森林サバイバル2日目 夜 勘違いの交差点
珈琲の深い香りが漂う、演習場麓の監視ロッジ。
タンクトップ越しに湿温風機のぬるい風を受け、汗ばんだ肌をさらしながらマグカップを見つめていた陽子の手が、ふと止まった。彼女の視線は、モニターに映し出された遠景の山肌へと向けられる。
「ね、見えた」
「おー、丸見え。ずいぶん派手にやってるな。地肌が見えてら」
ラフに外へはみ出させたシャツの裾を揺らしながら、光が落ち着いた様子でコーヒーを口に含み、陽子の隣から画面を覗き込んだ。密林の一部が、十メートル四方にわたって不自然に丸ごと消失している。
「どこ(の班)だと思う?」
「うーん……今度桜都の班あたりが、術式で地形を変えてるんじゃないかな? あいつ、そういう緻密な空間管理が得意そうだし」
「ならいいけど……」
陽子はカップを揺らし、わずかに眉をひそめた。おとの仕業にしては、どこかその「削られ方」に、冷徹な計算とは違う剥き出しの執念のようなものを感じ取ったからだ。
「まあ、もし違ったら……うん、衛生チェック(緊急介入)の準備だな」
光は肩をすくめ、手元のモニターの別ウインドウに視線を移す。
「それにしても、今年は例年に比べて魔物の数が多い上に、妙に元気なのが多いな」
「ジンさんが事前に言ってたからね。今年は『豊作』だって」
「勘弁してほしいよ。……にしても、今年の生徒は粒が揃ってる。守屋廉と春日井陽菜、あの二人はちょっと怖いよな」
「私はそこに、水理湊と今度桜都も入ると思う。……でも、強いて一人だけ挙げるなら、やっぱり春日井陽菜」
陽子は珈琲を一口啜り、思い出すように目を細めた。
「あの佇まい。研ぎ澄まされ過ぎてて、うっかり触ったらそれだけで指が切れそうだなって思ったのよ」
「切れそう……ね。ま、何にせよ、誰も死なせないように見張るのが俺たちの仕事だ」
ガタ、と光が椅子に深く座り直したその時、夕日が山の端の裏へと静かに沈んでいった。
途端に、演習場全体を包み込むように不気味な冷気が広がり始める。
ロッジの窓の外には、極寒の闇に飲まれていく陰鬱な黒い森が広がっている。
会話を止めた二人のコーヒーカップからも、いつの間にか、温かな湯気が完全に消え去っていた。
◇
夕方から夜にかけて、山の気温は急激に低下していく。
標高の高いルートを進むA班は、初日に設営した拠点へと戻り、赤々と爆ぜる焚き火を囲んでいた。周囲は深く湿った空気に包められ、視界の先にある密林は、夜の帳とともにその輪郭を禍々しく変えつつある。
「……なんか、上のほうで魔力と闘気がやたらと渦巻いてんな……?」
ランドが、時折風に乗って流れてくる不穏な空気の波形を肌で感じ取り、険しい顔で山頂のほうを睨みつけた。
「誰かが、激しく戦っている。……こっちも油断できないな」
ミナトが焚き火に薪をくべながら、静かに、しかし警戒を孕んだ声で応じる。
「僕たちは初日、このあたりで確かに“殺気”を感じた。いつ何が襲ってきてもおかしくない」
「ミナトも気付いてたか。やっぱりな……俺もさっきから、なんか首筋がチリチリするなぁって思ってたんだ」
ランドが首の後ろをガシガシと掻きながら呟く。
二人の視線が、自然と女子二人が身体を休めている天幕の方へと向いた。今ある防衛手段は結界魔法だが、夜通し魔力を感知網に回し続けるのは、精神的にも魔力的にも負担が大きすぎる。
「結界魔法だけに頼るんじゃなくて、“鳴子もどき”を作るか」
「ん? なんだって?」
ランドが聞き返す。
