森林サバイバル3日目 演習場麓のロッジと水
三日目の夜。
緯度のわりに酷く暑い夏を迎えている演習場の麓。光は、テーブルの上に広げられた立体地図を見やり、同時に重いため息をついた。
上半身裸のままベッドから起き上がり、光は額の汗を拭いもせず、山の中腹にある「不自然に開けられた斜面」に向けて二つのレンズ状のものを重ねて、冷徹な目で見つめ始めた。
「派手だな、おい。……こんな無茶な戦闘をやってたら、あいつらの体力、あと一日も持たんかもしれんぞ」
「位置が変わってないのよ」
陽子がベッドから起き上がり、腕を組みながら、記録紙に流れる文字を指し示す。その声は、プロの監視員としての冷静さを保とうとしながらも、わずかに揺れていた。
「後退もせず、移動もせず、あの場所を拠点にしてずっと押し寄せる魔物を相手にしてる。……危険度1のエリアとはいえ、これじゃいずれ誰かが致命的な怪我をするわね」
「だが、まだ『中止要件』には入ってないからな。ルール上、行動不能者か死者が出るまで俺たち教官は手を出すわけにはいかない。……まいったね、これは」
光は苛立たしげにボサボサの頭を激しく掻いた。
「ルール変更を申請して、強制介入するのは?」
「冗談きついぜ。そんなことしたら俺たちも含めて全員退学・免職処分だぞ」
「今回の演習が『この程度(の負荷)』を耐え抜くためのものだとしても……山の魔物のヘイトを一手に引き受けるような真似は、いくらなんでも無茶が過ぎるじゃない?」
陽子の言葉に、光はしばらくの間、腕を組んだまま沈黙した。
ルールは絶対だ。しかし、目の前で生徒が壊れていくのをただ見ているだけの無能になるつもりもない。
やがて、光の脳裏にある古い備品が思い浮かんだ。
「……あ、そう言えば『魔呼の香炉』があったよな、確か。地下の倉庫に」
「なるほど」陽子の目が鋭く光る。「間引き用の、アレね」
「ああ。山の魔物があふれてきて、この麓の監視小屋の周りまで降りてきちゃったから『防衛のために緊急で間引きをした』――ってことに形上しておいて、ここで香炉を焚く。そうすれば、中腹に向かってる魔物の何割かはこっちに流れてくるはずだ」
「そうね、時々焚きましょうか。あの子たちの負担が少しでも減るように」
「麓に降りてきたやつら、ちゃんと狩れるよな?」
光がニヤリと不敵に笑う。
「当然でしょ」
陽子は冷たく言い放ち、自身の武器の感触を確かめるように指を動かした。
「疑うなら、光さんを、逆に力技で組み伏せてあげようか?」
「勘弁してくれよ」
光は苦笑しながら肩をすくめた。
「じゃ、俺は地下から準備してくる」
「ええ。――もう遊んでられないわね」
二人は、いつ戦闘が起きてもいいように、それまでのラフな格好から黒い制服をしっかりと羽織った。彼らの脳裏には、あの極限の山腹で泥を啜りながら戦い続けているだろう、レン班の4人の顔が浮かんでいた。
やがて、深い闇に包まれた山の夜に、麓のロッジから一筋の紫煙が静かに立ち上り始める。
遠く、谷底から響いてくる魔物たちの喧騒と戦闘の残響が、冷たい夜気の中に静かに、しかし確かに木霊していた。
◇
夜。
A班は激しい風にさらされる小さな天幕の下で、身を寄せ合うようにして休んでいた。
ゴォ、と不気味な地鳴りのような風が吹くたび、布一枚の天幕が激しく揺れ、冷たい夜気が容赦なく隙間から入り込んでくる。
「……お腹……痛い……っ、うぅ……」
さやかが腹を抱え、脂汗を流しながら苦しげに呻く。
「俺も……やべぇ……。クソ、内臓が雑巾みたいに絞られてる……」
ランドもまた、青白い顔で地面を掻きむしっていた。日中の進行遅れの原因だった「体調不良」は、夜を迎えて最悪の形で爆発していた。
「……水、悪い。煮沸、足りなかった、かもしれない」
ニーコスが小さな声で、すま頭を垂れた。
(水? いつだ……)
ミナトの脳裏に、これまでの行程が目まぐるしく蘇る。
(あの川で汲んでた、あれか。……待てよ、ニーコスも俺も、あの水は飲んでない。いや、本当に飲んでないのか?)
