森林サバイバル2日目 A班 標高変化と森の“顔”の変化
二日目の朝。森の湿度は昨日よりもさらに高くなり、肌にまとわりつく空気そのものがずっしりと重く感じられた。
A班は川沿いの低地を後にし、チェックポイントを目指して、ゆっくりと斜面を登り始めていた。
標高が上がるにつれて、周囲の景色が目に見えて変わっていく。
昨日まで頭上を覆っていたブナやミズナラの広葉樹が減り、代わりに鋭い葉を持つ針葉樹が目立ち始める。それに伴って鳥たちの賑やかな声は数を減らし、代わりに冷たい風がパサついた枝を擦り合わせる陰鬱な音が増えていく。地面は徐々に乾き、歩行の衝撃を吸収してくれていた落ち葉のクッションも薄くなっていった。
「……森の匂いが変わったね」
先頭を行くニーコスが、フッと鼻を鳴らした。その呼吸は昨日と変わらず浅いものの、驚くほど軽い。
「ここから上は“針の森”。さっきまでの場所と違って、食べられる木の実はすごく少ないよ」
彼女の歩調には、疲労の色がまったく見られなかった。
むしろ、低地の悪路を抜けて森の表情が険しくなるほど、彼女の身のこなしはより滑らかに、より無駄のないものへと研ぎ澄まされていくように見える。
「おい、ニーコス……お前、なんでそんな平気な顔して元気なんだ……? 俺、結構ふくらはぎにキてんだけど……」
大きな背嚢を背負ったランドが、少し荒くなった息を吐きながら情けない声を上げた。
「ん? 森だからかな」
ニーコスは不思議そうに首を傾げ、ピンと立った耳を揺らした。
「みんな、一歩ごとに地面を深く踏みすぎだよ。それは人間の疲れる歩き方。……あとね、私にはみんなよりも“森の音”がちゃんと聞こえてるから、歩くリズムが崩れないの」
ニーコスが足を止め、小さく耳を澄ませる。
はるか遠くの繁みで小動物が走る足音、硬い樹皮を何かが剥ぎ取る微かな摩擦音、そして木々の隙間をすり抜けていく風の複雑な流れ。そのすべてが、彼女の脳内では立体的な“音声の地図”として完璧に描かれているようだった。
「……すごいなぁ。私なんて、自分の足音とランド君の荒い息づかいしか聞こえないよ」
さやかが心底感心したようにため息を漏らす。
俺はその横で、ニーコスの足元と身体のラインをじっと観察していた。
(……間違いない。ニーコスは疲労が圧倒的に少ない。動きを見ていてはっきり分かった。彼女は歩く時の重心移動が異常に上手いんだ。斜面に対抗してバランスを取るための余計な筋肉の張りが、最初からほとんど見られない。常に一瞬で体幹の『芯』が立っている。というか、芯が立った綺麗な姿勢のままで、地面を飛び跳ねるように滑空しているんだ。これ、単なる慣れだけじゃないな。骨格や筋肉の付き方――身体そのものが、この環境に最適化されて出来ているのか……比べて俺たちは、一歩踏み出すたびに足の裏で地面を掴む様にしてしまう。その時足どころか体全体の筋肉が拮抗しながら動いている。だから疲れるんだ。いいな、なんであんな水みたいな動きができるんだ?)
事前のデータにあった「持久力の弱さ」の正体が見えてきた。彼女はスタミナ量は多くない。それは陸上での走り込みの時に、一番最初に、しかも数十秒で、蹲っていたことが証明している。しかし、ここ森?いや不整地か?ではエネルギーの消費効率が極限までゼロに近いのだ。羨ましい。俺も森の中を自由に歩いてみたい……。
ミナトは、荷物を抱えながら、猫足立になり、跳ねてみる。そして、すぐに後悔した。
(くっ、攣りそうになった。なんだこれ絶対無理だろ。くっそ、バネを効かせて重心移動を真似れば良いんじゃ無いのか?真似して、涼しい顔できると思ったのに……。ん?なんだランドが見ている、その口元はいったい。なぜ笑う?……あ、あいつ、猫足立している、まさか!)
