森の影と割れた水時計 戻る門に走る影
Day0夜・教練棟
夜。
澄んだ夜空に青白い月が浮かんでいる。
ベイルスレイブ冒険者協会育成校・教練棟。
昼間の喧騒は嘘のように、人気は全くなかった。
ミナトは演習場の中央に呆然と立ち尽くしていた。
その腕の中にはニーコスが抱きかかえられていた。
――ふたりの身体は、うっすらと薄かった。
夜の闇と月明かりに溶け込むように、輪郭がわずかに透けている。
「……」
(夜……夜だよな、それに、倉庫の前じゃなかったか?ここどこだ……)
「わぁ……」
ニーコスは自分の手を顔の前にかざし、感嘆の声を漏らした。
掌を月光にかざすと、その光が身体を通り抜けて地面に落ちている。
「綺麗」
「綺麗じゃない」
(う、思わず出た、だが、綺麗とかの前にあるだろ!そうか、この緩い感じはニーコスだからだ、うん、そう思おう。そうすれば、突っ込みの数を減らせるはずだ。そして、まずは、この透けた体が何なのか、おい、勝手に行くなニーコス!、あ、ここ、中庭だ。あっちが教練棟……)
ミナトは眉をひそめ、近くの石壁に手を押し当てた。
――押せる。
足元の地面を踏みしめる。
――踏める。しっかりとした踏み応えがあり、重力も正常に働いている。
だが……決定的に異常だった。
耳がおかしい。世界から、一切の「音」が消失していた。
(聞こえない……。風の音も、自分の足音も、虫の声すら……何もない。いや、ニーコスどこに行くんだ!)
音のない世界。
だが、なぜか隣にいるニーコスの言葉だけは、脳内に直接届くように理解できた。
「不思議だねぇ」
(聞こえ……る?ニーコスの声だけ近くに聞こえる??、そこそこ離れているよな)
「どうなってるんだ……」
混乱を抑え込もうと、ミナトは教練棟の壁に設置された大きな大時計へと視線を向けた。
文字盤の針。
日付を示す小窓。
曜日を示すプレート。
それらを視認した瞬間、ミナトの喉がごくりと一度だけ鳴った。
背筋に走る冷や汗とともに、両肩が強く強張る。
「……は?」
(いや待て、曜日時計が水曜日を指している、そんなことあるのか、なんでだ、故障か?いたずらか?時刻は21時、夜で当たり前だ。そらの暗さと時刻は合っている、だが……)
――二日前。
時計が示していたのは、自分たちが今いたはずの金曜日の朝ではなく、「二日前の夜」だった。
「水曜日の夜だね〜。一日ズレたよ」
ミナトの視線が定まらないまま泳ぐ。
パニックに近い動揺に襲われ、彼は不意にニーコスの華奢な手を強く掴み寄せた。思わずぐっと距離を詰める。
「朝だった……! 俺たち、さっきまで金曜の朝にいただろ!?つまり、二日だ!いや、正確には一日半だ、なんだこれ!!!」
「うん」
「なんで夜なんだよ……! 二日も戻ってる上に、時間まで飛んでるだろ!?」
「分からない」
ニーコスはまったく困った様子もなく、のんびりとした調子で答える。
そのあまりにもマイペースな態度が、今のミナトにはかえって底知れぬ不安を煽った。
(おかしい……絶対におかしいだろ!!)
(あの遺物か? 遺物のせいで時間が飛んだのか!?)
(いや戻ったっていうのはほんとか?進んでないのか?実は、五日後の夜とか)
(二日前か五日後……? 俺たち、元の時間に……戻れるのか?)
