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一知半解:分かるがやれない 正しいが結果がない

だいぶ先まで書き溜めができたため本日は、20時10分も投稿いたします。

どうぞ1読、お楽しみください。※8月8日まで2回投稿を実施いたします。


よろしければ感想やポイントなど頂けるととても励みになります。

宿舎の自室。

木製の椅子が冷たい音を立てて俺の身体を受け止めると、遠くの浴場から微かな水の音が、夜の闇に溶け込むように聞こえてきた。

谷底の夜は急激に冷え込む。短い夏の前触れであるこの時期こそ、昼夜の寒暖差は凶器のように牙を剥く。だからこそ、今、目の前で静かに立ち上る湯の湯気が、たまらなくありがたかった。


けれど、俺の顔に笑みはなかった。


「主様、お帰りなさいませ。お疲れ様でございました」

お盆に温かい湯を載せて、リーンが音もなく歩み寄る。


「……“正しい”って、教官に言われたよ」

湯飲みから広がる熱を手のひらで受け止めながら、俺はぽつりと言葉を零した。

「でも、結果がない。……頭では分かっているのに、動けないんだ」


「『正しい』だけでは、相手に“読まれます”」

リーンはいつもの穏やかな、けれど芯のある声で言った。

「主様の予測がいくら精緻であっても、それを実行する肉体に淀みがあれば、それ自体が敵にとっての新たな『焦点(ターゲット)』になり得るのです」


俺は、小さく息を吐き出した。


「追跡者……。やっぱり、すごかった」

喉の奥に引っかかった敗北感を絞り出すように言う。

「焦点を奪われた瞬間、俺は何もできなかった。あの距離の詰め方、視線の誘導……完璧に嵌められた」


「……あれは、教育などではありません。『殺し』の手前でした」

リーンの瞳が、暗がりのなかで一瞬だけ冷たく光る。

「教育者の顔をしていましたが、あの手際の鋭さは、紛れもなく実戦(ごろし)のそれです。非常に危険でした」


少しの間、部屋を沈黙が支配する。

俺は湯飲みを見つめたまま、胸の奥で燻り続けていた泥泥とした熱を、これ以上抑えきれなくなっていた。


「リーン……」


「はい」


「リーン……」


「はい……何でも言ってください、ミナト」

リーンの声が、包み込むように優しくなる。


「悔しかった……!」

絞り出すような声に、熱い感情が混ざる。

「なんでできないんだ。なんで、あんな軽い一撃すら避けられない。見えているのに、完璧に分かっているのに、身体がついてこない……!」

ギリ、と奥歯が鳴る。

「……身体を、鍛える。思った通りの反応に、肉体を追いつかせる」


その言葉を聞いた瞬間、リーンの額の角が、暗闇の中でわずかに青白い光を帯びた。

「はい、ミナト。身体を鍛えるのは、極めて理に適っています」

彼女のまとう空気に、確かな熱が宿る。

「その悔しさは、私も同じです。私の大切な主様を、あのような形で侮辱した者たちを……ミナト、必ず見返してやりましょう」


「リーン……」

張り詰めていた緊張がほんの少しだけ解け、かすれた声が零れた。


静かな夜の気配が戻ってくる。

リーンは小さく咳払いをすると、慇懃な『同伴者』としての佇まいを取り戻し、目を細めた。


「それはそれとして、主様」


「……え?」


「さやか嬢の扱いについてですが、そろそろ明確に決めるべきです」

その声のトーンは、先ほどまでの温かさから一転して、驚くほど硬かった。

「彼女の親切心や誤解がこれ以上積み重なれば、私たちの行動の『導線(場)』が詰まります。極めて不測の事態を招きかねません」


俺は、思わず額を押さえて、大きくため息を吐き出した。ごめんリーン、感情がついてこないんだ。

「……あー、うん……はぁ。それ、今、考えなきゃダメか?」


「はい、ミナト。この件は、今、何よりも重要です」

リーンの視線は一切揺るがない。真剣そのものだ。


「……っ。分かったよ、詰まらせないように、どうにかする」


「はい。それがよろしゅうございます」

リーンは満足げに、静かに頭を下げた。


「……明日も、ちゃんと戻れる形で」

俺は、自分に言い聞かせるように呟いた。


「はい」

リーンがその言葉を両手で受け止めるように、そっと微笑む。

「必ず、戻れる形で」


――。

扉が閉まり、リーンの気配が完全に遠ざかる。


静まり返った暗闇の中、俺は湯飲みを机に置くと、ゆっくりと立ち上がった。

そのまま、ひんやりとしたフローリングの床に、両手を突く。


「……見てろよっ」


自重を支える両腕に、じわじわと乳酸が溜まっていくのを感じる。


「絶対……!」


一回、また一回と、床に向けて身体を沈めていく。

昼間の情けなさ、さやかの同情、同級生たちの嘲笑。そのすべてを燃料にして、怒りを肉体の運動へと変換していく。


「追いつく、身体を……!」

「作って、やる……ッ!」


昼夜の寒暖差に冷え切った部屋の中で、俺の身体だけが、猛烈な熱を帯び始めていた。


「くそぉおおおおおおおおっ……!!」


誰も見ていない暗闇の中で、ミナトは静かに、けれど激しく、その爪を研ぎ澄ますように不格好な筋トレを繰り返していた。

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