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森の影と割れた水時計 不穏の足音:偽りの姿

夜・教練棟・廊下

夜。

ベイルスレイブ冒険者協会育成校。

昼間の熱気がまだほのかに石造りの壁に残っているものの、谷間を吹き抜けてくる夜風は肌寒さを覚えるほど冷たかった。


静まり返った教練棟の廊下を、今夜の宿直担当であるカナリアがゆっくりと歩いている。

肩からさらりと落ちる長く艶やかな金髪。その隙間から覗く長い耳と、白磁のような肌。森の人らしいしなやかで足音を感じさせない歩調で歩くたび、夏の冷ややかな夜気を受けて金の髪がふわりと揺れた。


先日の事件を受けて、教練棟の警備は大幅に強化されている。


・実習室からの触媒盗難と汚染。

・中級位階者である宿直職員の襲撃。

・そして、廊下を徘徊する『森の民の影』。


尾ひれのついた不気味な噂だけが、生徒たちの間で急速に広がっていた。


「うーん……」


カナリアは歩みを止め、手元に抱えた記録板に目を落とす。

――異常なし。

――異常なし。

――異常なし。


整然と並んだ文字を確認し、彼女は小さくため息をついた。


「異常がないのが一番なんだけどね……。こういう時は、もう一回足跡をなぞって見落としを探すしかないかぁ」


記録板を抱え直し、廊下の角を折れる。


――その時だった。


廊下の深い奥、月光の届かない闇の領域に、ひとつの人影が佇んでいた。


華奢で細い身体。

すっと伸びた長い耳。

そして、暗闇の中でも微かに光を反射する、鮮やかな金の髪。


「……え?」


カナリアの視線が、釘付けになる。

闇の中の影もまた、その場でピタリと動きを止めた。

まるで、精巧な鏡でも覗き込んでいるかのような錯覚。


「私……?」


カナリアが呆然と呟いた瞬間――。

闇の中の「自分」は、唇を歪めてにんまりと不気味に笑った。


そして、手招きをするように指先をくいくいと動かすと、くるりと踵を返す。

まるで空気そのものが滑るように、音もなく闇の奥へと走り出していった。


◇


夜・教練棟~遺物保管庫


カナリアが追う。

静まり返った教練棟の廊下を駆け抜け、階段を跳ぶように駆け上がり、長い渡り廊下へと飛び出す。

窓から差し込む青白い月明かり。谷間から吹き抜ける冷たい夏の夜風が、彼女の金をなびかせる。


だが、前方を滑るように走る影は、一度たりとも振り返らない。ただ一直線に、校舎のさらなる奥へと進んでいく。


「ちょっと待ちなさい……っ!」


声を張り上げるが、もちろん返事などない。

脚力には自信のあるカナリアだったが、どれだけ速度を上げても距離が縮まりそうで縮まらない。まるで相手は追われることすらあらかじめ織り込んで、巧みに間合いをコントロールしているかのようだった。


やがて影は、校舎の最深部――重々しい雰囲気を纏う一角へと吸い込まれるように消えた。


遺物保管庫。

学校で回収・管理している危険な魔導具や古い文献が収められており、普段は近づく学生すらほとんどいない場所だ。


「こんなところに……?」


カナリアは保管庫の前で足を止め、荒くなった息を整えた。

慎重に視線を巡らせ、重厚な石造りの部屋と廊下を見回す。


――誰もいない。

自分と同じ姿をしたあの不気味な影も、どこにも見当たらなかった。足音の残滓も、魔力の気配すらきれいに途絶えている。


「消えた……?」


狐につままれたような心地で首をかしげた、その時だった。

カナリアの視線が、保管庫の重厚な扉へと向けられる。


「……あれ?」


無意識に違和感を覚え、近づいてノブに触れる。

――鍵が、開いている。


昨日、見回り業務でここを訪れた時は、間違いなく施錠されていたはずだった。


静かな室内と廊下の間に、僅かな沈黙が降り積もる。

ヒュッと冷たい夜風が通り抜けていった。


(……ジンに言う?)

(いやでも、今からわざわざ寝ているジンを起こすほどのこと? 影を見失っただけだし……)

(でも、開いていたのはよりによって遺物保管庫だしなぁ……)

(うーん……)


額に手を当て、カナリアはしばし真剣に迷った。

少しだけ頭を悩ませたものの、結局――「大ごとにして違ったら恥ずかしい」という気楽さが上回る。まずは自分でできる対処を優先することにした。


「とりあえず、閉めよ」


腰に下げていたマスターキーを取り出し、ガチャリと鍵を回す。

念のため、ドアノブをガチャガチャと引っ張って確認。さらにもう一回、念を入れて確認。


よし、問題なし。しっかりと施錠されている。


「ん、これでよし」


カナリアはパンパンと手を叩いて納得すると、何事もなかったかのようにくるりと振り返り、再び宿直室のある廊下へと戻っていくのだった。


◇


宿宿室。

木製の素朴な机の上に、一冊の記録帳が開かれている。

油灯(ゆとう)の控えめな炎が静かに揺れ、壁にほの暗い影を落としていた。


窓の外からは、冷えてきた谷の夜気に混じって、夏虫の鳴き声が途切れ途切れに聞こえてくる。

どこまでも平穏で、静かな夏の夜だった。


カナリアはギシと音を立てて椅子に腰掛け、卓上の羽根筆を手に取った。

インクを浸しながら一瞬だけ迷うように筆先を浮かせたが、やがてそのままサラサラと紙の上に文字を滑らせていく。


「遺物保管庫の鍵が開いていた」

「自分に酷似した森の民の影を確認」

「追跡したが見失う」

「保管庫施錠済み」


一通り書き終えると、ふうと息を吹きかけてインクを乾かし、そっと筆を置いた。


「……ん、これでいいかな」


背もたれに深く寄りかかり、ふと窓の外へと視線を向ける。

静寂に包まれた学舎の夜は、何ひとつ変わることなくそこにある。ひんやりとした夜風が、開けた窓から入ってきて彼女の金の髪をかすかに揺らした。


――だが。

カナリアは保管庫の奥にあった違和感を思い出せずにいた。


本当に重要だったのは、鍵が開いていた保管庫の管理ミスでも、

自分に酷似した不気味な影の正体でもなく。


その厳重に閉じられた闇の中に眠っていた、

『ひとつの遺物』の異変だったということを。


嵐の前のみせかけの平穏の中、夏の夜は静かに、何事もなかったかのように過ぎていく。


宿直室に静かな寝息と共に話し声が聞こえる。

「リュミ様、10年位のんびりしましょお〜よ……だめです、またガラクタを買ってぇ……捨てて下さいよぉ〜」

カナリアはかつて共に旅をした師、リュミエールの夢を見ていた。


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