「とにかく、ここを出よう」
二人は教練棟の外を目指して走り出した。
敷地の境界を示す門をくぐり、外の通りへ出ようとする。
――だが。
門を跨いだはずの次の瞬間、視界がわずかにブレ、気づけば二人は門の内側へと引き戻されていた。
「あれ?」
「……っ」
もう一度、門に向かって走る。
――同じ。跨いだ瞬間に内側へ巻き戻る。
三度試す。
――結果はまったく同じだった。
夏の冷たい夜風が吹き抜けているはずだった。
しかし、音のない世界では風の揺らぎすら伝わってこない。
ただ、不気味な静寂だけが世界を支配していた。
ミナトは生きてきた中で初めて、本気の、そして背筋が凍りつくような『嫌な予感』を覚えるのだった。
◇
夜。
ベイルスレイブ冒険者協会育成校・教練棟。
月光だけが、静もり返った石造りの床を青白く照らしている。
相変わらず音はなく、風も届かない。世界と自分の間に、薄い膜を一枚挟み込まれたかのような全き静寂。
敷地の門から出られないことを確認したミナトとニーコスは、やむなく再び教練棟の内部へと足を進めていた。
「……」
「困ったねぇ」
言葉では「困った」と口にしているものの、ニーコスの表情には焦りの色ひとつ浮かんできていない。いつも通りの、どこか呑気で穏やかな顔つきのままだ。
(なんでそんなに普通なんだ……? いや、普通じゃない状況なのは分かってるはずだろ。なんでそんなに平気そうなんだ……)
(……パニくってるのは、俺だけか?)
ふと、ニーコスの手がせわしなく握られたり開いたりしているのを見た。
よく見るとニーコスの目もいろいろと動いている。
(……そうか、ニーコスも不安なんだな。俺だけじゃない。落ち着け俺、こういう時は、数えるんだ、そうだ、最近学んだ関数の説明を考えるんだそうすれば、落ち着く……)
ミナトが一人で焦燥感を沈めていた、その時だった。
「あ」
ニーコスがぽつりと声を漏らし、視線を演習場の奥へと向けた。
そこには、誰かが立っていた。
全身を包む黒い影。
人型の輪郭だけが、水面に揺れる月影のようにゆらゆらと歪んでいる。
「……またか」
二人は一瞬だけ顔を見合わせると、頷き合い、その影に向かって駆け出した。
黒い影は演習場に整然と並べられた触媒棚の前で足を止め、何かを確認するように手を素早く動かしている。
「なにしてる……!」
声を張り上げるが、やはりこの世界では声が届かない。
ミナトは回り込むようにして、影の進行方向へと立ちふさがった。
(正体はわからない……だけど、夜の教練場で演習用の触媒に触ってるなんて、どう考えたって普通じゃない!)
視線に気づいたのか、黒い影がゆっくりと振り返る。
相変わらず顔の造作は見えない。
次の瞬間――影の手が動いた。
小さなガラス小瓶のようなものを、ミナトに向けて鋭く投げつけてくる。
「っ……!」
ミナトは反射的に腕を交差させ、身構えた。
――しかし。
放たれた液体は、ミナトの半透明な身体をそのままスーッと通り抜けていった。
衝撃も、濡れた感触すら一切ない。
液体はそのままミナトを透過し、背後の棚に置かれていた予備の触媒へと降り注ぐ。
ジジュジュ……と音もなく、触媒がどろりと禍々しい黒に汚染されていく。
「……え?」
あまりの現象に、ミナトの思考が完全にフリーズした。
(液体はすり抜けるのに……なんで俺たちは壁や床をすり抜けないんだ?? どういう物理法則だ!?)
ほんの一瞬。真面目すぎるがゆえに理屈を考え込んでしまった、そのわずかな思考の停止。
だが、相手にとってはそれで十分だった。
黒い影は隙を逃さず、滑るような足取りで闇の奥へと疾走する。
「逃げた」
「追うぞ……っ!」
思考を強引に切り替え、二人は影を追って奔走する。
静まり返った廊下。
暗がりが伸びる階段。
曲がり角を幾度も折れる。
前方を走る影は一度たりとも振り返らない。
――だが。
教練棟の中央付近に差し掛かったその時、影は唐突に足を止め、振り返った。
影の手がすっと高く掲げられる。
次の瞬間、指先から刺すような紫色の閃光が奔った。
糸のように細い、だが闇を裂くほど異様に鮮烈な一閃。
「!」
「わっ」
回避する間もなく、紫の光線がミナトとニーコスの二人を真っ直ぐに貫いた。
痛みはない。衝撃もない。
ただ――世界そのものが、グラリと大きく揺らぐ。
(まずい……! これ、さっきの――!)
眩い光。
視界を覆い尽くす暗転。
月光が消え去り、意識が深い闇の底へと沈んでいく。
そして――
ふたりの姿もまた、夜の教練棟から綺麗さっぱりと掻き消えるのだった。




