森林サバイバル3日目 A班 繋がれるバトンと真の修羅場
天幕の外。荒れ狂う夜風の中を、ニーコスは煮沸した水の袋を抱えて這うように歩んでいた。
過酷な環境での重労働により、服越しからでも彼女の肩や背中の筋肉が激しく波打っているのが分かる。その顔は限界を超えて紅潮し、呼吸は深く、痛々しいほどに乱れていた。
ふと、足取りがピタリと止まる。
鉛のように重くなった足が、どうしても次の一歩を踏み出さない。
「……まだ……だめ。さやか、ランド、助ける。……私は、できる子になる」
呪文のように呟いた瞬間、かじかんだ手から水袋がずるりと滑り落ち、地面に転がった。
数秒の間、動きを止める。だが、ニーコスの瞳の光は消えていなかった。
すぐに水袋を拾い上げ、愛おしそうに再びその胸で抱え直す。膝と腕が小刻みに、ガクガクと震えていた。それでも、彼女は泥を蹴り、一歩ずつ確実に前へと進む。
「……届ける。私は……はぁ、はぁ……できる……!」
疲労のあまり、世界がぐにゃりと歪んで視界が激しく揺れる。
だが、その歪んだ視界の先にあっても、天幕の中にいる「三人の姿」だけは、ニーコスの瞳から決して外れなかった。
そして、彼女の目が捉える。
真っ白な光を放ち終えたミナトの身体が、力なく崩れ落ちる瞬間を。
「ミナト……!」
ニーコスは震える足に鞭を打ち、天幕へと駆け込んだ。
抱えていた水を素早く置き、泥のように横たわるミナトの顔を覗き込む。
「ミナト! しっかりして!」
その青白い頬を、冷たい手で軽く叩く。
「……ニーコス……」
ミナトはうっすらと、だが安堵の混じった目を向け、掠れた声を出した。
「ちょっと……疲れた。少しだけ、休む。……さやかの衛生、頼む……」
それだけを何とか告げると、ミナトは今度こそ完全に眠りへと落ちていった。
ニーコスは一瞬だけ息を呑み、すぐに決意を秘めた瞳でうなずいた。
「……うん。わかった」
ミナトの言葉通り、ニーコスはすぐにさやかの元へと這い寄り、煮沸した水と布、そして探してきた薬草を使って丁寧な衛生ケアを始める。冷えないよう、汚れた服を素早く処理していく。
「う……っ、ニーコスちゃん……?」
汚れが拭い去られていく心地よさに、さやかが小さく声を漏らし、意識を覚まさせた。
「さやか、大丈夫、まだ寝てて」
ニーコスはさやかの不安を溶かすように、努めて優しく、穏やかな声で語りかけた。
「今、衛生中だからね。痛かったらすぐに言って。……あと、ごめんね。着替え、勝手にバッグから取り出しちゃった」
「うん……お腹、痛い……けど、ありがと……大丈夫……」
さやかの顔からは、先ほどまでの死相のような青白さが消え、ミナトの治療のおかげで劇的に呼吸が楽になっているのが分かった。
「さやか、自分で回復魔法、使える……? 虫はミナトが全部消してくれたから、今なら魔法がちゃんと効くはず。やってみて」
「うん……できる……やってみる……」
さやかが震える手を持ち上げると、その指先が、微かな、しかし温かい青い光を帯び始めた。
まだ完全に痛みは引かないものの、さやかは自分の手で、そっと自らの腹をさすりながら魔力を流し込み始める。
◇
完全に意識を失ったと思われていたミナトの身体が、天幕の隅でふらりと起き上がった。
その瞳の焦点は定まっておらず、呼吸すらまともにできていない。だが、彼はよろめき、倒れそうになりながらも、執念だけでまだ苦しそうに呻くランドの方へと足を向けた。
ガク、と膝が折れそうになるのをこらえ、ランドの腹部へ、まだ熱を持ったままの素手を力強く押し当てる。
(手が動く。……指先が、まだ動く。今のうちに、ランドを、こいつを助ける……!)
