一時名流:属性統合 幽霊騒動とカナリア
夜・静まり返った教練棟
夜。完全に静まり返った教練棟。
高い窓から差し込む冷たい月光のなかを、実体のない不気味な『影』が、音もなく彷徨っていた。それはまるで意志を持つ生き物のように、何かを貪欲に、執拗に探し求めている。
たまたま見回りに訪れた宿直の職員が、廊下の奥に漂うその異様な気配に気づいた。
「……誰だっ!?」
職員は咄嗟に武器を構え、対応しようとする。影はじたばたと動き回り始める。
職員は、逃げ道をふさぐように立ち回り、影に対して警棒を振りかざし、警告を発しようとした────
だが──。
侵入者を排除せんとした瞬間、目の前の影が爆発的に膨れ上がった。
言葉にできない悍ましい不浄の圧力が一気に溢れ出し、職員は悲鳴をあげることすら許されず、激しい精神汚染によって脳の機能を狂わされ、その場に崩れ落ちるようにして完全に気絶させられた。
◇
次の日の朝。
教練棟の廊下には、未だ「森の民」の形を模した影のような魔力の残滓が、薄く、頼りなげに彷徨っていた。その影は、通りかかった人間と目が合うと、まるでただの幻影であるかのように愛想よく笑って手を振ったりするのだという。
だが、事態は牧歌的な幽霊騒動などではなかった。
実習室の奥──昨日、ミナトたちA班が統合授業で使ったばかりの触媒と実験機材が、どろりとした正体不明の未知の粘液によって、不自然に汚染されているのが発見されたのだった。
その後、教練棟の執務室
教練棟の一室。
触媒の異常な汚染、そして中級位階者である宿直の職員が容易く無力化され気絶させられた事件。その生々しい報告書を机に挟み、森の人の女性──カナリアと、ジンが向かい合っていた。二人の表情は一様に険しい。
「構築系と発動系を綺麗に混ぜた感じの魔法だね、これは」
カナリアはさらりと肩から落ちる美しい金の髪を揺らしながら、報告書の記述に指を這わせた。
「影を出すことに関しては、同じことをやろうと思えば私にだってできるけど……。流石に、警護宿直さんを一瞬で気絶させるなんて事は、私には無理かなぁ」
「誰もお前を疑っちゃいねぇよ……」
ジンは腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔で低く応じる。
「それより、例の石板との関係はどうだ? 何か心当たりはないのか?」
「うーん……」
カナリアがジンの方を振り向くと、その鮮やかな金の髪がふわりと宙に舞った。
「なんだか、いかにも『関連がありそう』に見えるよう、意図的に誘導されている感じがする。それに、実習室からは一部の触媒が減っているらしいじゃない? 触媒を盗んだ。触媒を汚染した。建物を徘徊した。宿直を気絶させた。……これ、全部ひとりの仕業? じゃない気がするのよね、石板の文字はほんとにわからない。師匠を捕まえたい……」
「……どういうことだ?」
ジンの目が鋭く細まる。
「盗んだ奴と汚染した奴が同じで、宿直を気絶させた奴も同格のプロか。で、徘徊していた影だけが別枠だと?」
長い耳を立てて遠くを睨んでいたカナリアはぱちくりと目を見開いて、振り向いてジンを見つめた。
「……あら、なんだかしっくりくるね。でも、どうしてそう思うの?」
「勘、って言いたいところだがな。今朝見かけられたっていう、その『森の民の影』の目撃談だ。触れたらあっけなく消えたって言うじゃないか。なら、なぜ昨晩の宿直は消すことができずに、逆に気絶させられた? って話になる。もし触媒の窃盗が目当てなら、朝までそんな無害な影を居座らせる必要がないだろ。……気絶させたのは、まだ自分の『仕事』が終わっていなかったからだ。でもって仕事が終わった後、居座る必要はねぇ」
ジンの冷徹な分析を聞き、カナリアはにこりと意味深な笑みを浮かべた。
「そう……かしら。ふふ、さすがね」
「どっちにしても、今夜から警備は大幅に強化だな。……悪いが、手を貸してくれるか?」
「いいよ。宿直のシフトに私も加わるわ」
カナリアは二つ返事で承諾し、にこりと微笑む。
「すまんな、カナリア。助かる」
「師匠絡みだと、がぜん燃えるわね」
ジンが短く感謝を述べると、カナリアと呼ばれた女性はふわりと艶やかに笑い、そのまま軽やかな足取りで部屋を退出していった。
「それからこれか……」
伝達箱の上に昨日はなかった報告書が乗っているのを見る。そこには火風岩猿の文字があった。
終わったことより、これからの事、とジンはため息をついていた。
触媒の汚染、謎の消失、そして不可解な影の目撃。
この不気味な事件を契機に、教練棟の夜における「幽霊騒動」の噂が、生徒たちの間で急速に囁かれ始めるのだった。




