一時名流:属性統合 数の合わない触媒とひまりの欠席
昼前・教室から廊下へ
午前中の講義が終わり、教室内には昼休みを迎える独特の弛緩した空気が漂い始めていた。
窓の外からは短い夏の盛りの強い日差しが照りつけている。時間が経つにつれて室内の湿り気が奪われ、空気が少しずつ、カサカサと乾いていくのが肌で分かった。
教壇の上で、講義用の触媒が並べられたトレイを片付けていた教官が、ふと手を止めて首を傾げた。
木製の皿の上に残された、いくつかの触媒。そのうちの「一つ」だけが、まるでそこだけ時間が数日進んだかのように、不自然なほどカラカラに乾ききっている。
「……一つ、合わないな」
教官が小さく眉をひそめ、皿を指先で軽く弾いた。
「予定より多く消費したか? 計算が合わん」
「え、誰か余分に使ったんじゃないですか」
近くで片付けを手伝っていた井上琉生が、大して興味もなさそうに、通り一遍の返度を返す。
実習中に誰かが手順を間違えて、触媒を余計に摩耗させてしまうことなど、日常茶飯事だ。今この場にいる全員が、そう深く考えずに納得していた。
触媒の皿が、一つだけ乾いている。
ただ、それだけのこと。誰もそれを深く追いかけようとはしない。「まあ、そういうこともあるか」という、どこにでもある大雑把な空気のなかに、その事実だけが静かに溶けていく。
「……記録は、後で合わせておくか」
教官のぼそりとした呟きと共に、その小さな異常は、事件にすらならず処理された。
昼休み直前。
教室から一斉に溢れ出した生徒たちで、廊下はたちまち賑やかな人の流れに満たされていく。
外のグラウンドは眩しいほどの夏の日差しに焼かれているというのに、この古い石造りの廊下だけは、妙にひんやりとした空気が足元から這い上がってきていた。まるで、同じ建物の中で世界の温度がぱっきりと割れてしまっているかのような、奇妙な冷え込みだ。
行き交う人の波の端、喧騒に紛れるようにして、いくつかの声が耳に届く。
「今日も、ひまり休んでるのかな?」
教科書を抱えた佐藤新が、ふと隣を歩く渡辺陸斗に視線を向けた。
「あいつ、ここに参加するようになってから休みがちになったよな」
陸斗は特に気にする風でもなく、前を向いたまま肩をすくめる。
「昨日、食堂で見かけたときは元気そうだったんだけどなぁ……」
新の言葉も、ざわざわとした生徒たちの雑談のなかにあっさりと消えていく。
誰の足も止まらない。噂はただの噂として、乾いた廊下の風に流されていくだけだ。
誰も大騒ぎはしない。明確な事件が起きているわけでもない。
けれど。
数合わない触媒の皿、昨日は元気だったはずの少女の欠席、そして、夏なのにどこか冷え切った廊下の空気――。
日常の薄皮一枚の下で、形にならない『薄い違和感』だけが、静かに、確実に積もり始めていた。
◇
昼・水場の近くにて
昼休み。ジリジリと照りつける夏の太陽を避けるようにして、生徒たちは水場の近くへと集まっていた。
周囲が弁当を広げて賑やかに談笑するなか、ミナトは日陰の壁に背を預けたまま、頑なに座ろうとはしなかった。視線の先にあるのは、講義で使うための、空の器だ。
指先一つ触れようとはしない。だが、目はその器の輪郭を呪わしいものを見るように凝視し続けている。
異様に、喉が渇いた。
じっと突っ立っているだけなので汗が出ているわけでもないのに、なぜか、身体の奥底から水だけを激しく欲していた。渇きが、焦燥をさらに煽り立てる。
「大丈夫、大丈夫!」
そんな重苦しい空気を吹き飛ばすように、さやかが弾んだ声でミナトの顔を覗き込んできた。
「ほら、ミナトくんって、頭でちゃんと『考えたら分かる人』じゃん! だから次はやれるよ!」
「……考えても割れる」
ミナトは器から目を離さないまま、低く応じる。