「水分を完全に抜いた枯れ木を作って、拠点の周りに敷き詰めておくんだ。それを踏めば嫌でも大きな音が鳴る。そうすれば、神経をとがらせて探知魔法を張り続けなくても、こちらに歩き寄ってくるものを物理的に検知しやすくなるだろ?」
「お、いいね! 魔法の燃費も浮くし一石二鳥じゃねえか。薪の余りを使うか?」
「そうしよう。……ただ、この湿気だ。さやかに頼んで、水分を強制的に飛ばしてもらおう。乾燥させる作業なら、彼女の魔法が一番適任だからね」
ランドはミナトの提案にニヤリと笑って頷くと、すぐにさやかを呼びに天幕へと向かった。ミナトはその間に立ち上がり、足元に転がっている薪の残骸や、周囲の比較的乾いていそうな細い枝を手際よく集め始める。
「何々? ミナト君、私に何かお手伝いできることある?」
ランドに声をかけられ、天幕から元気よく飛び出してきたさやかが、ミナトの元へと駆け寄ってきた。その足取りは軽いが、夜の寒さのせいか、心なしか少し顔色が白いようにも見える。
ミナトは彼女の様子をそれとなく気にかけながら、集めた枝の山を示した。
「これの『除水』をお願いしたいんだ。水分を完全に飛ばして、脆い枯れ枝にしてほしい。それを周囲に撒いて“踏み鳴子”を作ろうと思うんだよ。そうすれば、結界魔法に頼る負担を減らせるから」
「りょうかい! お安い御用だよ。ここにあるやつ、全部カラカラに乾かせばいいんだね?」
「ああ。ありがとう、頼むよさやか」
さやかがパッと手をかざすと、湿っていた枝の山から白い湯気が文字通り蒸発するように立ち上り、一瞬にして踏めば一発で爆ぜるような、極限まで乾燥した枯れ枝へと変貌していく。
(これでいいはずだ。何も問題ない。やりすぎるほどに警戒している。そもそも、この演習の『危険度1』が正しいなら、仮に襲撃されてから動いたとしても、命に関わるような問題は起きにくいはず……)
そう自分に言い聞かせるミナトの視界の端で、おかしな光景が広がった。
(……って、おい、ランド、何してんだお前は)
さやかと一緒に天幕から出てきたニーコスの長い耳が、周囲の森の微細な音を拾うために、ピコピコと健気に動いている。ランドはそれにたまらず吸い寄せられるように近寄ると、じっと見つめながら呑気に話しかけていた。
「なぁなぁ、その耳ってどこまで動くんだ? もう最近、そればっか気になって夜も寝れねぇんだよ。教えてくれ」
「え? 耳? 動いてる……?」
ニーコスは驚いて、自分の耳を手で触り、それが確かに小刻みに動いているのを感じて目を丸くした。
「え? うそ、知らなかった……動いてたんだ、私の耳」
「ニーコスちゃん、自分でも気づいてなかったの?」
さやかがクスクスと笑いながら突っ込む。
「うん、なんかこの、引っ張られる感じの感覚が、そのまま耳を動かしてたのかぁ~」
ふにゃっと気の抜けた笑みを浮かべながら、自分の身体の不思議な秘密に新鮮に驚いているニーコス。緊迫した夜のベースキャンプに、そこだけふわりと温かい日常の空気が流れる。
だが、その瞬間――不穏な魔力と濃密な殺気を孕んだ風が、ガサガサと冷たく周囲の森を揺らした。
ミナトはその風の冷たさにハッとさせられ、ランドたちの会話から再び暗い密林へと鋭い視線を戻す。
A班は、その不気味な暗闇を五感で睨み据えながら、拠点の周囲に入念に“踏み鳴子”の枯れ枝を敷き詰め終えた。
そして互いに夜間の見張りシフトを確認し合い、静かに眠り(休み)へとついていった。彼らを狙う影が、すぐそこまで迫っていることにも気づかずに。