「……状況、C2(汚染・感染症疑い)発生」
ミナトは思考を強制的に切り替え、冷徹な声で告げた。
「ニーコス。君はあの水を飲んでないか?」
ニーコスは手元に転がった水筒を軽く振り、チャプチャプと音を立てながら首を傾げた。
「……私?」
「さやかやランドが口にした水だ。ニーコス、君は本当に飲んでないんだな?」
「多分、私は自分の分がまだ残ってたから……。水は……ごめんなさい、よくわかんない。でも、全部ちゃんと沸かした、はず。……それに、私は本当にお腹は大丈夫。熱もないし」
ニーコスは自分の額に手を当て、続いて自身の腹をそっと撫でる。
「大丈夫。私は動ける」
「そうか、よかった。こっちも、腹は大丈夫だ……」
ミナトは一つ息を吐き、苦しむ二人に視線を落とした。
「二人とも、少しでも動けるか? 自力で天幕の外へ出られるか?」
「無理……。あいつ(魔物)に殴られるより、百倍キつい……」
ランドが歯を食いしばり、声を絞り出す。
「……ごめん……なさい……私が、足引っ張って……」
さやかの目から、痛みの涙がこぼれ落ちる。
「誰も責めない。水に関しては誰かのせいじゃない」
ミナトは短く遮った。
「今は、この状況から最低限“戻れる形”を作り直す。――ニーコス、すぐに残りの水を鍋で限界まで煮沸してくれ。それから、さやかの服と下着の消毒、衛生ケアを頼む。ランドの方は俺がやる」
ミナトは自分のバッグを漁りながら指示を飛ばす。
「布マスクはそっちのバッグだ。……中の人間は、もう回らない。これ以上感染を広げないために、外を回して動かせるのはニーコス、お前だけだ。頼む」
(立て直す。ここで全員共倒れになるわけにはいかない。――ランド、さやかすまん。浮かれてないでもっと僕が周りを見れていれば……)
ミナトは、道中の少なくとも楽しんでいた時間を激しく後悔しながら、内心の焦燥を押し殺すように奥歯を噛み締めた。
『リーンにも、笑うと集中力が途切れるって言われたな』
いつも自分の背後に控えている、忠実な従者の姿を唐突に思い出した。今、彼女がここに居ないという事実が、急激に胸を締め付け、思考を鈍らせていく。頼れる者が誰もいない孤独が、一気に押し寄せてくる。
(くそ、さやかもランドも、今すぐ徹底的な消毒と衛生管理が必要だ。だが、意識が朦朧としてるさやかの対応は、同性であるニーコスに頼むしかない。となると、ランドは……俺が看るのか?)
泥を浴び、下痢に塗れたランドを見る。高熱にうなされ、かつての頼もしさは微塵もない。
(……おい、何とかしろよランド。お前がそんなんでどうするんだよ、いつもの元気はどこ行ったんだ)
いや、違う。弱音を吐き、仲間に愚痴を言っている暇はない。
(感情を挟むな。やることを決めて、淡々と処理しろ)
「……うん、わかった。こっちはやるよ。さやか、大丈夫だからね」
ニーコスはすぐに表情を引き締め、鍋を掴んで動き出した。
「ランド……きついとは思うが、いったん体内の毒素をすべて出し切れ。我慢するな」
ミナトは防護用の革手袋をはめた手で、泥まみれになったランドの手を力強く握りしめた。
「ちょっと、視るぞ」
ミナトは瞳の奥に魔力の光を宿し、ランドの体内に向けて『解析魔法』の触手を伸ばし始めた。
単なる生水の食中毒か、それとも――。




