堅忍不抜:ベイルスレイブの夏 夜の回復と、主従の境界線
だいぶ先まで書き溜めができたため本日は、20時10分も投稿いたします。
どうぞ1読、お楽しみください。※8月8日まで2回投稿を実施いたします。
あと3日……頑張ります
よろしければ感想やポイントなど頂けるととても励みになります。
地獄の特訓から数時間後。
夜の宿舎の廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
ミナトは、汚れを落とした体を湯船につけ、温めながら、筋の痛みをほぐしていった。
(さぁ、この後だ、体の奥から力が湧いてくる様な、あの素晴らしい感覚が、明日、遅くても明後日には来る)
ミナトは口角をあげていた。
湯船から上がり、体をタオルで拭き上げる。
(ふっ…ずいぶん筋肉が思うように動くようになったな、上腕二頭筋!前脛骨筋!、動くぞ、動く!)
シャツと短パンを着て、首にかけたタオルで濡れた銀髪を拭きながら自室の前に立つ。
取っ手を回し、自分の部屋の扉を開けた、その時だった。
「――主様。お風呂、お疲れさまです」
静かな、けれど耳に心地よい鈴を転がすような声。
部屋の中に佇んでいたのは、リーンだった。その両手には、湯気と香ばしい香りをふんわりと漂わせるスープの器が握られている。
「……リーン? なんで、部屋に……」
「筋肉の回復に必要な栄養を補給してください。主様の体温が下がって、乳酸が固まる前に」
至って淡々と、さも当然のようにリーンはスープを差し出す。
いつも通り隙のない、完璧な従者としての振る舞い。
「……あ、ありがとう。でも、その……」
受け取ろうとして、俺はふと、自分の格好に気づいた。
風呂上がりで、薄手のシャツ一枚。髪は濡れたままで、普段の制服姿よりもずっと、肩や鎖骨のあたりが露出してしまっている。
思わず、きゅっと手元のタオルを握り直して身を縮めた。
「……あんまり見られると……」
「?」
リーンは小首をかしげた。
黒い澄んだ瞳が、まっすぐに俺の続きの言葉を待つように見上げてくる。その無防備な距離感に、心臓が余計な音を立てる。
「いや……絶対、見てたよね……?」
思わずじろりと睨むと、リーンは少しだけ目を伏せた。
その長い睫毛が、微かに揺れる。
「主様の筋肉の状態を、確認しただけです。本日の訓練は、大変お疲れのご様子でしたので」
「筋肉の状態、ねぇ……」
(そりゃあまあ、1キロ3分20秒の地獄ペースで6キロ以上走らされたからな)
ミナトは肩をがくっとおとして、何かをつぶやく。
リーンは再び顔を上げて、じっとミナトの目を覗き込んでいた。
「はい。今日の高負荷により、主様の肩と背中が少し張っています。明日は急な負荷を避け、軽い動的ストレッチから始めてください」
(な、なぜわかる!触ってもいない、見ただけで?こいつ、透視能力者か……、てことは全部?)
ミナトは少し顔を赤くしながら、彼女の差し出す温かいスープを受け取った。
「……リーンって、本当に……なんでも見てるよね」
「主様を守るためですから」
きっぱりと、一寸の狂いも遅れもなく返されるその言葉。
(これって、いつも思うけど、ふわッと硬いのがとれるよな……リーンすごいよ。うん)
「……ありがとう。でも、やっぱり、ちょっと恥ずかしいよ」
俺がスープを口に運びながら、照れ隠しに小さくこぼす。
すると、リーンは――ほんの一瞬だけ、深く息を吸った。
じっと、俺を見上げる。その瞳の奥に、いつもより少しだけ熱を帯びた、悪戯っぽい光が灯った。
「……それでは、いつもの様に?」
リーンはそっと、自身の衣服の襟元に白い指先を当てた。
微かな布擦れの音を立てて、首元を緩める。
「お召し物……いかがいたしましょうか?」
「っ……!?」
声が出なかった。
喉が詰まり、スープの温かさとは全く違う、熱い何かが一気に顔に昇る。
(なんだ、何で首元を緩めた?そういうのやめて……なんか、顔熱いし、むずむずする……)
そんな俺の慌てぶりを、リーンはじっと、どこか楽しむように見上げている。
そして、静かに、音もなく一歩だけ俺との距離を詰めた。
不意にリーンの口が半開く。
(なんだ、後ろに下がりたい、だが、主が従者から逃げちゃだめだ、にげちゃ……ごめん、許して)
ミナトはぎゅっと目をつぶる。
「……今夜も暑いです。ですが、湯冷めは体調を崩す元となりますので」
ふ、とリーンの指先が俺の肩に触れ、いつの間にか用意されていた薄手の羽織物が、俺の肩へとそっと掛けられる。
からかわれたのだ、と気づいた時には、すでに彼女は綺麗な一礼をして一歩下がっていた。
「……今日は早めにお休みくださいますよう」
声はいつも通り丁寧なのに、その響きはどこか柔らかく、甘い。
「……おやすみ、リーン」
「おやすみなさい、主様」
いつものツンとした従者に戻ったリーンは、心なしかいつもより軽やかな足取りで、部屋を退出していった。
バタン、と静かに扉が閉まる。
春の夜風が、開いた窓から入り込んでカーテンを静かに揺らす。
部屋の明かりが、ベッドの端でがくっと肩を落としている俺の影を、ただ寂しげに照らし出していた。




