森林サバイバル3日目 A班 ミナトの狼狽と『はるな』
三日目の夕方。山の気温は、昨日までとは比べものにならない速度で急激に低下し始めていた。
貴重な食料となる森の果実を求め、安全だったねぐらを引き払って斜面を降りていたA班は、肌にまとわりつくような、ねっとりとした不気味な湿気の中にいた。
「……なんか、やけに寒くねぇか……?」
ランドが、妙に小さく、肩で激しく息をしながら呟いた。
「うん、そうだね……。って、ランド君、インナーがすごく濡れてるよ。それ、汗?」
隣を歩いていたさやかが、彼の異変に気づいて眉を寄せる。
「たぶん……な……」
その直後、ランドの顔色から急速に血の気が引き、土気色へと変わっていった。
呼吸は浅く、小刻みに震え、その瞳の焦点がどこにも合わずに泳ぎ始める。
「――ランド、返事して!」
ミナトが叫び、即座に彼の元へと駆け寄る。
「……あ……?」
ドサリ、と重い音を立てて、ランドの巨体が前触れもなく地面へバタリと倒れ込んだ。
「……体温が、急激に落ちてる。森の冷気が、強すぎる」
ニーコスが長い耳をピンと立て、ランドの微弱な心音と震えを感知して鋭く告げた。
「『R1(レスキュー案件1)』発生! ――さやか、今すぐここで火を熾して! ニーコスは風よけになる乾いた葉を集めてくれ!」
ミナトが瞬時に最悪のシナリオを想定し、大声で的確な指示を飛ばす。
「了解!」
ミナトは倒れたランドに飛びつき、素早い手つきで汗と露を吸い込んで冷え切った綿のインナーを剥ぎ取った。すかさず自分の外套を彼の身体へかけ、体温の蒸散を防ぐ。同時に、ランドの肌に付着した水分を少しでも速く乾かすため、精密な『除水魔法』を並列で割り込ませた。
(……濡れた綿は、森の中では“死”を意味する。どれだけ身体が強くても、気化熱で一瞬で体温を持っていかれるんだ。ふざけるな、戻れる形を……ここで崩させてたまるか……!)
ミナトが必死に術式を維持していた、その時。
――バタッ。
背後で、衣服が地面に擦れるような、妙に力の抜けた音が響いた。
「さやか? ――さやか!!!」
ニーコスの、悲鳴のような鋭い叫び声。
ミナトがハッと振り返ると、そこには、火を熾す術式を展開しかけた姿勢のまま、地面に頽れているさやかの姿があった。
「……なんか、身体が、熱い……のに……酷く、寒い……」
さやかは自らの胸元を苦しげに掻きむしり、ガチガチと歯を鳴らしながら、虚空を見つめてうわ言のように呟いた。
(……早すぎる。いくらなんでも早すぎる! 食あたりや低体温症なのか?、症状の進行スピードが異常だ。何が起きている……!?)
ミナトの背筋を、山の冷気とは異なる、冷たい戦慄が駆け抜けていった――。
◇
「はるな! はるなッ、しっかりしろ!」
レンがはるなの両肩を掴み、ちぎれんばかりに激しく揺さぶる。
はるなは喉の奥から、理性をもぎ取られたような痛ましい悲鳴を上げ続けていた。血の気の引いた顔は恐怖に歪み、見開かれた瞳にはこの世の終わりかのような絶望が映っている。全身をガタガタと激しく震わせ、両手は迫り来る幻影を拒絶するように宙を激しく掻きむしっていた。
「ちっ、悠真、いけないか!? はるなが精神汚染をやってる!」
「やってみる……! 『発動系鎮静』!」
悠真が飛び込み、宙を舞うはるなの冷え切った手を力任せに握りしめた。
悠真の身体が淡く光を放ち、その光が伝播するように彼女の身体を包み込む。刹那、はるなは文字通り糸の切れた人形のように、ガクリとレンの腕の中へ倒れ込んだ。
「……落ち着いたか?」
レンが荒い息を吐きながら訊ねる。
「多分……。過呼吸、パニック症状の人を無理やり眠らせるのと同じ措置だと思う」
悠真は自分の震える手を見つめ、青白い顔で俯いた。
「くっそ……いよいよやべーな。俺たちの精神、最後まで持つか……?」
レンの呪詛のような呟きが、冷たい風に消えていく。
────────────────
数分いや、1分程度かもしれない