「しかも、さっきも言った通り、俺だけ割れ方が違うんだ」
理屈で詰めようとすればするほど、混ざる手前で術式が木っ端微塵になる。その原因が分からないからこそ、こうして泥沼に嵌まり込んでいるのだ。
「むー……。ランドも、なんか言ってあげてよ!」
自分の励ましが届かないのを見て取ったさやかが、近くで暢気にパンを齧っていたランドの背中をパシッと叩いた。
「あん? いや、うん。……苦手なものは、誰にでもある」
口の周りにパン屑をつけたまま、ランドは親指を立ててみせる。
「よし、良いこと言った!」
「……」
さやかは言葉もなく、あからさまに「役に立たない男だ」と言いたげなジト目をランドへと向けた。
その騒がしいやり取りから少し離れた日陰の境界線。
リーンが、いつものように口を挟むことなく、静かに佇んでいた。
声をかけるでも、慰めるでもない。ただ、視線をじっとミナトの固く握られた手元へと注ぎ続けている。その静寂な見守りだけが、今のミナトにとっては唯一、現実の輪郭を繋ぎ止める錨のようだった。
ミナトは再び、器の縁を見つめる。
不意に目を見開き、肺の中の息を一つ、ぴたりと止めた。
(……ダメだ。何度頭の中でシミュレーションしても、ダメだ)
脳裏に浮かぶのは、パリンと無残に砕け散る自らの術式の残骸ばかり。
(これ、なんでランドたちは『混ざるところ』まで行けるんだ? その前に、普通は内側から壊れるだろ? おかしい……なんで俺だけ)
じわりと、冷たい汗に似た感覚が背筋を伝う。
(もしかして――俺には、致命的に才能がないのか……!?)
五日間のあの地獄を生き残り、ようやく掴みかけたと思った力。それを全否定されるかのような、底暗い恐怖が首筋を掴む。
(嫌だ。そんな都合のいい『苦手』って言葉だけで、片付けたくない……っ!)
噛み締めた奥歯の奥で、ミナトは自分の中に渦巻く異質な拒絶反応の正体を探ろうと、狂おしいほどに思考をぐるぐると回し続けるのだった。
◇
午後・演習場にて
午後。再び集められた屋外演習場は、一日のうちで最も熱気が残る時間帯を迎えていた。
陽だまりに晒され続けた石床は、靴底越しでもはっきりと分かるほど、じんわりと熱を帯びている。
講義の再開を告げる空気のなか、ひまりが少し遅れて演習場へと入ってきた。
体調を崩していたという噂などどこ吹く風、といった様子で、彼女は何事もなかったかのように自らの席へと歩みを進める。
「お、来た」
近くにいた岡田悠真が短く声をかけると、ひまりは軽く片手を上げた。
「……遅れた。ごめん」
抑揚の少ない、いつも通りの静かな声。
だが、実習が再開された直後、周囲の空気は一変した。
あれほど他の生徒たちが苦戦し、パリンパリンと不快な破裂音を響かせていたというのに――ひまりの紡ぐ術式だけは、微塵も“割れない”のだ。
誰もが「混ぜる」手前で拒絶を起こす二つの属性が、彼女の手元ではまるで最初から一つの物質であったかのように、滑らかに融け合っていく。
失敗の音が響き渡る演習場において、その「割れない」という事実そのものが、あまりにも異質に、そして鮮烈に際立っていた。
ミナトのすぐ目の前で、瑞々しく、かつ揺るぎのない『形』が綺麗に立ち上がっていく。
――。
それを見たミナトの瞬きが、一度だけ完全に止まった。
(……なんだ、あれ)
ゆっくりと瞼が戻る。だが、ミナトの視線はひまりの手元で完成された術式の“形の端”を捉えたまま、どうしても離れることができなかった。
自分は触れることすら許されずに砕け散る。なのに、彼女はなぜあんなにも容易く、美しく「それ」を存在させられるのか。
じりじりと肌を焼く午後の熱気のなかで、ミナトのなかの「疑惑」が、大きくなりミナトを追い詰めつつあった。




