森林サバイバル3日目 鼻を衝く、天幕の内と外
天幕の外は、皮膚を刺すような冷たい風が吹き荒れていた。
ニーコスは手際よく予備の衛生用品の数を確認すると、天幕を飛び出し、夜の闇に紛れる川沿いへと流れる水を探しに向かった。
ゴォ、と鳴る風の音に混じって、森の巨大な影が生き物のように不気味に揺れている。
ふと、ニーコスは足を止め、風に混じる奇妙な魔力を肌で感じ取った。
(……誰か、遠くで激しく戦っている……?)
中腹のレンたちの死闘か、あるいは麓の教官たちの迎撃か。ザワつく心を、ニーコスは強引に押し殺した。
(ダメだ。今は自分の班、こっちに集中しなきゃ。焦りは毒になる)
だが――鼻腔を突く、妙に強烈な魔力の『臭い』が、どうしても気にかかった。
ニーコスは川から冷たい水を汲み上げると、急いで天幕へと戻った。外に設置した鍋で徹底的に沸騰させ、布を使って二度の濾過を行う。少しでも不純物を取り除いた水を苦しむ全員へ配ると、休む間もなく、彼女は再び夜の闇の中へ水を汲みへと向かった。
一方、狭く息苦しい天幕の中。
ミナトは防護手袋越しに、ランドとさやかの手を同時に強く握りしめていた。瞳の奥の魔術回路を駆動させ、解析魔法をじりじりと進めていく。
(……もう一度だ。血流の異常じゃない。もっと奥――消化器のチェックに切り替える)
意識を集中させ、二人の体内へと魔力を浸透させていく。
(口、咽頭、舌、喉、食道……ここまでは問題ない。次は、胃だ)
(さやか――胃壁に強い炎症がある。……待て、ランドの方は炎症がない? ッ……!)
思考のブレに呼応するように、魔力の糸がプツリと切れた。
(くそ、もう一度だ。二人同時にこれだけの精度で解析するのは無理か……。ランド、すまん)
ミナトは一旦ランドの手を離し、さやかの小さな手を両手で包み込むように握り直した。
(……もう一度、さやかからだ。消化器のチェック、集中しろ)
胃を通り抜け、その先の幽門から十二指腸、小腸へと解析を滑らせる。
(胃に炎症。その先……なんだ、これ……!?)
脳内にフィードバックされるイメージに、ミナトの背筋が凍りついた。
(粘膜が、ただれている。内側から何かになすりつけられたみたいに、ボロボロに……。そんな、ただの食あたりでこんな短時間に組織が破壊されるか……!? ランドは、ランドはどうなんだ!?)
ミナトはそっとさやかの手を離し、今度はランドの大きな手を両手で固く握りしめた。
(胃……異常なし。その先――小腸。……同じだ! まったく同じようにただれている!)
ミナトは冷や汗が止まらなくなった。
(そんな……これって、何なんだ……。違う。断じて普通の食あたりなんかじゃない。体内で、急速に増えてる……“何かが”猛烈な速度で増殖して、細胞を食い荒らしてる……!)
水を配り終え、天幕に戻ってきたニーコスに向けて、ミナトは声を絞り出した。
「ニーコス……! 二人とも、腸が完全にやられてる。水様便に急性の大腸炎……進行のスピードが速すぎる」
汚れた布の洗浄作業をしていたニーコスが、ピタリと手を止めた。
「それは……普通の病気じゃない。おそらく、虫(寄生虫)。――腸を緊急で保護する薬草と、魔術による直接の治療術式がいい」
「……寄生虫……!? 薬草なんて、この暗闇の山で手に入るのか? 君は、その治療の術式はわかるか?」
「ごめん、術式はわからない……。でも、薬草なら、見覚えがある。外で探して手に入れられる」
「……分かった。頼む……っ」
ミナトは一度きつく目を閉じた。
天幕の中に充満する、吐吐物と排泄物の混じった凄惨な臭い。
(臭い……っ。鼻が痛い、頭がきつい……。クソ、考えがまとまらない……!)
「うぅ……っ、ゲホッ……!」
さやかが短い悲鳴のような音を漏らし、激しく身悶えした。
(戻した……! まずい、本当にさやかの体力が持たない。元々肌が薄くて繊細な奴なんだ……!)
「……さやか! ニーコス、悪い、熱湯を! 煮沸した布でいい、急いで拭くんだ、さやかが今戻した! ……さやか、聞こえるか!?」
ミナトの声に、さやかがうっすらと、焦点の合わない目を持ち上げた。
「み、なと……く……ん……」
それだけ言うのが限界だったのか、彼女はすぐにまた力なく目を閉じてしまう。その額には、尋常ではない量の脂汗が浮かんでいた。
だが、その一瞬、ミナトは見てしまった。
(……え? いま、さやかの目の白いところが……黄色くなかったか……!?)