ミナトの脳は、すでに限界を超えて焼き切れそうだった。だが、さやかの時に構築した『血流の逆引きロジック』の感覚だけは、辛うじてその魂に刻まれていた。
「……ランドの、血……。見つけた……」
ボロボロになった粘膜の奥に潜む、おぞましい魔力波形を完璧に捉える。
「――壊れろ」
天幕の闇の中に、本日二度目の、そして先ほどよりもさらに凄烈な純白の光が激しく放たれた。ミナトの身体全体が、命の炎をそのまま宿したかのような淡い青い光に包まれ、輝く。
ランドの体内で暴れていた無数の「虫」が、超振動の魔力によって一匹残らず粉砕され、霧散していく確かな手応え。
(くっそ……覚えとけよランド。これがミナトだからな……。ふっ、……『あの絶望的な状況からランドを助けた男、ミナト』ってやつだ……)
誇らしげな、どこか不敵な笑みを内心の闇の中で浮かべた瞬間、今度こそ完全に糸が切れた。
ミナトの身体は、すべての力を出し尽くした人形のように、ドサリと床へ崩れ落ちた。もう、ピクリとも動かない。だがその顔は、不思議とどこかやり切ったような安堵に満ちていた。
静まり返る天幕。
ニーコスはしばらくその光景を呆然と見つめていたが、すぐに自身の頬を両手で叩き、覚悟を決めた目で隣を振り返った。
「……っ」
深く息を吸い、声を絞り出す。
「……さやか。もう、動ける……? もし、動けるなら……手伝って……」
ニーコスはさやかの目を見つめ、まだ意識が混濁しているランドの身体を指差した。
さやかは、激しい脂汗で額や顔にべったりと張り付いていた髪を、震える手でゆっくりと剥がした。
ミナトの魔術と自身の回復魔法のおかげで、その顔には先ほどの死相が嘘のように、健康的な赤みが確かになだれ込んできている。
さやかは力強く、しっかりと頷いた。
「うん……いける。やろう、ニーコスちゃん」
ミナトが命がけで原因を潰し、ニーコスが繋ぎ、さやかが応える。
A班の反撃の夜が、静かに始まった。
◇
ミナトが完全燃焼して眠りについた天幕の奥から、今度は別の意味で悲痛な、引き裂かれるような男の悲鳴が夜の森へと響き渡った。
「いいい、嫌だ! そこは自分でやれる! 頼むからやめろぉおお!!」
ランドは未だかつてないパニックに陥っていた。
なぜなら今、自分は横向きに倒された状態で、ニーコスに完全な馬乗りにされて組み伏せられているからだ。それだけならまだしも、必死にもがく上半身は、背後からさやかによって完全にホールドされ、がっちりと押さえつけられていた。
(クソ、なんでだ!? なんで振り払えねぇんだよ!?)
ランドの脳内は焦燥で破裂しそうだった。戦士としてのプライドが「こんな事があってはならない」と警鐘を鳴らす。自分より体重が二十キロは重い大柄な男の戦士でさえ、力比べで振り払ってきた自負がランドにはあった。それが、自分より遥かに小柄なはずの女子二人に、文字通り指一本動かせないほど完璧に制圧されている。
特に、腰のあたりに跨っているニーコスの“重さ”が異常だった。
ランドがほんのわずかでも筋力を傾け、死に物狂いで体勢を入れ替えようとした瞬間――ニーコスの身体が、まるで精密機械のように即座に反応する。極端に優れたバランス感覚と、種族特性としての芯の持ち主である彼女は、ランドの重心移動を即座に感知し、自身の「芯」を真上へと戻して力を完全に相殺してしまうのだ。
森に入って彼女の動きは、無駄な筋肉の張りが一切なく、常に芯が立ったまま飛び跳ねているかのような重心制御を見せていた。そんな彼女に馬乗りにされると、体重の軽い女子のはずなのに、ランドにとっては、まるで巨大な岩盤にプレスされているかのような、理不尽極まりない圧倒的な質量として感じられていた。
「ランド。動けないくせに、格好つけないで。もう少しじっとしてて」
ニーコスは、ランドの腰から臀部にかけて、容赦のないメディカルな手つきでズボンを強引に脱がしにかかっていた。
「さやか、ランドの右肩をもっと下へ押さえて。背中が冷えてるから、早く新しい下着に替えないとダメ」
「ちょ、待て、さやか! それ、首が、腕が極まってる! ガチで動けねぇ!! 痛いし、あと、なんかいろいろ当たってる! うやぇめてぇぇぇ!!」
必死に抵抗しようと体をよじるたび、背後から密着しているさやかの柔らかい身体の感触が、容赦なくランドの背中に押し付けられる。
「ランド君、とにかくじっとしてて! 私、ちゃんと目瞑って見てないから! だから暴れないで!」
さやかは顔を真っ赤にしながら、文字通り体全体、全力の体重を預けてランドの上半身を地面へ縫い付け、関節をロックしていた。虫を駆除されて魔法の通りが良くなった彼女の身体能力は、今や全開だった。
密着する女子の体温。そして訪れる、圧倒的なホールド感。
「あ……あったかい……」
あまりの心地よさに、ランドの口からうっかり本音が漏れ出る。
「……気持ちいい……やめないで……。――って、ちがう! いや! いや! いやぁあー! 頼むからマジでやめてぇええええ!!」
天幕の片隅で泥のように眠るリーダーの横で、ランドの尊厳を守るための(あるいは女子たちが彼の命を救うための)凄惨な戦いは、夜が更けるまで延々と続くのだった。
◇
ドタバタとした騒がしさがようやく収まり、天幕のなかに静寂が戻ってから、しばらくした頃。
夜風に押されるようにして、天幕の裾が静かに、小さく揺れた。
「ミナトくん……? 起きてる……?」
闇に溶けるような、掠れた、けれど酷く穏やかな少女の声が響いた。
「水と、……治療、ありがとう。だいぶ、楽になったよ……」
微かな衣擦れの音のあと、少しの沈黙が流れる。
そして、泥のように眠るミナトの、冷え切った頬へとそっと温かい手が触れた。慈しむような、細く柔らかい指先の感触。
「……ごめんね」
愛おしさと、無茶をさせてしまったことへの申し訳なさの混じった声が、そっとミナトの耳朶を打つ。
やがて、ミナトは自分の肩のあたりに、確かな温もりを感じ取った。
それだけではない。右からも、左からも、同じように自分を挟み込むような温もりと、穏やかな、規則正しい寝息が伝わってくる。
全員がそれぞれの限界を超えて、泥を這いずりながらも、お互いの命を繋ぎ止めた夜。
ミナトはその愛おしい温もりに包まれながら、今度こそすべての警戒を解き、深い、深い微睡みの中へと静かに沈んでいった。




