森林サバイバル3日目 燻製箱の違和感と狩り
三日目の朝。山の冷気はねっとりと肌にまとわりつくように染み込み、どこか遠くの上層から、かすかに鉄錆のような血の匂いを運んできていた。
新は朝食の準備を整えるため、拠点に設置した燻製箱へと歩み寄った。だが、箱の前に立った瞬間、彼の端正な眉がわずかに動く。
「ん? 箱の扉が、少し開いているな……誰か夜中に起きて食べたのかな?」
新は扉の隙間に指をかけ、その噛み合わせを確かめるように微かに揺らした。
「……いや、外から開けられたというより、内側から圧迫されて押されたみたいに、不自然に浮いてるな。……うーん、やっぱり誰かがつまみ食いでもしたのかな」
新はひとまずそれ以上の追究はせず、四人分の肉をナイフで丁寧に削り取り、木皿へと盛り付けた。そして燻製箱の扉をきっちりと閉め直すと、すでに活動を始めている焚き火のほうへと向かう。
拠点の中心では、陸斗がすでに手際よく火を起こしていた。パチパチと薪が爆ぜる音が静かな朝の空気に響く。
「……なぁ陸斗。お前、夜中に起き出して肉、食わなかった?」
新が皿を置きながら、何気ない調子で尋ねた。
「いや? 俺は朝までぐっすりだ。なんも食ってないぞ」
陸斗は不思議そうに顔を上げる。
焚き火を囲う石の上に腰掛けていたおとが、二人の様子に気づいて視線を向けた。
「新、何かあったの?」
「うん。燻製箱の中の肉が、少し削れてたんだ。僕が昨日、仕込みの段階で削ったところとは、違う場所だと思うんだけど……」
「……」
傍らで荷物の整理をしていた朔太郎が、手を止めて静かにこちらの会話に耳を傾ける。
「どこをどう削ったか、正確に覚えてる?」
おとが確認するように訊ねる。
「ごめん。そこまでは、あんまり細かくは覚えてないんだ」
「そう。じゃあ、ただの気のせいかもしれないし、次はちゃんと覚えておこ? これからは食材の出し入れも、念のため二人で確認するようにしようよ」
誰一人として声を荒らげることはない。C班はここでも焦らず、丁寧に、確実にトラブルの芽を摘む作業を進める。確認手順を増やすという極めて論理的な解決策だ。
おとは新から皿を受け取り、そこに盛られた大鹿の肉を指先でつまみ上げて、鋭い目で観察し始めた。
「これ? ……確かに、端のほうだけ不自然に細く削れてるね。やすりで強引に削り取ったか、それとも欠けた刃物で何度も引っ掻いたみたい。……ほら、これ、同じ方向に揃って削れてるでしょ?」
「あー……」
新がおとの指摘した断面を見つめ、自分の指先を重ねてみる。
「爪、かな? ここを指で強く持ちながら、ナイフか何かを使ったのかも」
「ふーん……」
おとは肉を見つめたまま、何か深い思考に落ちるように目を細めた。だが、すぐにいつもの冷静な表情に戻る。
「一応、今日からは重量記録と形状記録もセットでとっておこう。特に肉を削った部位は、削る前の形をノートに絵で描いて、印を付けておかない?」
「ああ、そうしよう。そうすれば、誰の気のせいでもない確実なデータが残るな」
「うん! お願いね、新」
過酷さを増していく演習場の中で、C班はどこまでも焦らず、丁寧に、確実に作業を進めていく。
そして彼らの生存のための「記録方法」は、未知の違和感を取り込むことで、より一層冷徹に、精密に洗練されていくのだった。
◇
三日目の朝。
立ち込めていた濃い霧がゆっくりと薄れ、代わりに深く生い茂る木々の影が、鋭く濃く地面に落ちる。
B班の面々の顔には、明らかな疲労の色が刻まれていた。だが、泥を啜り魔物を噛み殺して夜を越えた彼らの足取りは、昨日よりも確実に重く、そして“強く”地を踏み締めていた。
陣形ははるなが最前衛。そのすぐ斜め後ろに、いつでも術式を発動できるよう“風の刃の角度”を常に微調整し続けるレンが位置取る。琉生と悠真は後衛で互いの死角を埋め、張り詰めた空気の中で周囲を警戒していた。
その時、静まり返った森の奥で――ガサッ、と硬い肉質が藪を分ける音が響いた。
「……来る……!」
悠真が引きつった小声で警告を発する。
「レン、右!」
だが、悠真の声よりはるなの反応はさらに一瞬早かった。
「任せろ!」
レンが即座に踏み出す。
飛び出してきた風走りトカゲの質量に対し、はるなは恐れず果敢に一歩踏み込んだ。抜刀されたレイピアの鋭い切先ではなく、あえて頑強な“柄”の金属部分を激突させ、魔物の突進の軌道を力技で強引に逸らす。
生じた一瞬の隙。そこへ、滑り込んできたレンの鋭利な風の刃が滑るように奔り、魔物の急所を正確無比に一刀のもとに両断した。
――ズシャッ!
重い肉塊が地面に転がり、シダ植物を黒い血で染めていく。
「……うそ、息ぴったりじゃん……!」
後ろで見ていた琉生が、あまりにも無駄のない二人の連携に驚きを隠せず声を漏らした。
「はるなが、あいつらの“動きの癖”を完全に読んで先導してくれるからね」
レンは短く息を整えながら、風の術式を維持したまま応じる。
「俺は、彼女が綺麗に作った“後ろ(隙)”をただ刺すだけさ」
「……次、来る」
はるなは頬についた返り血を拭いもせず、淡々と、しかし飢えた獣のような目で森の闇を見据えた。
ガキッ、とさらに森の奥で別の枝が折れる音。それも一つや二つではない。
「まだ……まだ来るの……!?」
悠真の声が、恐怖で細く震える。
「魔の“匂い”が濃い。――今日は、隠れる日じゃない」
はるなは静かにレイピアを構え直し、その双眸に冷徹な光を宿した。
「今日は……狩りの日」
襲いかかる絶望的な数の暴威を前に、はるなとレンは 撤退の二文字を完全に捨て去っていた。
前衛の二人は、まるで交互に獲物を引き裂く“二枚刃”のごとき苛烈さで、迫り来る魔物を次々と冷酷に切り伏せていく。B班の進むルートは、もはや生存競争ではなく、文字通りの「蹂躙」の場へと変貌しつつあった。