ドシャ、べしゃっ……
(……とはいえ、彼女が言った通り、ここから先は採集の“対象”となる資源が激減する。現地の恵みに頼れなくなれば、彼女の野生の強みは間もなく目減りしていくはずだ。……ここからが、俺の引いた設計図の本当の本番だな。)
俺は手元のノートを強く握り直し、針葉樹の影が濃くなっていく先を見据えた。
◇
チェックポイントが近づくにつれて斜面の傾斜はさらに厳しくなり、それと比例するように周囲の木の実や色鮮やかな果実は、姿を消していった。
地面には赤茶けた針葉樹の鋭い葉がじっとりと積もり、周囲を見渡しても、およそ口に入れられそうなものは何一つ見当たらない。
「……ここは、ないね」
先頭を歩いていたニーコスが、あからさまに眉を寄せて足を止めた。
「昨日までの森と、全然違う。ここでは……木の日はほとんど……ない」
「マジかよ……! 嘘だろ、本当に何にもねぇじゃん!」
ランドが大きな声を上げ、乾いた地面をそわそわと見回す。
「え、じゃあ……今日の食料は? 昨日の分は食べちゃったし、どうするの……?」
さやかの声に、隠しきれない焦りが混じりはじめる。
「……時間をかけて探せば、少しはある」
ニーコスは静かに、けれど険しい表情のまま首を振った。
「でも、ここはすごく時間がかかる。効率が悪い。……出来れば、昨日までの場所に戻った方がいい」
彼女の呼吸は相変わらず軽い。しかし、その瞳には明確な警戒の色が浮かんでいた。現地調達を前提とする“森の民”としての直感が、このエリアの資源の貧しさに警鐘を鳴らしているのだ。
「……そうか。やっぱりか」
俺は小さく、吐き出すように呟いた。
「え? ミナト君、何か知ってたの?」
さやかが縋るように俺を見る。
(……標高の上昇に伴う、急速な植生変動。頭では分かっていたはずなのに、移動距離と変化の予測が甘かった。完全に俺の計算間違いだ。この高度、この針葉樹林帯だと、可食植物の分布密度は低地の数分の一程度か?もっと少ないかもしれない。現地の環境に依存していたニーコスの採集能力が、その環境の急変によってへし折られた……。このまま時間を浪費すれば、探索時間も体力も、補給線ごと一気に共倒れになる!)
「じゃあどうすんだよ、ミナト! ニーコスが戻った方がいいって言ってんだぞ!」
ランドが焦れて俺の肩を揺さぶる。
「……いや、戻らない。ここで予定を変更して下りれば、チェックポイントの通過ができないままになる。戻るにしても、今日チェックポイントを通過してから戻る」
ノートをパタンと閉じ、俺は顔を上げた。
「ニーコス、君に身体強化をかける」
「えっ……?」
「歩きの燃費の良さと視界はそのままに、採集の“捜捜範囲”を物理的に数倍に広げて見せる。落ちた密度を、移動速度の向上で強引に取り戻してほしい。――僕の魔法でニーコスの動線を伸ばして食料を集める――つまり、今日を回す」
「え、えっ……でも、そんなことしたらミナトの魔力が。もしミナトが途中で倒れたら……」
ニーコスが珍しく取り乱し、長い耳を不安げに伏せる。
「倒れない。安心して、僕は魔力総量自体は多いほうだから、管理できているしね。A班が“戻れる形”を維持するために、今この瞬間は、ニーコスの足が僕たちの軸なんだよ」
言いながら、俺はニーコスに向かって手をかざした。
紡いだ術式から、淡く澄んだ風の魔法が解放され、ニーコスのしなやかな両脚と肺へと滑り込んでいく。
「……あ」
ニーコスの喉から、驚きに満ちた声が漏れた。
「……すごい……息が、もっと軽くなった……。身体が、森の風と同じ速さで動く……!」
「おおっ! 動きのキレがさっきまでと全然違うじゃねぇか!」
あっという間に視界の向こうに行こうとするニーコスを見て、ランドが驚嘆の声を上げる。
「よかった……。これで、今日の食料もなんとかなりそうだね」
さやかがホッと胸を撫で下ろし、安心の息を吐き出す。
「まだ分からない。密度が低いことには変わりないから」
俺はあえて冷徹に釘を刺しながらも、前を向いた。
(魔力総量、多いほうでよかった……うん、こういう時スタミナはモノを言うね)
ちらりとランドを見る。
(ちっ、ランドの奴ニーコスのスピードだけ見てやがる。まぁいい)
「でも、これで最悪の“詰み”だけは回避できる。――行くぞ、引き離されるなよ」




