミナトの思考が完全にフリーズした。


(液体はすり抜けるのに……なんで俺たちは壁や床をすり抜けないんだ?? どういう物理法則だ!?)


ほんの一瞬。真面目すぎるがゆえに理屈を考え込んでしまった、そのわずかな思考の停止。

だが、相手にとってはそれで十分だった。

黒い影は隙を逃さず、滑るような足取りで闇の奥へと疾走する。


「逃げた」


「追うぞ……っ!」


思考を強引に切り替え、二人は影を追って奔走する。


静まり返った廊下。

暗がりが伸びる階段。

曲がり角を幾度も折れる。

前方を走る影は一度たりとも振り返らない。


――だが。

教練棟の中央付近に差し掛かったその時、影は唐突に足を止め、振り返った。


影の手がすっと高く掲げられる。

次の瞬間、指先から刺すような紫色の閃光が奔った。

糸のように細い、だが闇を裂くほど異様に鮮烈な一閃。


「!」


「わっ」


回避する間もなく、紫の光線がミナトとニーコスの二人を真っ直ぐに貫いた。

痛みはない。衝撃もない。

ただ――世界そのものが、グラリと大きく揺らぐ。


(まずい……! これ、さっきの――!)


眩い光。

視界を覆い尽くす暗転。

月光が消え去り、意識が深い闇の底へと沈んでいく。


そして――

ふたりの姿もまた、夜の教練棟から綺麗さっぱりと掻き消えるのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。