森林サバイバル ただいま! おかえりなさいませ
演習場からようやく帰還した、その日の夕方。
使い古された水理邸の玄関扉を開けた瞬間、閉ざされていた空間から、外の冷気を溶かすような温かい空気と、じっくり煮込まれたスープの優しい匂いがふわりと流れ込んできた。
地獄の戦場から、あまりにも遠く隔たった、平穏な日常の匂い。
泥と血にまみれたミナトの姿を視界に収めた瞬間、出迎えたリーンの瞳が微かに揺れる。だが、彼女は取り乱すことなく、静かに、しかし断固とした足取りで歩み寄ってきた。
「その腕、まずは直しましょう」
リーンが細い手をかざすと、彼女の身体がまるで巨大な水滴に浸かったかのような、清廉な水の膜に覆われた。その瑞々しい魔力の膜が波紋のように広がり、ミナトの傷ついた身体を優しく包み込んでいく。
陽子の治癒術で塞がりきっていなかった微細な筋繊維の断裂が、細胞の奥底から完全に融解し、結合していく心地よい感覚。
やがて、淡い水の膜が静かに消え去った。
「リーン……ありがとう。完全に動く」
ミナトが右手の指を何度も握り締め、その確かな感覚を確かめる。あれほど鉛のように重かった腕が、嘘のように軽くなっていた。
「主様、お疲れ様です」
リーンは静かにミナトへ近づき、その汚れきった姿をじっと見つめた。
「……大変香ばしくなられていて、リーンは少し涙目です。まずはお風呂へ。その後、少々……お話合いをさせてください」
いつもの冷静なトーン。目尻を手で拭きながら、そう告げ、ミナトの肩へとそっと添えられた彼女の手は、今、漸く震えが留まったばかりのように、微かに熱を帯びていた。彼女もまた、この五日間、生きた心地がしていなかったのだ。
「……ああっ、わかった……。風呂に行く……」
ミナトは玄関のたたきに力なく座り込み、靴の紐を解きながら小さく呟いた。
言われた通りにボロボロになったシャツの袖口を引き寄せ、その匂いを自分で嗅いでみる。
「そんなにくさいか……?」
泥と、汗と、怪物の返り血が混ざり合った、凄惨な戦場の記憶の匂い。
それを自覚した瞬間、五日間の張り詰めていた緊張と疲労が、文字通り強烈な『重力』となって、ミナトの身体へと容赦なくのしかかってきた。
◇
――かぽーん。
真っ白な湯気がもくもくと立ち上り、優しく心地よい檜の香りが狭い風呂場いっぱいに広がる。
「……生き返る……」
ミナトは浴槽の縁に頭を預け、首までたっぷりと熱い湯に沈みながら、限界まで凝り固まっていた身体を弛緩させた。
「この風呂、こんなに生き返るもんなのか……。……あああぁ……ふぅー……ぶくぶく……」
五日間の泥と、血と、怪物の呪わしい熱量。それら全てが、綺麗に湯の中に溶け出して消えていくような錯覚さえ覚える。あまりの心地よさに、思わず鼻まで湯に浸かって泡を吐き出していた、その時だった。
「主様、お背中を流しましょうか?」
すりガラスの戸の向こうから、いつものように淡々とした、しかし妙に距離の近いリーンの声が響く。
バシャッ!
ミナトは驚愕のあまり、派手に湯飛沫をあげて浴槽の中で跳ね起きた。
「リ、リリリ……リーン!? なんで!? 入ってこようとしてないか!?」
「大変お疲れでしたので、つい……いつもの癖で」
戸の向こうの影は、さも当然といった様子で落ち着き払っている。
「いや、絶対……ないことも……ないのか? ……いや、ないだろ! お前何言って……!」
あまりの疲労に一瞬思考がバグりかけたミナトは、慌てて首を振って自分の正気を取り戻す。
ほんの少しだけ、すりガラスの戸が開いた。リーンは中を覗き込むような真似はせず、目を伏せたまま、そっと新調された清潔なタオルだけを差し出してくる。
「おかえりなさいませ、主様」
その声は、先ほどよりも少しだけ柔らかく、温かかった。
「……おう。ただいま」
ミナトは気恥ずかしさを隠すように、小さく息を吐く。
「そこに、置いておいて」
「わかりました」
リーンはタオルを棚へ置くと、ふっと小さく息を漏らした。
「……残念です」
「何がだよ!」
(間)
「では、食堂でお食事を用意しておりますので。主様のペースでお越しくださいませ」
足音が静かに遠ざかっていく。
再び訪れた静寂の中、ミナトはもう一度、温かい湯の底へと身体を深く沈めた。
――かぽーん。ぶくぶく。
水理邸のいつもの日常が、確かにそこにはあった。
◇
湯上がりの身体を包む、新調された衣服の心地よさ。
食堂に足を踏み入れると、そこは玄関で感じたよりもずっと濃厚な、温かい空気とスープの香ばしい匂いに満ちていた。
リーンはいつも通り、部屋の隅の壁際にすっと背筋を伸ばして控えている。
木目のテーブルの上には、湯気を立てるスープと、丁寧に調理された一人分の食事が美しく並べられていた。
「リーン? 話があるって言ってなかった?」
ミナトは椅子を引き、温かい料理を前にしながら問いかける。
「はい、ございます」
「食べながら聞ける話?」
「はい、左様でございます」