――ビキッ、とはるなの背骨が異常な角度で跳ね上がった。
「――え?」
悠真が恐怖に目を見開く。
ゴボッ、と口の端から胃液の混じった血を吐き出し、白目を剥き、全身の筋肉を硬直させながら――はるなは、その瞳の奥に、ギラギラとした狂気的な光を『再点灯』させた。
「は、はるな……!? 嘘だろ、魔法を力技で破って……!?」
悠真が恐怖のあまり手を離し、地面を這って後退る。
はるなはガタガタと拒絶反応に震える腕を、冷徹な目で一瞥した。
精神汚染も、過呼吸をする肺も、闇に取り残される恐怖も、
――それら全ての人間的感情を、彼女は「不要」と判断し、強制的に切り離していく。
さっきまでパニックで引きつっていた顔の筋肉が、まるで凍りつくように、一切の感情を剥ぎ取られた鉄の無表情へと戻っていく。引きちぎれそうなほど激しかった呼吸が落ち着ついていく。
はるなは泥を孕んだ血をペッと吐き捨てると、まだ痺れが残っているはずの指先で、迷いなく細剣の柄を握り直した。
「……来る」
「! 何体だ!?」
レンが即座に武器を構える。
「三。――右、正面、左奥」
「お前、あいつらの姿が見えてるのか……!?」
悠真が驚愕の声を上げる。鬱蒼とした夕闇の密林、肉眼では何も捉えられないはずの暗闇だ。
「……匂いと、風の変わり目」
はるなは感情の消えた平坦な声で言い捨て、地を蹴った。
同時に、三方向の闇から獰猛な影が跳躍してくる。
「レン、正面!」
「了解!」
はるなが瞬時に右から迫る魔物の鼻先へレイピアを突き出し、その突進を激しく牽制する。生じた一瞬の隙を見逃さず、レンの鋭い風刃が正面の魔物の首を綺麗に斬り伏せた。
さらに、左奥から回り込もうとした個体へ、琉生が的確に『石弾魔法』を撃ち込んで脳天を強打し、突進の軸を強引に逸らす。
「……はるな、後ろだ!」
悠真の叫び。
「分かってる」
振り返りざま、はるなは美しい軸のまま鋭い後ろ蹴りを放ち、背後から襲いかかった魔物の顎を硬いブーツの踵で弾き飛ばした。脳を揺らされ、無防備にのけぞる魔物。
「――仕留める!」
レンがその隙に今度は『炎の刃』を滑らせ、魔物の胸元を容赦なく一文字に両断した。
――ズシャッ!
「……やべぇ……俺たち、いつの間にかめちゃくちゃ強くなってないか……?」
琉生が自分の手を見つめ、興奮と困惑の混じった声を漏らす。
「違うよ」
レンが肩を激しく上下させ、息を整えながら遮った。
「俺たちが強くなったんじゃない。“噛み合ってる”だけだ。はるなの目と、俺たちの感覚が、生きるために無理やり噛み合わされてるんだ」
「……次も、すぐに来る。今のうちに動こう」
はるなは返り血を浴びた顔のまま、冷淡に告げる。
「……嘘だろ、またきたぁぁあ!!」
悠真の悲鳴とともに、彼らは再び、終わりのない泥沼の防衛戦へと身を投じていった――。
────────────────
押し寄せる魔物をすべて打倒し、ようやく周囲の禍々しい気配が引いていく。
はるなは、返り血と泥で汚れた毛布を深く頭から被り、自分たちで切り倒し、掘り返したことで辛うじて開けた巨木の根元に、ぽつんと身体を預けていた。
レンがその前にしゃがみ込み、彼女の顔を覗き込む。
「はるな、大丈夫か……?」
はるなは毛布にくるまったまま、じっと森の奥を見つめ、それから小さく、機械的に頷いた。
周囲では、限界を迎えた悠真と琉生、そしてレンもまた、ボロ布のような毛布に身を包み、泥の上で泥のように休息をとっている。
夕闇が完全に森を支配し、夜の帳が降りる中、彼らの間には本当に束の間の、静かな安堵が流れていた。
だが――はるなの瞳だけは、一切の休息を拒絶していた。
彼女の鋭い視線は、すでに誰も見ていない密林の最奥、その漆黒の闇へと向けられている。
(絶対に生きて帰る。死なせない。手も足も動く……私は、まだ生きているッ)
次に自分たちを殺しに来る気配を、風の揺らぎと、血の匂いだけで、ただひたすらに探り続けていた。衣服の内側で、傷つき、割れた唇を小さく噛み締めながら。




