森林サバイバル4日目 夜、小さきもの
演習4日目の夜。C班の野営地。
おとが刻印した知覚を狂わせる灯に照らされ、燻製箱からは細く安定した煙が立ち上り、乾燥ネットは静かに闇の中に垂れ下がっている。
聞こえてくるのは、夜の森の不気味な虫の声と、それに紛れるおとと陸斗の硬い息遣いだけだった。
「……」
おとは魔術ペンを握りしめたまま、一瞬たりとも周囲の闇から視線を外さない。
「……おと、灯の術式、疲れたら代われよ? 俺が発動するからさ」
陸斗が自身の獲物を肩に担ぎ直し、気遣うように声をかけた。
「……大丈夫。この調子なら、まだ数時間は維持できる……」
おとの声は低く、どこか強迫観念に駆られたような冷たさを含んでいた。
「無理すんなよ」
「……うん」
――ドン! キン!
その時、夜の風に乗って、遠くの斜面から何かが激しくぶつかり合う重低音と、刃の風切り音が微かに響いてきた。
「毎夜毎夜、本当によくやってんなぁ……。あっちの山、どこの班だろ? ミナトのA班……はまず考えにくいから、やっぱりレンのB班か……」
陸斗が音のした方角を睨みつけながら、感心したようにつぶやく。
「……ちょっと、拠点を離れてもいい?」
おとが張り詰めた精神を落ち着かせるように、短く言った。
「ああ、いいぜ。この燻製箱は俺がちゃんと見てる」
「……お願い」
おとは灯の届く境界線を越え、闇の広がる茂みの奥へと静かに姿を消した。
しばらくして、おとが歩いていった方向から完全に物音が消え、森は再び静寂に包まれる。
「……にしても、なんも来ねぇな」
陸斗は拍子抜けしたように首を振り、燻製箱の火を整えた。
────────────────
――その時、おとの足元の草むらで、無数の“小さな気配”が一斉にうごめいた。
足元。
背後。
そして、左右。
光の届かない視界の外側で、何かが信じられない速度で無数に走り回る。衣服の隙間から、足元を直接這い上がってくるような生々しい感触。
――一瞬、すべての音が止まり、静寂が訪れる。
直後。
カサカサカサカサカサカサ――!!
「……っ?」
おとが下を向いた、次の瞬間だった。
「ァァァァァ……いや、きゃーあああーーーーっ!!!」
────────────────
悲鳴が上がった瞬間、陸斗の身体から球形に、透明な術式の波が鋭く一走りした。C班が共有する全方位探知の波動だ。
術式の波紋が、おとのいる方角で不自然に激しく動き回る大量の小さな気配を的確に捉える。
「なんだ……っ!? おと!!」
陸斗は地面を蹴り、おとの悲鳴が響いた闇の奥へと猛然と駆け付けた。
◇
おとの悲鳴が響いた茂みの奥。
そこには、乱れた衣服を必死に整えながら、地面に激しくうずくまるおとの姿があった。彼女の周囲には、パニック状態で放たれた術式によって無残に切り倒された草木が四散している。
陸斗の身体から、再び球形の探知の波動が鋭く一走りした。
しかし、術式の波紋が感知したのは、荒れ果てた草地と、呼吸を荒らげるおとの生体反応だけだった。
「おと! 大丈夫か、おい! 何か見たのか!?」
陸斗が獲物を構えたまま、おとの肩を掴んで周囲を警戒する。
「あっち……あっちから、音が……!」
おとは乱れた服の襟元を震える手で直しながら、闇の奥を指差した。「慌てて、術式を撃ったんだけど……っ!」
陸斗は即座に視界を補正する暗視の魔法を発動し、おとが指差した方向の闇を凝視する。だが、緑色に染まった視界の中に映るのは、夜風に静かに揺れる草木だけだった。
「おと、大丈夫だ。落ち着け、何もいない」
陸斗は探知を切り、おとに手を差し伸べた。「立てるか?」
「うん……」
おとは陸斗の手を借りて立ち上がりながら、今なお嫌悪感に身体を震わせる。「カサカサって……小さな、何かが無数に動く音がたくさんして、肌に……っ」
「とりあえず、拠点に戻ろう」
陸斗はおとを背中に庇うようにして歩き出し、小さく毒づいた。
(……クソ、さっき俺の探知の波には、確かに『何か』がいた気配があったはずなのに。一体どこに消えやがった……)
「うん……」
────────────────
二人が足早に開けた拠点へと戻った、その瞬間だった。
知覚を狂わせる灯に照らされた彼らの“野営工房”――その中心にある燻製箱が、異様な「黒い波」に覆われていた。
燻製箱全体が、まるで一回り大きな『影』を纏っているかのようにドロリと蠢いている。そしてその縁から、無数の細い影が滑るようにして地面へと降りていく。
箱を固定するロープ。
木板の継ぎ目。
わずかな通気口の隙間。
ありとあらゆる隙間という隙間から、次々と黒い小さな影が、まるで決壊したダムの津波のように溢れ出てくる。
「な、なんだありゃあ!!」
陸斗が目を見開いて絶叫する。
「ちょっと、嘘でしょ……!?」
おとが燻製箱を見て息を呑む。
ざぁぁっ、と不快な音を立てながら、黒い影のような小さな者たちが、うねる波となって一斉に箱から這い出し、四方八方の闇へと逃げ散ろうとする。
「くそっ、これだけの事しといて、タダで逃がすかよ!」
