森の影と割れた水時計 さかさまの水時計
朝・遺物保管庫(内部~入口)
ミナトとニーコスがここに辿り着く、数分前。
遺物保管庫の前。
暗がりの中で、カナリアは静かに扉を開けていた。
二日前。
自分の不気味な影を追った後、確かに鍵を閉めたはずの保管庫。
だが今朝になり、気になって改めて確認しに来た彼女は、内部の空気がかすかに変質しているのを肌で感じ取っていた。
「……やっぱり、起動してる」
薄暗い棚の中央。
そこに安置されていたのは、ひとつの古い水時計だった。
側面に刻まれた、見覚えのある繊細な刻印。
「師匠……」
カナリアは吸い寄せられるように水時計へ近づいた。
「なんで……こんな所にあるのよ」
困惑と懐かしさが混ざり合った吐息とともに、指先がそっと滑らかな側面に触れる。
ほんのわずか――確認のために魔力を通した、その瞬間だった。
――コポッ。
水時計の中を満たしていた水が、重力に逆らうように逆流を始める。
「え……?」
急速に周囲の空気が圧縮されていく。
眩い光。
異様な沈黙。
世界全体が一拍だけ遅れたような強烈な違和感。
耳の奥で、何かがパリンと割れる音と、激しく水が飛び散るような音が聞こえた気がした。
◇
同時刻。
保管庫の外。
違和感を覚えたニーコスが、開いていた扉のノブへと手を掛ける。
「入るよー?」
ギィ……と重い音を立てて、扉が開く。
――その瞬間。
保管庫の暗がりの中から、言葉を失うほどの奔流のような光が溢れ出した。
「ニーコスっ!!」
景色が歪む。
爽やかだった夏の朝の光景が、まるで熱で溶けたガラスのようにグニャリと引き伸ばされていく。溢れ出る光が幾本もの鋭い線となって視界を覆い尽くした。
(まずい、魔法……!? いや、違う……見たこともない術式だ! なんだこれ、遺物か!?
ニーコスが巻き込まれる、ダメだ!)
「わぁ……」
呑気な感嘆を漏らすニーコスへ、ミナトは反射的に手を伸ばし、その腕を強引に掴み寄せた。
次の瞬間――。
世界という器が、パリンと派手な音を立てて砕け散る。
あらゆる音が消え去り、濁流のような光だけが残された。
そして――
世界は、静かに二日前へと沈んでいった。
◇
Day0朝・遺物保管庫
暗い。
光がない。
音もない。
重い沈黙の中で、カナリアはゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた遺物保管庫の風景だ。整然と並ぶ棚、厳重に施錠された箱、魔力を抑え込む封印布。
間違いなく、自分が今いたはずの場所。
――だが、何かが決定的におかしい。
「……?」
ゆっくりと立ち上がる。
だが、床を打つはずの自分の足音が聞こえない。息を漏らす声すら、どこか遠い。
違和感に眉をひそめ、自分の金の髪を指先で摘まんでみる。
感触が、異様なほど薄い。
そればかりか、視線を落とすと、自分の身体がうっすらと半透明に透けていた。驚いてスカートの生地を掴もうと指を動かすが、まるで空気を撫でるように滑って掴めない。上着の裾すら、手応えがなかった。
「え……?」
焦りを覚えて扉へ向かい、ノブに手を伸ばす。
指先は確かに取っ手を握ることができた。
――だが、開かない。
鍵が掛かっているわけでもないのに、扉はまるで壁の一部にでもなったかのようにピクリとも動かなかった。
「えぇ……」
本格的な困惑がカナリアを襲う。
窓のない部屋では時間の経過すら分からず、外の様子も一切窺い知ることができない。
打開策もないまま、半透明の身体で保管庫の中をうろうろと彷徨う。
――すると。
ギィ……と音を立てて、唐突に扉が開いた。
「!」
反射的に、カナリアは近くの棚の影へと身を隠した。
息を殺して入ってきた人物を凝視し――そのまま完全に固まった。
「え? ……私?」
そこに立っていたのは、間違いなくカナリア自身だった。
いつもの自分。いつもの服。いつもの軽やかな歩き方。
(え……? 私? なんで……? 今、私が着てる服とまったく同じ……)
入ってきた「カナリア」は、棚に置かれた「森の石板」へと一直線に向かうと、慣れた手つきで内容を確認した。
そして何事もなかったかのように石板を手に取ると、そのまま保管庫を出て行ってしまう。
パタン、と扉が閉まる。
――しかし。
施錠されるガチャリという音は、ついに響かなかった。
「……」
重い沈黙。
「うわぁ……」
棚の影から這い出たカナリアは、自分の情けなさにうなだれた。
「遺物保管庫の鍵、閉め忘れてたんだ……私」
片手でペチッと額を押さえ、深いため息を吐く。
「はぁ……」
そこまで思案して――ふと、彼女の動きが止まった。
「……待って」
肩がぴたりと硬直する。
「今の……『私』だったよね? 『今の私』より、少し前の私……」
ということは、これ――。
ピクリと、長い耳が跳ね上がる。
「……タイムリープしてる!?」
引き攣った笑みが口元に浮かぶ。
視線が、棚の中央に鎮座するあの古い水時計へと向けられた。
「これ……師匠の魔道具だ……。なんでこんな所にあるのよ。あの人、もうここに忘れ物なんて無いって言ってたじゃない……!」
もちろん、返事など返ってくるはずもない。
カナリアは絶望的な表情で、保管庫の天井を仰ぎ見た。
「絶対忘れていってるでしょ、あの人……っ!」
◇
Day0朝・遺物保管庫
どれくらいの時間が経ったのかすら分からない。
音のない世界。時間の経過を教えてくれる時計もない。
だが――静寂を破り、再び扉が開いた。
「!」
カナリアは息を殺し、即座に身を潜めた。
今度入ってきたのは、見覚えのない人物――いや、「存在」だった。
黒い影。人の輪郭だけを象り、顔の造作すら一切読み取れない。
影は足音を殺して慎重に保管庫へと侵入すると、棚に並ぶ遺物へと近づいていく。あらかじめ目的が決まっているかのように、何かを探し求めていた。
(誰……!? 教官じゃない……職員でもない。小さい……? 女性の体躯……?)
カナリアは棚の隙間から必死に目を凝らした。
だが、いくら焦点を合わせようとしても正体が掴めない。相手の輪郭そのものが、まるで水面に映る影のようにゆらゆらと揺れている。
(違う……これ、高度な認識阻害だ! しかも相当強い……変身術の領域に近い……!)
そんなカナリアの戦慄を余所に、黒い影は一切の迷いなく遺物へと触れていく。
壁の刻印、古い石板、そして問題のあの水時計――。手慣れた様子で順々に調べていく。
――その時だった。
保管庫の最奥の隅。
黒い影の背後、闇の領域で何かが小さく光を放った。
「……?」
うっすらと。
本当にうっすらとだが、これまで見たこともない別の遺物が青白い光を帯びて輝いている。
(あれ……? あんな遺物、うちの保管庫にあったっけ……?)
違和感を覚えたカナリアは、半透明の身体をさらに乗り出し、凝視しようとした。
――だが。
黒い影がすっと動き、カナリアの視界を塞ぐように間に立ちふさがる。
次の瞬間。
視界のすべてが重い闇へと呑まれ、世界は完全に暗転した。