「分かった、聞かせて」
ミナトはスプーンを手に取り、まずはスープを一口、口へと運んだ。五日間の飢えと渇きを癒していく、五臓六腑に染み渡るような優しい味だ。
「では……お話させていただきます。この五日間のことです」
リーンはすっと姿勢を正し、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「主様がいない間、リーンは……退屈でした」
淡々とした、けれど明確な寂しさを孕んだ告白。
「ですが、生還された主様です。そこで、お伺いしたいのです」
そこまで言って、リーンはいつものポーカーフェイスを崩し、ふわりと柔らかく微笑んだ。これからさも楽しい話ができるんだと言わんばかりに。
「ミナト、森は楽しかった?」
「――っ」
スープを飲み込もうとしたミナトの喉が、微かに鳴る。
「さやか嬢とニーコス嬢は、いかがでしたか?」
リーンは微笑みを消し、その深い双眸で、ミナトの目を射抜くようにしっかりと見つめてくる。
そして、すぐにすっと長い睫毛を揺らし、寂しげに目を伏せた。
「……同伴しなくて、よかった?」
――“さやか嬢”、“ニーコス嬢”。
これまではただの名前という名の『音』に過ぎなかった文字列が、あの地獄のような爆炎、叫び、そして必死に繋ぎ止めた命の記憶と共に、急に生々しい体温を帯びてミナトの胸へと落ちてくる。
彼女たちは、自分と共に死線を越えた存在になったのだ。
ミナトの目は見開かれ、その視線は目の前にいるリーンを通り越し、あの不条理に満ちた五日間の戦場――少女たちが泥にまみれて戦っていた光景を見つめていた。
そのまま、ミナトの頬が感情の昂りを示すように少しだけ上がり、そして、現実のリーンの問いかけの重さに気づいたように、静かに落ちた。
◇
「……はっ! ……」
ミナトはハッと我に返ると、スプーンを持ったまま頭を振った。
「ごめん、ちょっと意識が飛んでた。さすがにまだ、頭がぼーっとしてるみたいだ」
危うく、あの凄惨な戦場の熱と、そこで確かに紡がれた少女たちの体温に呑まれるところだった。ミナトは小さく息を吐き出すと、真っ直ぐにリーンを見つめた。
「うん、次は同伴を頼むよ。……やっぱり、お前がいないと駄目だ」
その言葉は、誤魔化しでも何でもない、この五日間で嫌というほど味わったミナトの本心だった。
「……これ、美味しいね。ありがとう」
ミナトが再びスープを口に運び、そう微笑む。
「ちっ……」
食堂の静寂に、信じられないほど小さな、しかし確実に不満の籠もった舌打ちが響いた。
だが、リーンはすぐにいつもの完璧な給仕の微笑みへと戻る。
「同伴、承りました。――次は必ず、主様の影として」
リーンは深く、優雅に頭を下げると、それ以上は何も言わず、静かな足取りで食堂を後にした。その背中には、先ほどまでの刺すような気配はもうなく、主を無事に連れ帰った我が家の、確かな温もりだけが残されていた。
一人残された食堂で、ミナトは温かいスープをゆっくりと口に運ぶ。
喉を通る温かさと、リーンの淹れてくれたお茶の香りに包まれながら、ミナトは全身に染み付いていたあの五日間の血と泥の交じる“森の匂い”が、ようやく自分から静かに離れていくのを感じていた。
◇
翌朝。
まだ夜明けの薄薄明かりが残る頃、ミナトは誰よりも早く目を覚ました。
静まり返った部屋で衣服を着替え、洗濯をしながら、河原での叩き洗いと道具のそろったこの場所の違いをまじまじと比較していた。ひとしきり洗い終えた後、自室に戻り机の上からノートを取り、食道へ向かう。この五日間の過酷な森林演習で得た反省、仲間の動き、そしてあのカラヨドロスガパとの死闘――脳裏に刻まれたそれらの経験を一つ一つ頭の中で噛み締め、ノートの記録を振り返りながら、ミナトは静かに、リーンが起きて降りてくるのを待っていた。
やがて、トントンと静かな足音が階段から響き、リーンが姿を現した。
「おはようございます。主様」
リーンはいつも通り居住まいを正して一礼するが、その表情は心なしか昨夜よりもずっと晴れやかだった。
「やはり……『おはようございます』を言う相手がここにいるというのは、良いものです。今朝は、何を召し上がりますか? 主様」
その言葉に、ミナトは弾むようにリーンの方へと顔を向けた。
少しだけ照れくさそうに、無意識に制服の袖のボタンを指先で弄りながら、ミナトは椅子から立ち上がる。
「リーン、おはよう。――今朝は、パンとスープを、一緒に食べよう」
「――はい。喜んで」
その一言を聞いたリーンの口元が、嬉しそうに綻ぶ。そして、ミナトの顔を見て再び静かに笑う。
昨夜交わした「次は同伴を」という約束。そして、今朝の「一緒に食べよう」という言葉。今日から再び、主の影として共に在れる喜びを全身から滲ませ、リーンは実に見事な手際で、そして酷く機嫌よさそうに朝食の支度を始めた。
窓から差し込む朝の光が、二人の行く末を祝うように、温かく食堂を照らし出していく。