陸斗が瞬時に魔力を練り上げ、複数の風の刃をその黒い影の群れへと容赦なく投げつけた。
目に見えぬ速さの風の断頭台が、逃げる影の波へ襲いかかる。
「……ちっ! すばしっこい!」
それでも、風の刃の一つが確実に影の群れの端を切り裂いた。
ベチャリと嫌な音がして、小さな黒い『塊』が地面に転がり、動かなくなる。
だが――残りの圧倒的な数の影は、速度を落とすことなく闇の中へと滑り込んでいく。
「あいつらか……! よくも、よくも私たちの燻製を……っ!!」
おとは中身を荒らされた燻製箱を見て激昂し、すべてを焼き尽くさんとばかりに、破壊的な火炎の魔法をその手元に構築しようと構えた。
「おらぁ!! ……おと、火はやめとけ! 拠点が燃える!」
陸斗は四方八方に風の刃を乱射して影の足止めを試みながら、我を忘れたおとを引き止めるように激しく吠えた。
◇
「また、削られてる……。私たちのがやったことを、あいつらに……!」
おとは奪われた燻製肉の入っていた空間を凝視し、悔しさと嫌悪感に声を震わせた。バリバリっとおとの全身に火花が何度か走る。
「こうなったら、しんどいけど……箱全体に、完全密閉の隔離術式を組む。――絶対に、二度と近寄らせない。汚い、汚い、汚い……! 後で全部消毒しなきゃ……嫌だよぉ、もう嫌……!」
――バサッ、バサッ!!
周囲の闇から、容赦なく草木を薙ぎ払う鋭い音が響く。
陸斗が逃げ去る影の追撃を諦め、四方の茂みに向けてダメ押しの風の刃を投げつけている音だった。ひとしきり周囲を切り裂いた後、陸斗は先ほど仕留めた「小さな塊」を指先でつまみ、おとの元へと戻ってきた。
「……鼠……か? これ。だけど、こんなにたくさん……?」
陸斗が暗視魔法の緑の視界の中で、泥に塗れた小さな動物の死体を怪訝そうに見つめる。
だが、おとはその言葉に耳をかす余裕すら持てなかった。目に涙を浮かべながら、鬼気迫る表情で真剣に燻製箱へと新たな術式の刻印を打ち続けている。
「ごめん、陸斗。その解析は、あとで……。今は、こっち(密閉)を完璧にする」
「ああ、わかった。任せる」
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おとは額から流れる大粒の汗を、溢れる涙ごと乱暴に腕で拭いながら、執念だけで防衛術式を編み上げていった。空気すら通さないほどの強力な「密閉術式」、そして侵入者が触れた瞬間に不可視の衝撃波を見舞う「迎撃の罠」。
その間に、陸斗は天幕で仮眠をとっていた新と朔太郎を叩き起こし、たった今起きた一部始終を説明した。
「――なるほど、分かった。陸斗、おと、ありがとう。本当に危なかったね」
状況を把握した新が、深刻な顔で燻製箱を見つめる。「それから、おと。これだけ強力な密閉術式を組んだとなると、明日の朝、演習終了でここを撤収するときに、解除するのが相当手間になるね」
「おと。解除を容易にするための『符丁(一時的なパスコードの術式)』を僕が追加で設定してもいい?」
朔太郎がピンセットをポケットに収めながら提案した。
(……はぁ、はぁ、……っ)
おとは浅い呼吸を繰り返しながら、新と朔太郎を見上げた。
「うん……お願い、してもいいかな。まだ私の魔力は通してないから、術式は発動してない……」
おとは自分の両腕を抱きしめ、おびえるように周囲の闇を見つめる。
「……さっきのあいつら、まだ……すぐ近くの闇に、いる気がするの」
「分かった。おとが魔力を通して発動させる前に、僕が符丁の組み込みをやっておくね」
朔太郎は眼鏡の位置を直し、おとの刻印の隙間に緻密な術式を上書きし始めた。
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おとは体力を使い果たしたように、その場に力なく蹲る。
「念のため、これからの見張り番は交代しよう」
新が二人の肩に手を置いた。「ここからは俺と朔太郎が起きているから、陸斗とおとは天幕に入って休んで」
「いや、俺はいい。新、お前の方が休めよ」
陸斗は自身の得物を地面に突き立て、不敵に笑ってみせた。「お前が明日の朝、隊長としてしゃんとしてる方が大事だろ。……来るなら来いだ、今度こそ細切れにしてやる」
「そっか……うん。分かった。じゃあ朔太郎、陸斗と一緒に頼むね」
「いーよー」
朔太郎が気の抜けた、しかし確かな魔力を宿した声で応じる。
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その夜、東の空が白み始めるまで、表面上は何事も起きなかった――。
ただ、時折。
冷たい夜風の中に、小さく、本当に小さく、何かが擦れ合うような「カサリ」という音が混じった気がした。
その微かな音が響くたび、
防衛陣の石の上に座る朔太郎と陸斗の『影』が、灯の光の中でゆらっと、不気味に揺れていた。
それが一体、何回目だったか。
迫り来る朝の気配の中で、もう誰も、その数を数えてはいなかった。