乾燥し、ひび割れた唇。そして、明らかな黄疸の症状。単なる腸の異常ではなく、肝機能や全身の血液まで毒素が回り始めている証拠だった。
「……ミナトぉ……」
隣で丸まっていたランドが、血の気の失せた顔で、掠れた声を漏らす。
「これ……マジでヤバい奴じゃねぇのか……? 俺、死ぬのか……?」
その言葉に、ミナトの腹が完全に決まった。
教官を呼ぶか? 中止要件を申請するか? いや、間に合うのか?この速度、そんな時間、わからない、怖い。二人の命が消えるのか?
「……これ、放置したら終わる」
ミナトは恐怖を完全に排し、傲慢なほどの強い光を瞳に宿した。
「――俺がやる」
◇
(できるか? 俺に……いや、やるんだ。できないと二人は死ぬ。現に今、血を吐いている。さやかも、ランドも……今は限界は遠くてもすぐだ)
二人の口の端から、胃液に混じった赤黒い血が静かに溢れ出していた。
死、という明確な終着点が、天幕の狭い闇の中でミナトの喉元を鋭く突き刺している。
「……原因は、僕がここで潰す」
ミナトは恐怖をねじ伏せ、感情を完全に剥ぎ取った声で告げた。
「ニーコス。水の運搬と、限界までの煮沸を頼む。僕は、二人の体内の虫を直接、魔術で施術する。……やり方は、いまから僕が見つける」
「わかった、信じるよ、ミナト」
ニーコスは力強く頷いた。
「私は、さっき見かけた薬草も一緒に探してくる。それがあれば、術後の回復が絶対に速くなるから」
ミナトは短く頷き、防護手袋を脱ぎ捨てた。仰向けに横たわるさやかの衣服を少し押し上げ、胃から腸へと最短で魔力を触れさせられるその腹部へ、震える素手をそっと当てる。
視線を一点に落とし、唇をかすかに動かして、術式の内言語を小さく、高速に呟き始める。
(……まず見つけろ。ターゲットは恐ろしく小さいはずだ。見つけられれば勝機はある。一つでいい、まずはその生態を捉えろ。潰せれば、あとは……。――クソ、粘膜の爛れがひどすぎる。そこら中、血塗れだ。自分の体内の異物を識別するのとは訳が違う。他人の、しかも破壊された内臓の中じゃ、どれが組織でどれが異物なのか、全部が同じ肉の塊に見える……! もっと精度を上げろ……視ろ……! だめだ、わからない、判別がつかない!)
混濁する情報の海に溺れかけ、ミナトは怒りと焦燥のまま、握り締めた拳を地面へ叩きつけた。
――ドンッ!
天幕の土の床に、十五センチほどの深い窪みが穿たれる。重い衝撃音が、自分の無力さを証明するように響いた。
「何か手はないのか……。血が出ているなら、そこに原因(虫)がいるはずなんだ。だが、溢れた血の魔力波形が邪魔をして、どれが虫なのかがわからない……。血じゃないやつを、探そうとしてはダメだ……畜生……リーン、凛姉さん……」
ハッと、ミナトは顔を上げた。
「そうか。……逆だ」
脳裏に、一本の閃光が走る。
「血じゃないやつを識別できないなら、血を、まず完璧に認識して除外すればいい」
ミナトは再び、さやかの熱い腹へと両手を当て直した。意識のすべてを指先に集中させる。
(これが、さやかの血だ。この波形、この魔力濃度、この温かさが、さやか自身の血流だ)
深く、激しく息を吸い込む。顎を伝った冷たい汗が、さやかの衣服へと流れ落ちていく。吹き荒れる夜風が、汗で濡れたミナトの服を容赦なく冷やし、体力を奪っていくが、今の彼には体の中から沸き起こる熱がそれらの冷えを完全に跳ね返していた。
(さやかの中に流れる、さやかの血――それと『違う波形』のやつだけを、反転させて浮かび上がらせる……! どこだ。どこに隠れている……もっと小さいのか? 組織にへばりついているのか? 血が出ている根源の……そこか……っ)
――居た。
(……意外と、デカい……!)
さやかの十二指腸の粘膜に文字通り「巣食い」、その牙で内壁を食い破っている異物の波形が、明確に脳裏へ反転描写された。
(だが――識別できたなら、もう俺の勝ちだ!)
焼き切るか? いや、そんな高熱を使えばさやかの内臓が持たない。
(壊す。魔力の超振動。この別物(異物)を内部から破壊する、すべて切り刻む……!)
「――消えろッ!!」
刹那、さやかの指先がぴくりと跳ね上がった。
ミナトの手のひらとさやかの腹部の隙間から、天幕の闇を焼き尽くすほどの強烈な純白の光が溢れ出す。それは次第に形を変え、ミナトの身体全体を、音もなく燃え盛る淡い青い炎のような魔力の奔流が包み込んでいった。
さやかの体内に潜む無数の「虫」の気配が、一匹残らず、綺麗に、完全に消滅していく確かな手応え。
(……よし、全部、消した……後は、毒が抜けて自然になお……)
さやかの呼吸が、劇的に、穏やかなものへと変わっていく。
それを脳の片隅で確かに感じ取った瞬間――ミナトの意識の糸は、限界を迎えて完全に千切れた。
ドサッ。
すべての魔力と体力を絞り尽くしたミナトの身体が、さやかの隣へと、文字通り泥のように崩れ落ちていった。




